133 97.09.12 「飛ぶのが下手で」

 本稿は、図らずも人間の生活空間に闖入した一匹のカブトムシが自らが属するべき世界へ帰還するまでの約三十分間における彼の行動の記録である。
 久し振りに耳にする懐かしい翅音を伴いながら、カブトムシが私の部屋に飛来した。開け放った窓から、あの例の無様な飛行フォームで侵入してきたのである。涙滴型に垂れ下がった下半身を強引に引っ張り上げながらも、そのモーメントに振り回されて最短距離を飛行できない。その軌跡は常に半径の大きなカーブを描く。機敏な軌道修正などは望むべくもない。
 今回の場合は直進してきた。過ちには気づいたが、もはや方向を転回するには遅すぎたのであろう。すべてを諦めきった風情が感じられ、停止の瞬間をただ待ち受けるだけのたいへん受動的な飛行であった。
 居間を横切り、台所に着地した。おっとっととたたらを踏み、あまつさえ、いささか床の上をずるずると滑った。相も変わらず不器用で、哀れを誘う。自らの体重をもてあましているようだ。やはり進化の袋小路を着実に歩んでいるのか。自らの肉体の巨大化が原因で絶滅していく種があるが、カブトムシの未来にはそうした暗い予感が横たわっているように思える。
 やにわに場違いな闖入者と化した自らの立場については、さすがにすぐさま己の迂濶さを悟ったらしい。
 彼はしばらく沈思黙考していたが、やがて次なる行動指針について考えがまとまったのか、おもむろに動きだした。窓の方向を目指して匍匐前進の開始だ。飛んで来たのだから飛んで帰ればいいのに、と考えるのは素人だ。なにしろカブトムシである。なまなかの常識が通用する手合いではない。
 彼の前に最初に立ちはだかったハードルは台所と居間を仕切る敷居であった。私の見解ではわずかな段差だが、彼にとっては大いなる壁なのかもしれない。彼はまず、自らの角を下から振り上げて敷居を引っ繰り返そうと試みた。このカブトムシは何を考えているのかわからない。自分の能力を過信しているのではないか。
 そのうちに自らの膂力をもってしても覆せない物が存在することを学んだらしく、彼は地道に敷居を登攀することに今後の自分を賭けた。その意気込みは天晴れだが、その姿はどうにも不格好だ。彼が世間体を気にする性格なら、今の自分を誰にも見せてはならないだろう。悪いことに、敷居を越え切った下りの段差で彼は転倒した。見事に裏返った。腹を天に向け、じたばたと六肢をうごめかせる。なんともはや、情けない。当面の目的であった居間への移動は完了したが、代償が大きすぎた。
 カブトムシの角は主に、不慮の災害で仰向けになった自分を正常な姿勢に戻すために存在する。角を突っ張らかせてようやくうつ伏せに直った彼は、そのままじっとその場にうずくまった。胸を切り裂くような恥辱に耐えているかのように見える。己の醜態を、凝固することで忘れようとしているのか。
 やがて自らの心の弱さを克服したのか、彼はまた外界を目指して歩み始めた。克己した彼は、さっきまでの彼ではない。一皮剥けた、とでもいうのだろうか、その歩みっぷりにも心なしか堂々とした風情が窺える。外翅の艶を一段と輝かせ、彼は自由への前進を再開した。
 この居間を横断すれば、外界がある。窓のサッシは開け放たれている。床まで達している窓であり、彼の前途にさしたる障碍はない。最短距離にして二間を歩めば、彼は自由を得る。
 しかし、好事魔多しの例えのとおり、すかさず第二の難関が彼の前に出現した。
 彼の食欲が彼の足を止めた。いきなり立ち止まって、床を舐め始めた。先ほどそのあたりで私は葡萄を食したが、その果汁が飛び散っていたものと思われる。そんなことをしている場合ではないと思うのだが、彼は彼なりに空腹に耐えかねていたのかもしれない。このささやかな旅の前途を悲観せざるをえないほど、疲れ切っていたのかもしれない。彼はしばしのあいだ疲労を癒していたが、やがてまた歩み始めた。
 彼が次に立ち止まったのは、床に投げ出してあった新聞の上であった。読めるのだろうか。第二次橋本政権の組閣に興味を覚えた模様である。環境庁長官の人事が気になるのかもしれない。
 ほどなくして永田町の論理の前に自らの無力を悟ったのか、彼はまた歩み始めた。道程の半ばは過ぎた。外気の気配に勇躍したのか、若干スピードが増した。この期に及んでもまだ飛行の敢行を思いつかないらしい。あるいは、自分の飛行能力によほど自信を失っているのか。
 それにつけても、しょせんはカブトムシである。いきなり進行方向を転じた。寄り道をしている場合ではないと思うのだが、唐突に彼の興味を喚起した物体が窓際に置かれていたのである。
 ドラセナ・マッサンゲアナが、彼を招き寄せた。観葉植物である。幸福の木というなんとも傍迷惑な名称で販売されることが多い。彼も幸せになりたいのであろうか。植木鉢をよじ登り、たちまち幹に達した。樹液を求めたのであろうが、彼の嗜好には合わないようであった。そこに彼の幸福はなかった。すぐに興味を失い、同じルートを引き返して床に戻った。幹からそのまま外界へ飛び立てばよさそうなものだが、そこはやはりカブトムシである。カブトムシたるゆえんである。カブトムシをカブトムシたらしめている律儀な生き方である。
 彼は床をまたしても這い、そしてついに外界へのとば口に到達した。
 自由を追求した彼の旅は終わった。
 私は、彼の新たなる旅立ちを見送ろうと窓際に寄った。さあ、飛び立て。飛翔の時だ。
 しかし彼はどこまでいってもカブトムシなのであった。根っからのカブトムシだ。
 彼はそのまま歩み続け、約三十センチメートル下方のベランダに転落した。
 したたかにコンクリートに全身を打ちつけ、もがいている。またもや裏返ってしまった。まったくもって粗忽である。
 慣例に従って、彼は角を振り回して常態にでんぐりがえった。
 そして、いきなり飛んだ。
 意表をつく奴だ。これまでの飛び立つべき瞬間をことごとくやり過ごして、この瞬間に飛び立った。解せない展開である。
 彼は、ぶゎたぶゎたと翅をはためかせ、不器用に飛び立った。カブトムシはいつまでたっても飛ぶのが下手だ。私が幼い頃から下手だった。卑弥呼が幼い頃からも、ずっと下手だったのだろう。進歩がない。
 まもなく彼は樹々の中に消えた。
 まぁ、がんばれや。おれも進歩してないよ。三十分間も延々と見続けちゃったよ。

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