143 97.10.25 「その字どんな字」

「えんじょう、ですか?」
「えんじょうぎ、です。ぎ」
 相手方は携帯電話らしく、いまひとつ円滑な会話ができない。とにもかくにも、氏名を聞き取ることが、この電話において私に科された使命なのであった。
「えんじょうぎさんですか。どんな字を書くんですか?」
「違います違います。えんじょうじです。じ。てらが付くんです」
「あ、すみません。えんじょう寺さんですね。えんじょうの方は、どういう字ですか」
「えんは演習の演です」
「はいはい。演技の演ですね。」
「違います。その演じゃありません。だから、えんしゅうのえんなんですよ」
「円周率の円周ですか」
「そうじゃないです。遠州灘の遠州じゃないです。だから、えんしゅうなんですよー」
 携帯電話の悪夢といったところであろうか。
「円盤の円ですね。円高の円。通貨の円」
「ツーカーセルラーじゃないですよ。ドコモです」
 円じょう寺さんは、訊いてもいないことを答えるのであった。
「だから、円ですよね。円い円」
「あ、そうですそうです。それの旧字」
 ゑ? その展開は読めなかった。えんじょう寺さん、人が悪い。
「旧字ですか。どんな字でしたっけ?」
「四角の中にいっていう字が入ってるんです」
 囲? はて?
「囲む、ですか?」
「い、じゃないです。いん、です。いん。ええと、いんです。ほらほら、あのいん」
「はあ」
「あっ。8時だよ全員集合!の員なんです」
「ははあ。四角の中に員ですね」
「おい~す」
「ぷっ」
 私はつい吹き出してしまった。圓じょう寺さん、自らが苦し紛れにひねりだした例に引きずられて、一瞬おさない頃にかえってしまったもののようであった。
「あ。失礼しました。ついうっかり」
「いえいえ。それで、じょうはどんな字でしょう?」
「じょうしょうじのじょうです」
「じょうしょうじですか?」
 上昇時、であろうか。
「ほら、サッカーの」
「ああ。横浜マリノスの城ですね」
 城彰二は、こういうときには出さないものではなかろうか。
「えっ? ジェフ市原じゃないんですか?」
 出したわりには認識が古い圓城寺さんなのであった。
「いやまあ、移籍したんですよ」
「そうなんですかあ」
「苗字はわかりました。下の名前をお願いします」
「しげおです。長島茂雄の茂雄です」
「は?」
 それはずるいのではないか。ようやく折り返し地点に達したと思ったら、実はハーフマラソンだったのである。そこがゴールだったのである。私は虚脱した。
「もしもし、わかりましたか。もしもーし」
 圓城寺茂雄さんの声で我に帰った。
「あ、はいはい。わかりました。長島茂雄の茂雄ですね。つい拍子抜けしちゃって」
「わかりますわかります。時々いるんですよ、そういうひと」
「はあ」
 苗字の説明をもっと的確にできるようになることが、圓城寺茂雄さんの今後の課題といえるのではないだろうか。受話器を置きながら、強くそう思う私なのであった。

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