027 96.05.27 「訪れた観光客」

 訪れた観光客、という人種が、唐突に出現する時間帯があります。
 日曜日の夕方から深夜にかけて現れますね、この方々は。舞台はニュース番組です。映像のなかでのみ存在するのが特徴となってます。この人種は不特定多数であり、あなたにも私にもそうなる資格はあります。
 こんなふうに登場しますね、たいがいは。「ぺろぺろ県ぐちゃぐちゃ町では、てらてらの花が今を盛りに咲き誇っています。ここ、町営てらてらの里では、園内に植えられた二万株のてらてらが、去り行く春を惜しむように可憐な姿を見せています。折からの好天に恵まれ、訪れた観光客は、色あざやかな様々なてらてらを眺めながら、夏の足音を感じとっていました」。
 あるいは、「ぐずぐず県ぱくぱく市では、ふにゃふにゃ祭りが催されました。ふにゃふにゃ祭りは室町時代の中期から伝わる伝統行事で、訪れた観光客は、でれでれするぽこぽこに扮したひらひらの妙技に盛んな拍手を送っていました」。
 更には、「だらだら県のごにょごにょ川では、初夏の風物詩、ぴこぴこ漁が解禁となりました。折から訪れた観光客は、網に掛かってげらげらするぴこぴこの姿に、興奮した面持で歓声をあげていました」。
 ま、そんなこんなで、明日は月曜日かぁやだなぁと消沈している視聴者を前に、訪れた観光客はなにやら能天気な所業を展開するわけです。さすがは、訪れた観光客です。他にも、訪れた観光客は「舌鼓を打っ」たり「春の一日を堪能し」たり、その定型句に貫かれた突飛な行動原理はなんともはや隅に置けないのでした。
 実際には、訪れた観光客を構成する方々にはそれぞれの事情があって、様々な人生模様があるわけです。「家族サービスもやってらんねえよな、こちとら残業続きで疲れてるんだ、はやくウチに帰って眠りたいよ、とほほ」と内心で嘆きながらも、にこにこしているおとうさんがいますね。「なによ、こんな変な祭りに連れてきて、馬鹿じゃないの、あたしは映画を観たかったのよ、もう」と心のうちで毒づきながら、にこやかに微笑むおじょうさんもいます。いろんなひとがいるわけです。
 しかし、テレビカメラはそういう個人の集合体を、強引に一括して、訪れた観光客へと変貌せしめてしまうんですね。
 その映像を取材したスタッフは、局へ戻る車内で愚痴をこぼしてるんでしょう、きっと。昂揚しないだろうからなあ、そんな取材。それを伝えるニュースキャスターの口調も棒読み状態ですね、たいがい。決まり文句の切り口上という、彼もしくは彼女のジャーナリスト魂を萎えさせずにはおかない原稿を飽き飽きしながら読み上げてます。
 日曜日の日没後は、みんな疲れてる。撮った方も撮られた方も。伝える方も、伝えられる方も。観る方はどうかというと、やっぱりこれも疲れてるわけで、ぼさっと、どうでもいいニュースを眺めてる。元気がいいのは、テレビ画面の中にいる訪れた観光客だけなのかもしれませんね。ほんとは元気じゃないのかもしれないんだけど。
 つまるところ、ああいうニュースの需要がよくわからない。強烈な需要はまずないですよね。でも、あののどかでどうでもいい映像と紋切り型フレーズの乱打は、やっぱり日曜の夜の風物詩としかいいようがないですよ。週に一度の出来事を風物詩とはいわないだろうけども。受動的な需要、消極的な供給。どちらも確実にあるんですね。
 様式美。あ、これですよこれ。そうそう、様式美ですね。
 もう、それだけで、美しい。
 となると、このスタイルは、いろんな場面で使っていただきたいですよ。
 「東京都千代田区では、通常国会が開催されました。国会はこの地方に伝わる伝統行事で、折から訪れた国会議員は、さかんな野次を送っていました」。
 「千葉県市原市では、暴走族が今を盛りに駆け抜けています。色とろどりの衣装を身にまとった地元暴走族の皆さんは縦横無尽に走り回り、初夏の一夜を満喫していました」。
 こういう投げやりな報道、やってほしいなあ。
 「茨城県取手市の中学校では、恒例のいじめが始まっています」って、おいおい、こんなこと書くと村八分になっちゃうので、うやむや~と呟きながら、去ることにしましょう。じゃ。

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