161 98.02.05 「花の香り」

「フローラルはまずいんじゃないのか」
 風呂から出てきた森崎某は、私に意見するのであった。
 ひとのうちにタダ酒を呑みに来て風呂にまで入りしかも今夜は泊まろうと勝手に決めた男は、その家主が使用しているボディシャンプーに難癖をつけるのであった。
「フローラルは、ちょいと恥しいんじゃないか」
 そのような御主旨である。「植物物語」という製品の、フローラルと名づけられた芳香が漂う代物を、現在私は使用している。べつにこだわりがあるわけではない。たぶんワゴンで安売りをしていたのだろう。
「そもそも浴用石鹸は、牛乳石鹸の固形のものがその白眉とされるが」
 森崎某は滔々と自説を述べるのであった。
「まあ、私もさほど心の狭い人間ではない。柔弱きわまりないボディシャンプーといった新参者を認めないわけではない」
 狭いよなあ、その心。
「さりながら、植物物語とはなんであるか。なにゆえに、貴様はかかる女子供が用いるが如き軟弱な製品を使って恥じないか」
 偏見だなあ。差別感に満ち満ちてるなあ。
「とはいえ、百歩譲って、植物物語は許そう」
 譲ってくれとは言ってないぞオレ。許してくれなくてもいいし。
「しかし、フローラルはだめだ。これはだめだ」
 隠しておいたバーボンを勝手に探し出してその量を半分ほど減らし、そのうえで風呂につかってきた男は、更にそのボトルの中身を自らの胃の腑に移し替えながら、だめだだめだと言い張るのであった。
「だいたい、フローラルとはなんだ」
 森崎某は力みかえった。
 その瞬間、我々は顔を見合わせた。はて? その単語は、いったいどういう意味なのであろうか? この時点でようやく判明したのだが、実は、両者ともに「フローラル」という言葉の意味をよく把握していなかったのであった。
「花に関係あるんじゃないのか」
「花っぽい、ということか」
「なんだそれは」
 ペイジの間から伊藤博文の千円札が発見されるといったささやかなエピソードを折り交ぜつつ、我々は辞書をひもといた。日付も変わって久しい深夜に、いったい何をやっておるのだろう。調査の結果、「floral」とは「花の」という意味の形容詞であることがわかった。
「そのまんま、という感じだな」
「肩透かしを食った気分だな」
「わからないもんだな」
「うむ」
 フローラルとはそういうものであったのか。もっと大層な意味があるのかと思っていたが、恐れるほどのものではなかった。幽霊の正体見たり、といったところか。我々がものを知らないだけだが。
「さて、フローラルがいよいよ恥ずべき代物であることが、これではっきりした」
 森崎某はまたも飛躍するのであった。そのへんが私にはよくわからない。どうも、「花は女のものである」という謎の固定観念があるらしい。「ピンクは女性を表し、青は男性を表す」というような捉え方の敷延らしい。そういう記号論的な見方を、我が家の風呂場に持ち込まれても困る。
「待てよ。たしか、フローラルの香り、と書いてあったはずだな」
 森崎某はいきなり疑念を抱くのであった。
「そうすると、花のの香り、になってしまうな。いかんのではないか」
 どうでもいいじゃねえか、そんなこと。
 だが、私が止める間もなく、森崎某は風呂場に確認しに行ってしまった。そうして、沈痛な面持ちで戻ってきた。
「この議論の前提に、重大な瑕疵が発見された」
 議論ったって、てめえが一方的に偏見を開陳しているだけだろうが。
「議論を初めからやりなおそう」
 何を言いだすのか。
「実は、ボディシャンプーなどではなかったのだ。ボディソープだったのだ」
 森崎某は苦悩に満ちた眼差しで、私に訴えかけるのであった。
「……」
「……」
 やがて、私は言った。「もう寝るわ、オレ」

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