156 98.01.29 「天使は舞い降りた」

 朝の職場において、シゴトにかかる前の短い時間に、本日の工程を脳裏に組み立てながら、お茶をすする。煙草をくゆらせるひともいるだろう。それはごくありきたりの情景である。
 どちらも口を使わねばならない。そして、私の口はひとつである。三枚の舌がある、といった謂れのある非難を浴びることはあるが、あくまで口はひとつしか有してはいない。
 煙草をくわえていることを失念してついうっかり湯呑茶碗を口元に運び、あまつさえその茶を飲もうとした男の末路には、余人にはなかなか理解し難いしみじみとした寂しさが待っている。煙草が湯呑茶碗の縁に引っかかることもなく、すっと茶碗の中に入ってしまったとあっては、その寂しさもひとしおである。
 せめて茶柱の有無を事前に確認するようなココロのゆとりがあれば、そんな事故は起こらなかったかもしれない。しかし実際には、忙しくなりそうな本日の段取りに思考は忙殺され、ただ無意識に朝のお茶を口元に運んでしまった。お茶に煙草柱をたてたところで、いいことがあるわけではない。むしろ、よくないことの幕開けとして、これ以上ふさわしい失態はないのではないか。たいがいの不幸は、ほんのささいな破綻から始まる。そして、不幸の予兆には、悔恨に苛まれながら時間を遡ったときにはじめて、その正体を白状する悪い癖がある。
 あとで判明したのだが、不幸の天使竹田弘子は、このとき既に歓喜の予感に貫かれていたらしい。くわえ煙草で湯呑茶碗を取り上げた私の姿を発見し、大喜びで物陰に隠れた、という。大喜びで隠れた、とは、なんたる言い草であろうか。
 じゅ。
 まず、鼓膜が最初に異変を察知した。それが、予兆であった。
 それは煙草の火がお茶によって消された音、あるいはお茶が煙草の火を消した音である。この現象の説明として科学者はまた別の表現を弄することであろうが、私にとっては己の失態を気づかせる音以外のなにものでもなかった。じゅ。私は驚き、混乱した。
 飲み干そうとする腕の動きを慌てて抑えようとしたが、事態は悪化の一途を辿った。
 慣性は、むろん私の心理状態には無頓着に作用する。湯呑茶碗の中の液体は私の口の周囲に一気に押し寄せた。煙草をくわえたままなのだから、唇が受けの態勢になっているはずもなく、必然的に溢れだした。万有引力は、私にもあなたにもお茶にも作用している。お茶はこぼれた。いや、単なるお茶ではない。煙草の灰が浮かび、ニコチンやタールなどが融けだしているかもしれない。一瞬前までは一介のお茶だったのだが、もはや取り返しのつかないお茶と化した液体である。それが、溢れ、こぼれた。あとは、落ちていくしかなかった。
 ここに、濁った謎の液体がわずかに残った湯呑茶碗を手に、吸いかけの濡れた煙草をくわえ、ネクタイを濡らして呆然とする男、というものが誕生したのであった。
 滑稽ではあろう。しかも、ようやく事態を把握した男は、激しく狼狽しているのである。このとき竹田弘子は、激しくこみあげる爆笑を阻止するのにたいへん苦労したと、のちに語るのであった。
 ようやく自分が何をしたかを理解した私は、すかさずあたりを見回した。様々な思惑が瞬時に胸裏に去来した。誰かに見られていたら、間髪を入れず気の利いた冗談をかましてすべてをうやむやにせねばならぬ。取り繕わねばならぬ。誰も見ていなかったのならば、こっそりとネクタイを替え何事もなかったように振舞わねばならぬ。気取られてはならぬ。どちらだ。
 あたりに人影はなかった。私はここでも例によって決定的な過ちを犯した。私が下した判断は、後者であった。よりによって最悪の人物に露見していたのだが、そんなことは思いも寄らない。
 よかった。誰にも見られてなくて。
 私は心底から安堵し、素知らぬ顔で更衣室に向かい、万が一のときのために準備しておいたネクタイを締め直した。自席に戻った私は、何食わぬ顔で本日の業務を開始した。
 糊塗は完璧であった。
 だが、見られていたのである。こともあろうに、竹田弘子に一部始終を目撃されていたのである。
 竹田弘子は、どうも人間が軽い。夫も子もあり、仕事もよくできる。この人物の難点は、いつまでたっても悪戯心が抜けないことに尽きる。ヨワイ40を重ね、その軽さにはますます磨きがかかっているとの噂だ。最近では、神出鬼没という得意技の開発に余念がないとも伝え聞く。
「見たわよ」
 本日の昼食時にも、いきなり出現した。近寄ってくる気配がまったくなかった。もっとも、私が「三笑亭」のホイコーロー定食に魂を奪われ、無心にむさぼり食っていたことは否定できないが。
 遠慮会釈もなく私の向かい側の席に座り込んだ竹田弘子は、意味深長な表情っていうのはこうやってつくるのよ、とでも言いたげな含み笑いを見せるのであった。
 私が事態の激変にうろたえていると、竹田弘子は店の奥に向かって大声を張り上げた。「ラーメンくださあいっ」
 そして再び私を見据えて、あらためて言うのであった。
「見たわよ、今朝」
 私の脳裏に、今朝ほどの失態の記憶が浮上した。慌てて、それを押し戻した。私は内心で激しくかぶりを振った。あれは誰も知らないことなのだ。私だけの胸のうちにそっとしまいこまれ、二度とは取り出されることのないちっぽけな記憶なのだ。
「なに言ってんだか、わかんないよ」
 私は取り澄ました口調を装い、とぼけてみせた。微かではあるが確かな敗北の予感を覚えてはいたが、私にもわずかばかりの意地はある。ささやかな抵抗の痕跡は残したい。
 竹田弘子にすべてを目撃されたことに疑いの余地はなかった。私の頼りない理性は、この不幸の天使が目の前に舞い降りた瞬間からそれを認めていた。つまらない抵抗は、惑乱した感情をなだめるためだけの手続に過ぎなかった。
「いま、自分はすぐに諦めるに違いない、って思いながら、演技してるでしょ」
 竹田弘子は、いきなり核心をついてきた。
「いいのよ、無理しないで。どうせ、あんたは私には勝てないんだから」
 酷い侮辱である。これほど無礼な物言いがあろうか。しかも、それはまったく正しいのである。事実を事実としてあからさまに指摘されることによって傷を負う魂が存在することを、竹田弘子はいったいどのように考えているのであろうか。
「べつにたいしたことじゃないだろ。あんなことくらい」
 漠然と予感していたとおりにすぐさま敗北を受容した私は、何段階かの虚しいであろうやりとりを素っ飛ばして、弱々しく言いつのった。
 とたんに、竹田弘子はにんまりと笑った。
「初めから素直に認めればいいのに。子供ね」
 竹田弘子は、見慣れた表情と口調で決めつけた。即ち、勝ち誇った表情と勝ち誇った口調だ。どっちが子供なんだか。自分だけが発見した他人の粗忽を、なにゆえにそこまで宝物のように取り扱うのか。
「あのさあ、そんなに愉しいわけ? ひとの失敗が」
 それが彼女の性癖といえばそれまでだが、何度も辛い目に遭っている私としては、やはり警戒せざるをえない。
「愉しいわよう。あんたは」
 即座に言い切りやがった。私としては憮然とする他はない。
「あんときのあんたの顔、見せてあげたかったわよ。情けなかったわよう」
 見たいわけがあるものか、そんな惨めな己の姿を。
 その後も竹田弘子は、私の滑稽さ加減を身振り手振りを大袈裟にまじえて再現し、私の憂鬱の増幅に専念するのであった。
「ラーメン食えば? のびちゃうよ」
 その一言だけが、私の唯一の反抗であった。私は、自分に強く言い聞かせた。オレは竹田弘子に敗北するために、ほんのすこしの間この世に寄り道をしただけなのだ。オレの棲むべき世界は、きっとどこか他のところにあるに違いないのだ。
 しかし、私にはこの世界でやらなければならないことがあった。午後には、外出しなければならないシゴトがあった。私は暗澹としたまま出掛け、重い心を抱えて帰社した。
 予想にたがわぬ展開が私を待ち受けていた。
 私の噂でもちきりだった。私は、「灰皿が見当たらないので、お茶で火を消し、しかももったいないのでそのお茶をすべて飲み干した男」というものになっていた。竹田弘子の仕業であろう。「シナモンスティックのように煙草を操る変人」という風評もあった。竹田弘子の所業に違いない。「ニコチン中毒で手が震えて、満足にお茶も飲めない」とする見解もあった。竹田弘子の所為に他ならない。
 ついには、交通費の精算をしに行った総務部において、私は「ニコチン健康法を実践する破廉恥漢」となり果てていた。私は静かに笑って、交通費を受け取った。いったい、他になにができるだろう。
 重い足取りで自席に戻ると、不幸の天使が近寄ってきた。竹田弘子は、満面に会心の笑みをたたえ、放言した。
「どう? たまにはいいでしょ? こんな歓迎」
 私は、煙草に火をつけて、白旗をあげた。
「たまには、ね」
 そうつぶやいた瞬間、私は不意に、ただ無性に海を見に行きたい衝動に襲われた。私は目を閉じた。じゅ、という音が鼓膜に甦り、幻聴の波音がそれをすぐに掻き消した。
 私は目を開き、もう一度言った。
「たまには、いいもんだよ」
 私は解放された。
 一瞬だけだったが。
 一瞬しか、竹田弘子が許してくれるはずがないのだ。竹田弘子は竹田弘子であった。不幸の天使は、あくまで私の優位に立とうと固執するのであった。
 これ以上はないと思えるすがすがしい笑みをみなぎらせて、竹田弘子は言い放った。
「この次は、もっとスゴイわよん」
 ただ、瞳だけが、笑っていなかった。
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