160 98.02.03 「教育とはなんだ」

 コンビニエンスストアの中を回遊していた私は、文具コーナーの前でふと立ち止まった。
 正確には、その問題の品の前を二歩ほど行き過ぎ、後戻りした。私の注意を惹いたその問題の品は、「教育おりがみ」なる代物であった。教育というものはこれに失敗すると「切れる」ということで昨今なにかと話題になっているが、こうしたささやかな品にも冠せられているのであった。実体はごくありきたりの折り紙セットである。教育の現場で使用される目的を想定して命名されたのであろう。教材としては、なんの工夫もない、いっそすがすがしいとさえいえる商品名である。
 しかしひとたびコンビニエンスストアにその活躍の場を求めるとなると、いささか事情は異なってくる。「教育おりがみ」である。その発祥から哀しい原罪を背負ったこの世間知らずがうかうかと世に出れば、自ずと鈍い異彩を放たずにはいられないのは自明の理である。「教育おりがみ」である。こんな世俗にまみれた雑踏に、いったい何をしにきたのか。コンビニエンスストアは汚濁のるつぼだ。繊細を切り捨てなければ生きていけない。今ならまだ引き返せる。君が本来いるべき場所へ帰ってはどうか。それは敗北ではない。俗塵の中でさえ誇りを失わなかった君の、栄えある帰郷だ。昂然として自己を見失わなかった君を、教材業界は喝采をもって迎えるはずだ。
 とはいえ、私が無言でなにを語りかけようとも、「教育おりがみ」はそこに存在しているのである。無言でそんなことを語りかけていたのかオレは、と、うろたえてしまうのは否定しがたい。
 「教育」である。それを言っちゃおしまいよ、という最終兵器である。その名のもとに様々なことが様々に行われてきた例のアレである。自らを無敵と錯覚している道化師である。こいつが前面に登場するといろいろと問題が起こるが、「教育おりがみ」の域にとどまっているのなら、まあ、目くじらをたてることもない。
 教育である。私はきびすを返し、おりがみ以上に「教育」が似合う商品があるか否かの検証作業にかかった。「教育かみそり」、笑えない。「教育ウーロン茶」、まずそうだ。「教育肉まん」、これはちょっと食ってみたい。「教育ロックアイス」、これはファンになりそうだ。「教育新聞」、こいつはどうにも魯鈍きわまりない。
 店内を不毛に徘徊し、私は再び文具コーナーの前に立ち戻った。殺人犯が現場に舞い戻る心境といえようか。こうした一連の不可解な行動を監視カメラはすべて記録しているだろうから、取手折り紙殺人事件などというものが勃発した暁には、真っ先に私が疑われることになるに違いない。折り紙つきの容疑者である。もちろん私は無実なので、万が一当局に身柄を確保された際には、本稿の存在を捜査本部に通報し「こんなまぬけな奴が人を殺せますか」と啖呵を切って頂ければ幸甚である。
 「教育おりがみ」というものが、どんどんわからなくなっていく。いっそ、折り紙とは人生だ、などと無茶を言えば楽になるだろうか。そのココロは、山あり谷ありです、とかなんとか。あ、いや、大喜利にうつつを抜かしている場合ではなかった。このままでは教育的指導を受けてしまう。
 つまるところ、教育とは失敗に掛かる枕詞なのかもしれない。だがそんな怖いことは、カップ麺を買いにコンビニエンスストアを訪れた私には、言えない。
 言っちゃったけど。

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