164 98.02.09 「彼等の懐かしき日々」

 ドラクエという単語が鼓膜に響き、私は思わず耳をそばだてた。
 ひとと待ち合わせをしていたのだが、ま、それはどうでもよい。ぼ~っと間の抜けた面を曝して夕闇の雑踏に突っ立っていると、大学生と思われる二人の会話が耳に入ってきた。彼等も誰かを待っているらしいが、とりあえずはドラクエの話題に花を咲かせている。ローラ姫、ラダトーム、シャンパーニの塔、ベホマ、ミミック、はぐれメタル、幸せの靴などといった馴染み深い単語が飛び交うのであった。
 私も一連のドラクエシリーズには寝食を忘れて入れ揚げたクチだが、どうも二人の捉え方はずいぶん私とは違うようだ。二人は「懐かしむ」といった雰囲気を濃厚に漂わせながら、ドラクエを語るのであった。そういう話題の取り扱い方は知っている。私の世代が、たとえばウルトラマンについて語るとき、やはり似たような空気を醸し出す。
 それがなんであれ、懐かしむという行為の背景には、当時の自分と現在の自分との間にはかなりの隔たりがあるとの認識が明白に存在する。ドラクエやウルトラマンを懐かしんではいるのだが、その裏側では、そういうものに耽溺した自分を懐古している。成長か退歩かは知らないが、どちらにしろ変化した自分の確認作業である一面は否定し難い。いまの自分はあの頃とは違うから、懐かしい。見かけ上の対象となっているドラクエやウルトラマンが懐かしいのではない。それは触媒に過ぎない。あんなものに熱中していた自分が懐かしいから、あんなものを懐かしく思い出す。あんなひとに熱中していた自分が懐かしいから、あんなひとを懐かしく思い出す。懐かしいのは、幼かった自分である。戻れない、あるいは戻らないから、安心して懐かしむ。旧懐は、その場所から遠去かってしまった自分を確かめる作業の表層的心情に過ぎない。
 なお、以上の懐古理論は、話の展開の都合上、今とっさにでっちあげた極論なので、鵜呑みにされては困る。いや、ほんとは困らないが、ともかく嘘八百である。
 ドラクエは、私にとっては別に懐かしいゲイムではない。ついこのあいだ耽溺したばかりのゲイムのひとつである。私自身にも私を取り巻く環境にもさしたる変化がないので、そういう見解を抱かざるをえない。そこへはすぐに戻っていける。ファミコンにカセットを差し込み、スイッチを入れるだけの話だ。
 しかし、私の傍らで夢中で語り合う大学生二人が同じ行為をしたとすると、彼等の胸中には感慨が横切るのである。二人にとってのドラクエは、子供の頃にのぼせあがった特別なゲイムなのだ。彼等はあまたの裏技やダンジョンの奥深くで入手できるアイテムを確認し合いながら、異様なテンションで盛り上がっていくのであった。
 初期三部作は特別なものというのが、二人の共通認識であるようだった。四作目以降は、なにか違う別なものであるらしい。そういう差別化はよくわかる。思い入れが甚だしい分だけ、ひとは排他的になる。私にとっても、帰ってきたウルトラマン以降は別なものである。ウルトラセブンまでしか認めない。きわめて狭量なのだが、そういう傍若無人の思い入れなくしては、記憶の中の宝物は保持できないのだから仕方がない。
 そのうちに、二人の一方がカツアゲ体験を白状し始めたので、私はこみあげる笑いを噛み殺すのに往生した。発売日に購入したての下級生を脅してブツを巻き上げるという例のアレだ。
 そうか、君がやっておったのか。社会面に彩りを添えたあの騒ぎを巻き起こしたのは君であったか。そうまでしてドラクエをやりたかったか、あの頃の君は。
 懐かしい日々は、彼等のどこかに引っかかっている。
 私の待ち人より、彼等の待ち人のほうが早く到着した。女の子が二人。どう見ても中学生である。あらまあ。その会話を洩れ承るところによると、その四名の若人はこのあと、ある種の条例を黙殺した所業に及ぶらしい。あらまあ。
 ローラ姫の救出行は、彼等にとっては遥かな日々の夢物語であるらしかった。

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