132 97.09.09 「残酷な天丼のテーゼ」

 どん、という響きには、すべてを委ねてしかるべき安寧がある。羊水の安らぎがある。母なる大地に抱かれた安息がある。
 カツ丼、天丼、親子丼、牛丼、中華丼といったどんぶり兄弟もその恩恵を享受して今日の地位を築いてきた。それは、誰もが否定し得ない厳然とした歴史だ。
 この中で唯一、力強さを誇らずに繊細な味わいを前面に押し出して成功を収めてきたのが天丼だ。これから残業だっ、というときに天丼は食わない。そういうときにはカツ丼だ。自白を促すときにもよいとされる。心を満腹にしたいときには親子丼で、時間がないときには牛丼だ。ラーメンじゃこの空腹は満たされないと思えば、有無を言わさず中華丼だ。わしわしわしとかき込めば、とりあえず幸せになれる。束の間の錯覚であってもかまわない。幸せはたいてい、錯覚の果実だ。勘違いの一形態に過ぎない。だが、丼をがっしと握ってわっせわっせとかき込むだけで幸せになれるのならそれでよいではないか。それがどんぶり伝説だ。
 天丼だけは、かき込まない。しょせんは丼のくせにお高くとまっているといった批判も耳にするが、天丼とはそういうものである。天丼が天丼であり続けようとするとき、天丼としての生涯をまっとうしようとするとき、天丼はその細やかな味わいをひたすら究めていく。孤高の丼といえよう。
 私にはどうも馴染めない。うまいとは思うが、好感を抱くことはできない。
 その原因は即ち天麩羅の具が海老だからだ。どういうつもりなのか、天丼の天麩羅は海老天ということになっている。例外も知ってはいるが、まずは海老天だ。しつこいようだが、海老は私になんの感興も呼び起こさない。出されれば食べるが、できれば避けていきたい食物だ。どこがうまいのかわからない。
 なぜ茄子の天麩羅を載せないんだろう。茄子の方がずっとうまいのになあ。
 とはいっても、天麩羅ではかき揚げがいちばん好きだったりするのだ。なにか、これだけは告白してはならなかったという気もしないではないが、実際のところは天麩羅の真価はかき揚げにこそ凝縮しているのだっ、と叫びながらそのへんを駆けずり回りたい気分だ。
 かき揚げの天丼は存在するが、どういうものなのか名前が変わってしまう。かき揚げ丼という寂しげな一ジャンルを確立しているのだ。
 どうなっているのだろう。天丼というディレクトリに、海老天丼や茄子天丼やかき揚げ丼というファイルがあるというのでもないらしい。そのへんの階層関係がよくわからない。天丼には海老天が、かき揚げ丼にはかき揚げが載っていて、それはそれで理解できるが、しかし総称して天丼というのでもない。かき揚げ丼はあくまでかき揚げ丼であって天丼ではなく、かき揚げが載っている。天丼に載るべきはあくまで海老天であり、天麩羅ならばなんでもよいというわけではけしてない。
 私は途方に暮れるばかりだ。
 一方、蕎麦業界ではまた異なる概念が普及していて、私の困惑は更に深まるのだ。座って食べる天麩羅蕎麦には海老天が載っていて、立って食べる天麩羅蕎麦にはかき揚げが載っている。たいへんわかりやすいが、どちらも天麩羅蕎麦と名乗っているのは事実で、やっぱりややこしい。
 そういうことを考えながら、私は黙然と天丼を食べていた。
「うまいだろ。ここの天丼。この天丼食ったら、もう他の天丼は食えないよ」
 奢ってくれているひとが、同意を求める。
「はい。おいしいです」
 奢られる立場としては同意するしかない。
 私は海老天を嚥下しながら、ところで中華丼の丼をがっしと握るのは難しいかもなあ、などと考えていた。

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