163 98.02.07 「何番線やろか」

 JR和歌山線は、和歌山と奈良を結ぶ路線かと思われるが、正確なところは知らない。私はその中ほどの二区間を利用するだけである。また訪れることがあるかどうかもわからない通りすがりの者にすぎない。
 真田庵へは南海高野線の九度山駅経由で辿り着いたのだから、帰途は同様に引き返せばよさそうなものだが、どのみち単独行で明確な行動指針があるわけでもない。真田庵を出た私は、JR高野口駅に向かった。
 どこにでも妙な人物は出現するものだが、昼間は無人駅となるJR高野口駅にも現れた。このおっちゃんは、閑散とした構内に居合わせたすべての人物に同じ問いを発するのであった。
「すんまへん。難波に行くには、橋本駅で何番線に乗ればええんやろか」
 ネイティブスピーカーではないので正確な再現はできないが、だいたいそのような主旨の質問である。難波へ辿り着くには、二駅先のJR橋本駅で南海高野線に乗り換えればよい。
 私は、ささささっとホームへと逃げ込んだ。きっと誰かがおっちゃんに正答を与えるだろう。私もおっちゃんと同じ経路で難波に向かうのだが、おっちゃんの問いには答えられない。そんなことは橋本駅に着けばわかるではないか。何番線かを知る必要もない。案内板に従って進めばよい。
 しかし、おっちゃんには何かよんどころのない事情があるのだろう。やたらと尋ね回るのであった。電車には滅多に乗らないのだろう。「家族に何度も確認して高野口駅までやって来たというのに、なんということだ、橋本駅で何番線に乗り換えるかを失念してしまった。俺はなんという間抜けなのだ。どうすればいいのだ。乗り間違って高野山に行ったらどうするのだ。何番線だ。何番線なのだ。俺の人生は何番線かにかかっている。誰かに訊かねば。訊かねばの娘」そういった成り行きで、おっちゃんは尋ね回っているのでないか。
 構内は人材不足であったらしい。誰もおっちゃんに正しき道を教示できなかったようだ。でなければ、おっちゃんがベンチに座っている私の前に来ることはない。
 何を尋ねられるかを予め知っている場合には、回答を用意しておくのが常識であろう。貴社の先見性、将来性を鑑み、とかなんとか。だが、尋ねてくるとは思いもしなかった人物が目前にやって来て、そのくせ一瞬後に発せられる質問を熟知している、といった情況にはどう対処すればよいのであろうか。
「すんまへん。難波に行くには、橋本駅で何番線に乗ればええんやろか」
「すんまへん。わかりまへんのや」
 あわてふためいて、謎の関西弁を弄する私なのであった。
 どうして、そうなってしまうのだろう。頼むから、誰か答ってやってくれよ、おっちゃんの質問に。
 おっちゃんは、ホームにいたすべての人物に問い掛け始めた。誰も答えられないらしい。考えてみれば、そういうものなのかもしれない。何番線であろうが、その数字を予め知っておく意味はほとんどない。そこに着けば、案内板やアナウンスが懇切丁寧に乗るべき電車を教えてくれる。着けばわかることなのだ。
 だが、おっちゃんは、そうは考えない。自分が辿り着くべきホームの数字は知悉しておくのが、おっちゃんの哲学だ。忘れてしまったのなら誰にでも尋ねるのが、おっちゃんの生き方だ。
 やがてやって来た電車に乗り込んだおっちゃんは、自らの生き方を貫くのであった。さっそく車内を歩き回り、乗客をひとりひとり問い詰め始めた。先ほどからずっと眺めていると、もはや問い詰めると表現した方が適切ではないか、と思えてくるのだ。おっちゃんの魔力である。実際に、ふた駅先が橋本駅であり、おっちゃんは切迫している。次第に余裕がなくなりつつあり、語調もきつくなっている。
 やはり誰も答えられない。尋ねられた中には、何番線かはわかっているひともいたのではないか。「あらためて真っ向から尋ねられると、とたんに自信がなくなってくるな。万が一まちがっていたとしたら、このおっちゃんは苦情を申し立ててくるんじゃないかなあ。だったら、知らないと言っておこうっと。みんなもそう答えてるようだし」そういった思考を辿ったひともいたのではないか。
 ついに、電車は橋本駅に着いた。おっちゃんは、人の流れに乗って南海高野線に乗り込んだ。とくに迷った様子もない。
 な、そうだろ、おっちゃん、着けばわかるんだよ。ひとに訊くことなんかないんだってば。
 だが、おっちゃんはおっちゃんであった。おっちゃん以外のなにものでもなかった。電車を乗り換えたくらいでは、生き方を変えたりしないのであった。
 おっちゃんは、車内の人々に尋ね始めた。
「すんまへん。梅田に行くには、難波駅で何番線に乗ればええんやろか」

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