012 96.03.22 「石焼きいもは腰を浮かす」

 条件反射、というようなものであるらしい。腰が浮く、という行動形態となってその反応は現れるようだ。合図は、ふつう屋外から聞こえてくる。多くの場合テープレコーダーから発せられる老年男性の声であり、まれに肉声が使われることもある。きわめて特徴のあるメロディであり、常に間延びしている。い~しや~~きいも~~。
 その場に緊張感が張り詰めていたとしたら、その声は確実にその空気を破壊する。竹田弘子さんの場合は、企画会議の席上でその声を聞いた。議題は竹田さんのシゴトにはさほど関わりがなく、会議の緊張感とはうらはらに竹田さんはただぼけっと座っていた。うららかな日和で、開けはなれた窓から吹き込んでくるそよ風が気持ちよかった、とのちに竹田さんは語っている。そういう竹田さんの心の間隙をついたのが、その声であった。
「い~しや~~きいも~~」
 誰もがその声を聞いた。続いて、がたん、と椅子が動く音がした。ふと我に帰った竹田さんは、自分がとんでもない行動をしたことに気づいた。鳴ったのは自分の椅子だ。なぜなら、自分がとつぜん立ち上がったからだ。石焼きいも屋さんの接近を察知して、起立してしまったのだ。自分が置かれた状況も省みず、本能のおもむくままに身体が反応してしまったのだ。竹田さんは、うろたえた。
 全員が竹田さんを見つめていた。発言の途中だったひとも、顔だけを竹田さんに向けて、あっけにとられている。
 十秒ほどの静寂があったらしい。
「……つい、出来心で」
 巷間伝わるところによると、竹田さんはとっさにそのような弁解をしたもののようであった。これはウケた。一同、爆笑の渦となった。
 みんな笑ってくれてよかったわよう、とは竹田さんの述懐である。だって、もしも冷たい空気のまんまだったら、いたたまれないじゃないのよ。
 竹田さん、爽快なお人柄ではあろう。
「どうもだめなのよね、あの声きいちゃうと。知らないうちに、腰が浮いちゃうのよ」
 そんなふうに、竹田さんが過ぎし日の武勇伝を語っていると、次第に同志が集まってきた。女性ばかりだ。「そうそう」「そうなのよね」とあからさまな同意を表しながら、談笑の輪に次々と参入してくるのであった。「身体がいうことをきかない」「いてもたってもいられない」「ふと気づくと駈けだしている」「理性が消えてなくなる」等々の生々しい証言があいついだ。心情を吐露しながら、彼女たちは連帯を深めていくのであった。
 彼女たちを突き動かさずにはおかない魔性の力を、石焼きいもは持っているようだ。彼女たちの精神の奥深いところに、共通の衝動が横たわっているように見受けられた。信仰の対象のようでもあった。おいしいから好んでいる、というような単純な解釈ではもはや理解できない深刻な断絶が、私と彼女たちの間に底知れぬ闇の亀裂をきざんでいるのであった。断絶の向こう側に、聖域があった。
 男性側の証言者も現れた。西本さんは、ふうふせいかつのさなかにその断絶を発見したという。
「ま、してたわけよ。休みの日に昼間っからさ。オレが下だったわけね。で、その問題の間延びした声が外から聞こえてきたのよ。そしたら、抜けちゃったわけ。そうよ、かみさんが腰を浮かしちゃったのよ。い~しや~きいも~、に反応して、腰を浮かしたってわけよ。そんなのってあるかよ。オレのより、石焼きいものほうがいいのかよ。そりゃ、オレのはあんなに立派じゃないけどさ」
「わかるわあ」竹田さんが、きっぱりと言った。「反応しちゃうのよ、やっぱり」
 西本さんは、ちょっとかわいそうだった。

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