014 96.04.09 「セ・シ・ボン」

「ねえあなた。やらして、って、間違った日本語よね。正しくは、やらせて、よね」
 やらせて、が正しかろうな。なにを基準に正しいとするかにもよるが。一般的にいえば、やらして、は間違った用法だろうな。
「わたしは、ほんじつ、そのあたりの日本語の乱れを鋭く問うてみたいっ、と思っているわけなのです」
 はあ。問えば~、と、思わずしんちゃんになってしまうな。
「今わたしが問題提起したいのは、弘美ちゃんの口癖であるわけです」
 弘美ちゃんとは、君の同僚だな。どんな口癖なんだ。
「同じ女性として弘美ちゃんの口癖には問題があるのではないか、とかようにわたしは考えるわけなのです。置かして、と弘美ちゃんは言うわけです。それも、この書類ちょっとここに置かして、と言うならまだしも、この書類ちょっとという部分を身振りで示して、ただひとこと、置かして、というわけなのです。わたしはたいへんよくないことだと思うわけです」
 よくわからん。なにが問題なんだ。
「職場の男女比率がここに大きく関係してくるのです。女性が非常に少ないのです。つきつめて申しますと、わたしと弘美ちゃんしかおりません。つまり、弘美ちゃんが置かしてと声をかける相手は、わたしを除くと男性ばかりであるということになります。わたしたちは、この点に注目しなければなりませんっ」
 注目するのはいいが、なにが問題なのかさっぱりわからんぞ。
「置かして、を、犯して、と聞き取る男性社員がいるかもしれない、ということなのです。つまり、弘美ちゃんに誘われていると勘違いするのではないか、とわたしは懸念しているわけなのです」
 呆れたな。そんな勘違いをする奴はいねえよ。
「いいえ、弘美ちゃんを侮ってはいけません」
 べつに侮っちゃいないが。
「弘美ちゃんはたいへん可愛い、という点にもわたしたちは着目する必要があるのですっ。弘美ちゃんが小首をかしげて、犯してなどと潤んだ瞳で訴えた日には、それはもうあなた」
 ははあ。だんだん理解が深まってきたのだが、君は弘美ちゃんに嫉妬しているね。
「な、なんということを言うのですかっ。そ、そのような事実はありませんっ。わたしは今、乱れる日本語よああおまえはどこへ行くのか、という崇高な問題を論じているのです。そのような志の低い解釈は不愉快ですっ」
 でも、そうなんだろ。
「断じてそのようなことはありません」
 で、肝心の弘美ちゃんはなんと言ってるんだ。
「やだあ、もう、考えすぎですよ~。と、鼻で笑っておりました。自らの不用意な言動が余人に与える悪影響といった観点が欠落しているように見受けられました」
 じゃあ、その悪影響とやらを受けた例があるのか。つまり、俺は弘美ちゃんに誘われているのだ、と勘違いした男性社員はいるのか。
「わたしの観察によると、まだ表面化してはいないようです。しかしいつの日かなにかしらの事件が発生することは火を見るより明らかであると、わたしはひとり苦慮しているわけなのです」
 わかったわかった。ならば解決策を授けよう。
「承りましょう」
 君もやるのだ。それも、あからさまにやる。
「え。やだ。そんなことできない」
 弘美ちゃんにこの言葉の危険性を察知させたいとは思わないか。ひとは、他人の言動によって、自らの誤謬に気づくものだぞ。
「そ、そうかしら」
 じゃ、練習してみよう。
「……おかして」
 う~ん。やっぱりやめといたほうがいいな。

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