144 97.11.12 「そんな簡単なことが」

 利休箸ならば安心かというと、実はこれがそうでもなかったりするので、割り箸は侮れない。ふとした油断が命取りになる。
 元禄箸に至っては、絶対に気を抜いてはならない。全身全霊を指先にこめて、割る。ふたつに、割る。なにしろ相手は割り箸だ。一本を二本に分割しなければ、食事が始まらない。宴会も始まらない。食事をしなければ死んでしまうし、宴会をしなければやっぱり死んでしまう。死ぬのが嫌なら、割り箸を割るしかない。そこに割り箸があるなら、まずこれを二本に分割せねばならない。それが我々に与えられた使命である。
 割り箸の構造上の顕著な特質として、一方の端部の一体化が挙げられよう。この部分を切り離すことから、すべては始まる。食事は始まる。宴会は始まる。我々が生を謳歌すべき魅惑の時間をもたらすのが、割り箸である。
 ここで我々は、物事の第一歩からつまずいてしまう人々が常に存在することに、慈愛の目を向ける必要があろう。彼等は、割り箸をうまく割ることができない。実にどうも、できないのである。分割された二本が相似形にならない。一方が肥大化して他方の領分を侵犯してしまう。合わせれば元の形には戻るが、割り箸は合わせては使わない。ひとたび分割されたら、その後は付かず離れずして活躍するのが割り箸なのである。
 ひどい場合には、端部が丸ごと片側に残ってしまう。こうなるともはや箸としては機能しない。割り箸として生まれ割り箸として生きてきた人生が、真の活躍の舞台へのぼる寸前にいきなり閉じてしまうのである。いかなる食物に触れることもなく、ごみ箱へと葬り去られるのである。涙なくしては語れない非運の生涯といえよう。
 一方、ちゃんと割ることができなかった不器用な人物は、こみあげる無念に唇を噛みしめている。またひとつ貴重な森林資源を無駄にしてしまった、と、悔いている。全世界の無言の非難をその背にひしひしと感じながら更なる割り箸を求める私を、どうかそっとしておいてくれないだろうか、いやこれは私の体験談ではなかった、あくまで一般論である。そのへん、しかと了せられたい。
 しかも彼にとって、これは初めてのことではない。ありていにいって、ありがちな出来事だ。不思議なことに、割り箸の分割に失敗した人々すべてにとって、それは始めての失敗ではないのである。誰もが、以前から時折やらかしている。生まれてこのかた一度もそんな失敗の経験がないとか、そもそも割り箸を使ったことがないとかいう輩とは、このさき仲良くやっていく必要はないのでここでは無視する。どうしても「こんな失敗は初めて」という声を聞きたいのなら子供に訊くしかないが、たとえ子供がそう答えたとしても、子供の言うことなど信用できるものか。そういうわけで、誰もが上手に割り箸を分割できなかった屈辱の過去を有しているのである。うまく割れないのは私だけではない、いやいや一般論だった、あなただけではないのである。
 とはいえ、時々ならともかく頻繁に失敗するのはいかがなものか、といった意見もあろう。あろうが、どうしてあなたはそのような心無いことを言うのか。慈愛の精神があなたには欠如しているのではないか。うまく割れないんだからしょうがないだろっ。
 と、もはや一般論などと自分をごまかしている場合ではなくなってしまったが、なぜどのような文献をあたってもその正しいやり方というものが載っていないのか。和食のマナーといった類の教養書をひもといても、正しい持ち方を図解していたり迷い箸はいかんと訓戒していたりはするが、割り箸の上手な割り方はどこにも見当たらない。私は、使う以前の段階で思い悩んでいるのである。そんな簡単なこととつれなく冷笑するのはやめてくれ。ちょっとしたコツがあるのではないか、それを教えてくれ、頼む、この通りじゃ。
 知りたいことは他にもある。廃棄するか否かの分岐点はどのあたりにあるのか。新規の箸を求める際に、どれほどまでの失敗が許されるのか。少々の不揃いには耐えるべきであることはわかる。自ら招いた災難だ。我慢せねばならない。しかし我慢にも限度がある。使い辛ければ、新たな割り箸を求めるしかないではないか。どのあたりまでがじっと耐えねばならぬ失策か。どのあたりまで失敗すれば、交換を望んで恥しくないか。そのあたり、社会常識として固定観念まで育っていないのか。
 簡単なことは誰も教えてくれない。
 自ら試行錯誤しながら学ぶものだと言われても、学ぼうとし続けた時間があまりに長すぎる。もはや、進退極まった。
 割り箸なんか、この世からなくなっちゃえばいいんだっ。そう叫びながら泣きじゃくりたい気持をぐっと抑えて、私は今日も割り箸を割る。
 やっぱり、うまく割れない。利休箸だというのに。屈辱に身を苛まれながら、また貴重な森林資源を無駄に廃棄する私である。
 割り切れない。

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