029 96.06.03 「探偵は肩をすくめてみせて」

 俺の名は官兵衛。茨城の片田舎で探偵をやっている。こんな小さな町にだって俺の仕事はある。どこにいたって人間は愚かで、過ちを犯さずにはいられないものなのだ。
 ドアが開いた。さっそく依頼人が訪れたようだ。
「官兵衛さんっ、今日が何日だと思ってるんですかっ。あと3日以内に払わないと、今度こそ出て行ってもらいますからねっ」
 やれやれ。俺の美学は、永遠にこの大家には理解されないらしい。どこの世界に家賃を滞納しない探偵がいるだろうか。
 俺は肩をすくめてみせた。なぜなら、肩をすくめてみせない探偵はいないからだ。大家は、あてつけがましく派手な音をたててドアを閉めた。己の不動産を自ら傷つけている。人は哀しい生き物だ。
 そのドアがまた開いた。今度こそ依頼人のようだ。
「あたしのバッグ知らない?」ずかずかと入ってきた。「見つからないのよ」
 捜し物か。取るに足らない仕事だ。俺は、内心で溜息をつきながら、机に載せていた両脚を床におろした。
「話を聞こう」
「おとといから見当たらないのよ。もしかしたらここかと思って」
「そう。ここに来ればわかる。俺は凄腕の探偵なんだ」
 女はまじまじと俺を見つめ、やがて言った。「熱でもあるんじゃないの」
「微熱ならある。君の美しさがそうさせるのさ」
 なにしろ探偵なので、リップサービスもしなければならない。
 しかし女には通じなかった。「ばっかじゃないの」
 仕方がない。俺は肩をすくめてみせた。探偵だからだ。探偵は肩をすくめてみせなければならない。
「ビジネスの話に入ろう。前金で2万6千円。成功報酬は2千円だ。期限は今日1日。この条件で請け負おう」
「あのねえ」女は呆れ果てた口調で言った。「いつから探偵になったのかわかんないんだけど、だいたいそんな無茶な料金体系があるわけないでしょ」
「今日び、探偵稼業も不況でね。不服なら結構。お引き取り願いたい。これでも俺はなかなか売れっ子でね。次の依頼人がドアの向こうにいるかもしれない」
 俺は、しわくちゃのゴロワーズの袋からよれよれになった最後の一本を抜き出して、ジッポで火をつけた。つもりだったが、オイルが切れていた。やむなく、二丁目の中華の殿堂「龍華軒」のマッチで、火をつけた。
 探偵に不慮の災害はつきものだ。
「ははあん」とつぜん、女の瞳が輝いた。「わかったわかったわよ。その契約でいいわ。早く、あたしのバッグを見つけて」
「本当にこの契約でいいんだな」
「はいはい、探偵さん」
「俺は仕事が早いんだ」
 俺は机の引き出しからバッグを取り出した。
「やっぱりね」女はバッグをひったくると、素早く中身を確かめた。「いくら入ってたんだか憶えてないけど、たぶん2万6千円、さあ、返しなさい」
 女は、手を出した。
 お嬢さん、せっかちは身を滅ぼすぜ。
「それは前金で貰っといた。約束通り、バッグは発見した。成功報酬の2千円をくれ」
「いいかげんに、探偵ごっこはやめてよ、おにいちゃんっ」
「は、はいっ」
 妹はドスの効いた声で言った。「返すのよ」
「はい」
 俺はがっくりとうなだれ、財布を取り出した。
 結局、貧乏な兄になんら施すことなく、妹は帰っていった。
 俺の名は官兵衛。茨城の片田舎で探偵をやっていた。先々月の家賃を払うためには、まだ、あと2万8千円が必要だ。

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