165 98.02.11 「大舞台」

 BSチューナーがとうとうあの世に召されてしまった。昨年末頃より妙に画面が赤っぽくなり、その余命がいくばくもないことを明示していたのだが、このたびついに天寿を全うしてしまった。ソウルオリンピック観たさに購入したのだから、十年弱の天命であった。わりと長生きしたほうかもしれない。って、犬じゃないんだ犬じゃ。
 受験生諸君にとっては今が最も大事な時かもしれないが、私にとっても今が最も大切な時である。冬季オリンピックというものを満足に観られないのだ。受験生諸君には来年があるが、私のオリンピックには来年がないのだ。
 なにゆえに、この時期を狙いすましたかのように、命を絶つか。私がいったいなにをしたというのだ。ちゃんとNHKには年貢を納めてきたではないか。WOWOWに加入しないのを恨んでいたのか。もしそうなら、済まないことをした。映画さえ放送しなければ、加入するにやぶさかではないのだが。
 結局、仕方なく地上波によるオリンピック映像を眺めている。公共民放を問わず地上波の報道姿勢には予想通りうんざりさせられるのだが、そんな繰り言はおいといて、やはり「おおぶたい」が多数派なのであった。これまで六人のアナウンサーが「大舞台」を口にしたのを聞いたが、五人が「おおぶたい」、ひとりが「だいぶたい」であった。まだサンプルが少ないが、だいぶたい派の私の旗色はまだ悪い。アナウンサーの裁量に任されているのではなく、各々の放送局の内部規範によるのかもしれないが、とにかく「だいぶたい」は覇気がない。少数派だ。
 「おおぶたい」は、どうにもむずがゆい。私のねじくれた言語感覚では「大舞台」は「だいぶたい」である。ところが、これは辞書業界からは無視された言い草なのだ。見捨てられた少数意見なのだ。「おおぶたい」が、一般的であり普通であり常識であり普遍的である。
 この件について、かつて言葉の専門家に教えを乞うたことがある。基本的には「だい」は漢語に付着し「おお」は和語にへばりつく、との御教示を賜った。しかるに、「舞台」は漢語である。ここで、「舞台」は漢語的であるか否か、という問題が浮上する。漢語ではあるが、漢語的ではないのではないか、というたいへんわかりにくい疑念が、表面化するのだ。ここまでくると、私にはなにがなんだかわからない。
 原則に従えば、漢語たる「舞台」に「大」という帽子をかぶれば、「だいぶたい」となるはずなのだ。そうはいっても、「おおぶたい」である。なぜならば、「舞台」という言葉を漢語というエリアに取り込ませまいとするチカラを、「舞台」はすでに築いてしまったからだ。原則は原則だから原則なのだ。「舞台」は漢語でありながら、ほとんど和語と化している。だから、「おおぶたい」なのであった。
 というような理論構成は、アタマは納得できるがココロは納得できない。アタマでは非常によくわかる。アタマではすっきり理解できる。
 とはいっても、私のココロは煩悩の虜だからなあ。ま、私の中の軋轢はどうでもよいが。
 和語、漢語、とくれば、外来語はどうなんだ。とも、思う。「大サービス」はなんと読むか。まあ、漢語も外来語も同じようなもんか。
 つまるところは、和語と漢語とで分類する自分が、どうにも間が抜けているとしかいいようがない。そんなこと考えて言葉を使うひとはいないもんなあ。
 もはや、BSチューナーなどという時代錯誤の装置は販売されてはいないだろう。販売していたとしてもそれは高価に違いない。同じ価格でBSチューナー内臓テレビを贖なうことができると思われる。
 惨敗、私はいま人生の大きな大きな舞台に立っている。新しいテレビを、買うべきか買わざるべきか。大舞台である。もちろん、だいぶたい、である。カネは、ない。もちろん、ない。しかし、未来はある。クレジットカードという名の未来は、ある。遥か長い道のりを歩き始めた私に幸せはあるのか。
 どんな道だかよくわかんないけど。

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