162 98.02.06 「乗り越すほど」

 近頃、なんのつもりか電車で通勤している。知り合いに会いそうでなかなか会わないのが電車であると万葉集にも歌われているが、本日は帰途の車中でタヌキちゃんを見かけた。
 うら若き女性に対してタヌキちゃんとは失敬千万とも思えるが、周囲の人々は当り前のように彼女をそう呼ぶし本人も当り前のようにそう呼ばれているので、私も当り前のようにそう呼んでいる。田貫という苗字なのかもしれない。はたちそこそこの快活な女の子だ。タヌキちゃんは私が昼食の際に時折訪れる喫茶店のウェイトレスであるから、「タヌキちゃん、Aランチね」が、基本的な用法だ。応用としてはもちろん、「タヌキちゃん、Bランチね」が挙げられる。
 タヌキちゃんは、なにやら熱心に文庫本を読んでいた。声をかけようかともふと思ったが、当然のことながら読書の邪魔をするのは失礼だ。まさか、ランチをオーダーするわけにもいかない。ランチの時間はとうに終わっている。それに、私は私で、岳宏一郎を読まねばならない。
 タヌキちゃんは、私と同じ駅で降りた。わりと近所に住んでいるのかな。まず、そう考えた。しかし、タヌキちゃんの様子が、どうもおかしい。ホームに佇んだまま、ぼうっとしている。頬が上気して、心ここにあらずといった風情だ。なおも眺めていると、やがてこちらの存在に気づいたらしく、気恥ずかしげにぺこりとお辞儀をした。
 まさか、Aランチね、とは言えない。タヌキちゃんに歩み寄った私は、「どうしたの?」と訊いた。
「乗り越しちゃったんです」
 タヌキちゃんの返事は単純明解であった。
「ふた駅も乗り越しちゃったんです」
 にこにこしながら、タヌキちゃんは言うのであった。
「そりゃまた、どうして。眠ってたわけじゃないだろうに」
 タヌキちゃんはずっと本を読んでいたはずだ。
「本に熱中して、降りるの忘れちゃったんです」
「ははあ。なるほど」
 私も書物に熱中するあまりの乗り越しは時々やらかす。あれは物悲しい失態だ。しかし、活字を所持せずに電車に乗るなどという暴挙は金輪際できない。約束の時間に遅刻してもかまわないから、せめて売店で新聞くらいは求めたい。そういう体質である。なんらかの活字を持っていないと、気が狂いそうになる。かといって、手にした活字を読まないこともある。読もうと思えばいつでも読める、という情況の確保が重要なのだ。老い先短いこの人生、この厄介な体質となんとか折り合いをつけながら、電車に乗っていく他はないだろう。幸い、こういう活字中毒者はかなり多いらしいので、その点での疎外感がないのが救いと言えば言える。
 だが、私は甘かった。私の認識は、実に甘かった。書物に耽溺して乗り越すのは、けして失態ではなかったのだ。
「乗り越したにしては、やけに嬉しそうだね」
 私は、なんの気なしに、訊いた。
 そして、私の問いに対するタヌキちゃんの回答は、完全に私の意表をついた。
「え? 嬉しいと変ですか? 乗り越すほど素敵な本に出逢ったんですよ。嬉しいじゃないですか」
 私は、呆然とした。頬を、思いっ切りひっぱたかれた気がした。私は、ことばを失った。
 そのとき、タヌキちゃんが引き返すべき電車の出発を告げるアナウンスが流れた。タヌキちゃんは、またぺこりとお辞儀をして、車内に駈け込んで行った。
 私は依然として語るべきことばを失ったままで、タヌキちゃんを見送った。
 書物に熱中したあまり乗り越す。それは、大いに喜ぶべきことだったのだ。失態なんかじゃなかった。尊ぶべきことだったのだ。
 私は打ちひしがれた。はたちそこそこの女の子に、こんなにも単純でこんなにも大切なことを教えられている。
 タヌキちゃんを乗せた電車は、あっというまに見えなくなった。
 いったい私は、今までなにを学んできたのだろう。

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