082 96.12.08 「ニッポンの素敵なおばちゃん」

 サイパンはガラパンの街にあるホテルの12階のバーに、私はいた。
 窓際の席で真っ逆さまに水没していく夕陽を眺めがなら、来し方行く末に思いを馳せていたところ、やはりどう考えてみても私の人生は薄っぺらいをことを再確認するに至った。だはははは、と笑ってみたが、虚しい。こんなテイタラクではいかんのではないかと考え、もっと飲めばよい思案も浮かぶだろうと決めつけた。
 三杯目のブラディメアリを頼むために、私は片手を挙げた。
 ところが、やって来たのは、例の異様に若い新婚カップルであった。二人とも、まだハタチ前に見える。
「あ、こんちは、どーもどーも」
「さっきはありがとーございましたー」
 軽佻浮薄な口調なのであった。
「ここ、お邪魔していいっすかー」
 二人は馴れ馴れしい態度で、私の席に腰を落ち着けた。友達のような振る舞いだ。そうなのかもしれない。きっと、二人と私は友達なのだ。そうでなければ、そのやけに打ち解けた態度の説明がつかない。
 しかしよく考えてみると、つい先ほどビーチで初めて会って、二こと三こと言葉を交わしたに過ぎない。してみると、この二人は、ちと失礼なのではないか。
 唐突に生じた事態の急変に私の思考がこんがらがっていると、二人は申し出た。
「さっきのお礼に、ここはオレ達が奢りますからー」
 奢ってくださるのかっ。
 私の態度は豹変した。
「いや~、悪いね~。いいの? いや~、ありがとありがと」
 軽佻浮薄部門においては、私にもいささかの自負がある。
「で、さっきの一件はいったいなんだったの?」
 私は訊いた。ビーチにおける彼等との邂逅の実情が未だに呑み込めない。
「まーまー、その前に、なにか頼みましょーよー」
 二人は店のひとを呼び寄せ、意外に流暢な英語でオーダーした。むむむ。大和民族の人相風体のくせに、なかなかどうして侮れぬ若者達だ。私はといえば、自信をもって口にできる英語はひとつしか知らない。
 店のひとは「で、あんたは?」という表情で私を見た。私は胸を張って「ブラディメアリ」と英語で答えた。これだけは特訓の結果、ちゃんと発音できるのだ。しかし、なにもこれしきのことで胸を張るこたねえな。
 運ばれてきたカクテルを飲みながら、二人の話を聞いた。
 それは若さゆえの過ち、といえなくはない顛末であった。浮かれ気分で海外に踊り出たニッポンのおばちゃんの怖さを、二人は知らなかったのだ。
「そりゃ、君達の失敗だね~」
 私としては、そう慨嘆せざるをえない。
 サイパンに向かう日航機の機内で、そもそもそのおばちゃんグループと交流してしまったのが彼等の過ちであった。
「新婚旅行かってきかれて、そーです、って答えただけなんっすよー」
「ねー」
 二人は口を尖らせるのであった。甘い。甘すぎる。返答しちゃいかんのだ。
 サイパンのような観光地に物見遊山で海外旅行に出かけたときに気をつければいけないのは、パスポートでもビザでもない。その土地の言語を話せるかどうかなど、どうでもいい。旅慣れていようがいまいが、かまわない。唯一重要なことは、ニッポンのおばちゃんの団体を徹底的に避けることなのだ。それさえできれば、快適な旅を満喫することができる。彼女達は、ひとが自然に有している美徳を放棄しなければ飛行機に搭乗できなかった方々なのだ。
 二人が語るところによると、まず到着した日の晩餐の席において、おばちゃん達はコンタクトしてきた模様だ。同じ便に乗り、同じホテルに宿泊する。ありがちな話だ。その晩の同時刻に隣のテーブルで巡り会ったとしても、さして驚くにはあたらない。
 おばちゃん達はまず、初夜という言葉を持ち出して二人をからかうという古典的手法を採用した。げらげらと馬鹿笑いするオマケ付きだ。二人は鼻白んだらしい。
「ショヤなんて死語っすよねー」
「何回やってもお互いに飽きないのがわかったから結婚したのにねー」
 二人は言い募るのであった。
「まあまあ。おばちゃん達はまだ初夜が特別なもんだと思い込んでるんだからさ」
 私は二人をなだめた。
 次のおばちゃん達の手口は、自分達が手をつけなかった料理を二人にふるまうというものであった。彼女達は海外にいるという非日常によって浮かれ果てた結果、もはや親切とおせっかいを区別する能力を喪失している。
「若い人が遠慮しちゃダメよ、って、言うんっすよー」
「自分達が遠慮しないもんだからって。ねー」
 二人の物言いに、私は爆笑した。
 自分達が料理以外のものを押しつけているなどとは、おばちゃん達には思いも寄らないのであろう。
「で、その料理、もらったの?」
 私は訊いた。
「だって、しょうがないじゃないっすかー」
 あららら。もらっちゃったのか。
「そりゃ~、まずかったね」
 私は嘆息した。
「そうなんすよ。まずかったっす」
 おばちゃん達は、二人に親近感を抱いたもののようであった。これは始末におえない。私の想像力が及ぶ限り、およそこの世にこれほどの迷惑はない。
 その翌日、オプショナルツアーの島内観光で、またまた二人はおばちゃん達に遭遇した。そんなものだ。
 二人は、夕べはどうだったかと囃したてるおばちゃん達に辟易して、具合が悪くなったといって島内観光を中座し、タクシーでホテルに帰ってきたという。
「もー、まいっちゃったっすよー」
 同情を禁じ得ない。私はもらい泣きし、ついでにブラディメアリのおかわりを頼んだ。なあに、オレの財布が痛むわけじゃない。
 ホテルに戻った二人はビーチで存分に戯れた。サイパンに訪れて初めて二人だけの時を過ごしたのだ。とても楽しかった、と二人は述懐するのであった。うんうん、よかったよかった。よかったね。
 しかし、楽しい時間はやがて必ず終わるというのがこの世のコトワリだ。ホテルのプライベートビーチを選んだ二人もよくない。島内観光から帰ってきたおばちゃん達はビーチを散策するという挙に打って出たのであった。二人の方が、先におばちゃん達を発見した。二人は慌てふためいて遮蔽物を探した。
 たまたまそこにいたのは自堕落を精密に絵に描いたような男であった。私だ。
 私は、ビーチベッドをリクライニングさせて、のんべんだらりんとサイパンの午後の潮風と陽光を満喫していたのであった。
「すいません、かくまってくださいっ」
 とつぜん出現したカップルに、私は狼狽した。ビーチベッドの陰に隠れるような態勢で、二人は囁くのであった。
 私は混乱し、なにがなんだかわからず、日光浴の態勢を崩さなかった。実際のところ、どうしていいかわからなかったのだが。
 私の目の前を、ニッポンの素敵なおばちゃん達が、わいわいがやがやぺちゃくちゃしながら通り過ぎていった。やれやれ、変なものを目にしてしまった。
「行ったみたい」
「もう大丈夫かな」
 カップルは、もぞもぞと立ち上がると、ぺこりとお辞儀をした。
「ありがとーございましたっ」
「あ。あ~、どうも」
 なんとも間の抜けた返答をする私なのであった。
「なるほどね~。そういうわけだったのか」
 二人が語る経緯を訊いて、ようやくビーチでの一件が理解できた。ふむふむ。これは当然、奢られてしかるべきだ。私は、胸を張ってブラディメアリを追加した。張るなっていうのにっ。
 突然、二人の目が点になった。
「あ。また出たっ」
 二人の視線は私の頭上を通過している。二人は凝固した。
 私は背後を振り返った。私の目も点になった。あのおばちゃん達がバーに入ってきたのであった。バーまで来るか、バーまで。ここは、良識をわきまえた人間しか入ってきちゃいけないんだぞ。
 おばちゃん達は、目敏く二人を発見した。
「あぁら、また会ったわねぇ」
「どうしたのよ、もう具合はよくなったのぉ」
「心配したわよぅ」
「こちらは、どなた」
 その後、いろいろなことがあった。私も巻き込まれた。
 それはもう、タイヘンだった。

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