『雑文館』:95.10.16から96.05.06までの20本




001 95.10.16 「この秋いちばん」

 「この秋いちばん」とテレビのニュースが告げている。この時期に多用される定番フレーズで、主に気温の変化について語るときに使用される。天気予報の枠を越えてニュースになだれこむのが特徴だ。背景の映像には、山々の紅葉が映し出されたりする。
 姉妹品に「この夏いちばん」他二種があるが、秋版がやはり第一人者だろう。なにしろ使われる時期が長い。春はその季節自体が意外なほど短期間で終焉してしまうし、夏と冬にあってはその最高もしくは最低気温はその季節の初期に記録されてしまいがちだ。秋の場合だけが、じわじわだらだらと少しづつ気温が変化していく。秋という季節全般にわたって、着実に気温は低下していく。いきおい、「この秋いちばん」の活躍が目立つという仕組みだ。そのような背景をもって「この秋いちばん」は、今日の地位を築いたのだ。音感にも優れたたいへんよくできたフレーズで、季節の移ろいに情緒を重ね合わすのが好きなニッポンジンの嗜好を巧みに捉えているあたりはさすがだ。
 これほどの実力者を気温の低下を表現するためだけに使うのは非常にもったいないのではないか。「この秋いちばんの死者を出した交通事故」などと報道してくれると、どうしたどうしたそれはたいへんだたいへんだ、と、ニュースに向ける注目度ががぜん高まるのだが、残念ながらどこの放送局もやってくれない。「この秋いちばんの凶悪な殺人事件」となぜ言ってくれないか。ここぞとばかりに顔をしかめて小市民的道徳に基づく感想をひとりごちる用意はいつでもあるのだ。ニュース番組は自分を安全圏に置きたい小市民の娯楽なのだ。もっと堪能させてくれよう。
 やはり、報道原稿の規範に縛られすぎではないか。惜しまれるところだ。その結果かどうか知らないが、ニュースでしか耳にすることのない言葉ができてしまった。こういうバアイにはこう表現しとけばいいや、と決めつけているとしか思えないフレーズは意外に多く存在する。
 「悲喜こもごも」というやつが、その代表選手であろう。こんな言葉、一般民間人は使わないよ。これは受験シーズンにのみ特異的に多用されるフレーズで、「いつもながらの」という枕詞を伴うことが多い。「の風景」と続けられる傾向も強い。もはや季語といえるだろう。表現の工夫などというものはまったく省みられない。もっとも、他に重要なニュースがないから「いつもながらの悲喜こもごもの風景」を放映してお茶を濁しているのであって、工夫なんてしている暇はないのだろう。しかしここまで定番化したフレーズならば、やはり他のネタを報道する際にも使ってもらいたい。特に選挙結果の報道にはぜひ使ってほしい。これはいけると思う。ニュースキャスターというなぜか第三者の立場をとりたがる人々のセリフとしては、こたえられないハマリ具合だ。ほんとにやってくれたら、うひゃうひゃ喜んでしまうに違いないのだが。
 「無言の帰宅」も地味ながら根強い支持を受けている。棺を運ぶ映像を伴うのが特色だ。ニュース原稿には珍しい間接的な形容であるが、よほど使い勝手がいいらしく、蔓延している。この「無言」にこめられた意味がなかなか味わい深い。その死者が犯罪に関わっていたりすると、真実を封じ込めてしまったヨクナイ人というニュアンスで語られる。または、視聴者が勝手にそう感じる。不慮の災害に遭った市井の人の場合には、無念やるかたないといった調子で語られる。または、視聴者が勝手にそう感じる。というわけで、実はその解釈を視聴者に誘導的に委ねてしまっているところが、この定番フレーズの巧妙なところなのだ。これでは、ばしばし使ってしまうのも理解できる。ほとんど無思慮に多用している。このままではいつか唖のひとが亡くなったときにもうっかり使ってしまうのではないかと、びくびくしながら期待していることは、実は否定できない。
 さいきん登場の機会が減ってきたのが「近所でも評判の……」だ。ひところは思いがけず犯罪に巻き込まれた若い女性はすべて「近所でも評判の美人」だったのだが、近頃はいくら美しい女性であってもそうは報道してくれない。ま、以前の状況がむちゃくちゃだったわけで、よくもまあそんな乱暴な言い方をしていたものだが、それにしても惜しい。この常套句の裏にある漠然とした劣等感へのゴマカシは捨て難いと思う。いまだに細々と生存しているのが、善良きわまりないと思われていた中年男性の凶悪な犯罪が突如として明らかになった場合で、近所でも評判のおとなしい云々と報道される。これはただ驚いているだけで、美人の場合に比べて感情がこんがらがった複雑さがない。底が浅い。「近所でも評判の美人」の再登場が待たれるところだ。犯罪が勃発するまではどこにも存在しなかった美しい女性が、ただ犯罪が起こったというだけで唐突に出現するこのマカフシギな魔術には、やはりまだまだ魅せられてみたい。
 まだまだ他にも魅惑のフレーズがあるような気がするが、いまは思いだせない。しばらく時間をおいて採集活動に精を出し、またあらためて御注進の儀に及びたい。

バックナンバー一覧へ /  目次へ



002 95.10.19 「蓋の上のPL法」

 ここに一個のスナックめんがある。スナックめんというのは、カップの横に刷り込まれた諸元表にそう記された品名だ。どうやらJAS方面からやってきた言葉らしい。官の造語は、たいがい微苦笑を誘う。麺くらい漢字で表記すればいいのにね。一般的にはカップ麺と呼ばれる。時にはカップヌードルとも総称される。赤いきつねだろうがラ王だろうがすべてをカップヌードルと呼んでいささかも臆するところのない毅然とした人々はいまだに多い。あっぱれだ。スナックめんなどという情けない名称が持つうさんくささを粉々に打ち砕く素晴らしい態度といえよう。
 こちらとしては特にそのあたりにこだわっているわけではないので、ここではカップ麺と表記してみる。いま目の前にあるカップ麺は日清食品株式会社が製造したところの「日清のどん兵衛 天そば」だ。ふと気づいてしまったのだが、蓋に見慣れないアイコン状のマークがふたつある。ひとつは、やかんからカップに熱湯を注いでいる図案で「やけどに注意」との但し書きがある。もうひとつは、レンジに×印が重ね合わされた絵柄で「電子レンジ調理不可」と注意書きがある。
 ははあ、これがPL法対策というものだな。ニュース番組ではなんとなく見聞してはおったが、具体的に実物をつきつけられたのはこれが初めてだ。カップ麺で初めて知るというのはあまりに情けない気もするが、これもまた人生だ。
 他のカップ麺にも同様の御注意が記されておるのであろうか。……そうだった。この場合の「……」は、近所のコンビニエンスストアに駈けこんで確認してきたという時間の経過が表現されている。ほとんどのカップ麺の蓋は、同様の御注意が目立たないようにしかも明らかに記されていた。幾多の会議を経て決定されたのであろうその蓋のデザインは、その気になった者が見れば一目瞭然にわかり、その気にならない者が見るとなんの違和感もなく周囲の絵柄に溶け込むように、問題の御注意が配されているのだった。PL法だってよ面倒なもんができちゃったよなあ参ったよなあでもしょうがねえよなあぶつぶつ、というような声が聞こえてきそうな、創意工夫の粋を集めた見事なデザインばかりだった。
 御存じのようにPL法などという法律が必要な社会は病んでいる。アメリカ人ってばかなんじゃないのと笑っていたらいつのまにか自分達も同じヤマイに罹っていたのだ。あの有名な電子レンジと猫の逸話を笑い飛ばしてはいかんという法律ができちゃっていたのだ。それでも、んなこたカンケ~ねえよ、とうそぶいていたところにこのカップ麺だ。恐慌せざるをえない。困っちゃうよなあ。
 どうやら、カップ麺を食うときには熱湯に注意せねばならぬらしく、電子レンジを使ってはいけないらしい。それは知っていたのだが、あらためて御注意を受けねばならないほど深刻な問題であったとは知らなかった。アタリマエという概念が通用しない社会がやってきたらしい。参ったなあ。
 こうなったらもう、それはそれで適応していくしかない。うまく立ち回ればトクするかもしれない。思うに、この御注意には多くの欠陥がある。だいたい、やけどに注意という表現は具体的な対処法をなんら喚起していないし、電子レンジ調理不可とはそもそもどの部分のどういう助詞が省かれたのであろうか。重箱の隅をつつかれるのを防ぐ方策のはずが、かえって自分の首を絞めかねないぞ。「やけどには注意していたが、熱湯に触れるとやけどするとは知らなかった。そういう大事なことはきちんと書いておくべきだ」とか「電子レンジで沸かしたお湯でもちゃんと調理できたぞ。どうなっているのだ」などと法廷で反論されたらなんと弁明するのだろう。主述を明確にして誰にでもわかるような文章にしたほうがPL法の理念にかなうと思うんだけどなあ。
 なによりまずいのは、最も重要なメッセージが欠落していることだ。「あなたの健康を損なう恐れがありますので食べすぎに注意しましょう」となぜ謳わないのだろう。カップ麺は常にこの点を攻撃されていたんじゃなかったのかなあ。煙草が似たようなことを謳っても、そう脅かされたからといって喫煙者が減るわけじゃないんだから、べつにかまわないと思うけど。
 「手づかみで食べないようにしましょう」なんて書いてくれるとお茶目で嬉しくなってしまうんだけど、駄目かなあ。「あなたの食生活には野菜が欠けてはいませんか?」「もっと余裕のある生活をしましょう」などというのも欲しい。どこかのメーカー、やってくれないかなあ。大喜びで買っちゃうんだけどな。
 「こんなもの食っていて、あなたの人生はそれでいいのか?」なんて書かれた日には、喜び勇んで買い占めちゃうぞ俺は。

バックナンバー一覧へ /  目次へ



003 95.10.29 「中華まんブルース」

 世も末である。世紀末なのだからそりゃそうなのだが、ある種のコンビニエンスストアではこともあろうにバナナカスタードまんなどという代物が販売されており、この点において世も末なのだ。まったくもってたわけた恥知らずが出現したものである。
 バナナカスタードまんそれ自体にはさしたる問題はない。良識をわきまえた人間がとるべき態度としては、ただ気づかないふりをして避けて通ればいい。驚くべきことにこの問題の物体は食品の一種であって、それだけでもこのくにの行く末に思わず涙してしまったりもするのだが、それでも「なかったことにする」という御先祖様のうるわしき知恵を拝借してきてやりすごすことはできる。忘れたふりをすることはできる。頬につたう涙は、向い風になぶらせて乾かせばいい。
 病根は、この破廉恥漢の出自に潜んでいる。笑止千万にもバナナカスタードまんと名乗るこの唾棄すべき痴れ者は、こともあろうに中華まんの仲間だと称しているのだ。由緒正しき中華まん一族の末席にその汚名を連ねているというのである。
 いったいどの面さげてそのような世迷い言を口走るに至ったかは永遠の謎であるが、この不逞の輩があくまで中華まん一族の血統を標榜するなら、苦笑して捨て置いておくわけにもいかない。こればかりは看過するわけにはいかないと、人類の叡知が悲愴感をみなぎらせて鳴らす警鐘が聞こえてくるのだ。ここはひとつ、ひとこと意見してやらねばなるまい。
 思い返せば、カレーまんの出現が今日の頽廃を暗示していたのであろう。あんまん肉まんという中華思想に貫かれた二大政党強調路線が長らく続いていたところへ、突如として南方から第三勢力が台頭してきたのだ。太平の眠りがインド方面からやってきた新参者によって醒まされてしまったのだ。どちらが好きかという庶民の他愛なくもささやかな論争は、根底から覆った。安閑とした二者択一の時代が終わったのだ。カレーまんは旺盛な勢いでまたたく間に全国のコンビニエンスストアを席巻し、肉まんあんまんの保革伯仲時代は終焉を迎えた。
 そしてそれは、中華まん戦国時代の幕開けであった。遥か西方からはピザまんやマカロニグラタンまんが乱入してきた。東方からはタコスまんが進出してきた模様だ。トムヤンクンまんやパエリアまんなどというのも出現しているかもしれない。北方からはキャビアまんの登場が待たれよう。こうなると、この列島からもなにかひとつ郷土に根ざした新製品が欲しい。道場六三郎の和風中華まんが期待されるところだ。一方、旧勢力も遅まきながら自己改革意識に目覚めたらしく、あんまん肉まんともに素材に凝るなどの内なる変革を断行し、乱立時代への対応に躍起になっている。
 そういうどさくさに紛れて、バナナカスタードまんという狼藉者は出現した。いったいどこをどう間違えば、このような不埒者が出現してくるのであろうか。明らかに鬼っ子である。
 そもそもネイミングが酷い。この長すぎる名称はなんとかならないものか。だいたいその内抱物が想像できないではないか。カスタードクリーム状のバナナが入っているのか、バナナ風味のカスタードクリームが入っているのか、いったいどっちなんだはっきりせいっ。はぁはぁ。
 ええとつまり、食ったこともないくせにキーをきわめて罵詈雑言を浴びせているわけだったのだ。
 好きじゃないんだよ、甘いものは、さ。

バックナンバー一覧へ /  目次へ



004 95.11.08 「缶コーヒーを飲みほす女」

 こちらも夜道を酔っぱらってふらふら歩いていたんだけど、あちらも似たような状況だったわけです。私の前を歩いていたそのおね~ちゃんは突風にあおられたような感じで道をよたよたと斜めに横切ると、道端の自動販売機にしがみついちゃったんですね。あららららどうしちゃったのかなと思って眺めてると、おね~ちゃんはバッグをごそごそかきまわして財布を取り出し、なんと缶コーヒーを買っちゃったんです。おね~ちゃんはその場でぷしりと蓋を開けて一息に飲みほしましたね。あげくのはてに、自動販売機に背中を預けて「あ~~~」と腹の底から気持ちよさそうな声を絞り出しました。温泉に入ると「こりゃ~ゴクラクだあ~」みたいな感じで思わず声が出ますね。あんな声でした。
 そのうちに、おね~ちゃんは私の存在に気づきました。どきりというような感じでおね~ちゃんの表情は凍りつきました。次の瞬間おね~ちゃんのほんのり赤らんだ頬が更に赤くなって、というのは実は暗がりの中ではよくわからなかったので嘘なんだけど、まあそんな具合に妙な間があったわけです。脱兎ってよくわからないんですけど、こういうときに使う表現らしいのでここぞとばかりに使ってみますが、おね~ちゃんは脱兎の如く走り去ってしまいました。なにか私がワルサをしたみたいじゃないですか。いかんです。いかんと思いました。
 おね~ちゃんが去ったあと、私はその自動販売機で缶コーヒーを買いました。ぷしりと音をさせながら考えたんですが、やっぱりおね~ちゃんは恥しかったんでしょうね。人前で「あ~~~」は、さすがにハシタナイと思ったんじゃないでしょうか。更につらつら考えるに、缶コーヒーがポイントではないかと思います。ポカリスエットや午後の紅茶では、それほど恥しくはなかったんじゃないでしょうか。なんだかそんな気がするんですよ。根拠、ないですけど。
 私は翌日、この仮説を近隣の女性にぶつけてみました。あなたは自動販売機で自分が飲むための缶コーヒーを買いますか?
 「缶コーヒーは好きじゃないのよ。おいしくないもん」(26歳・事務員)
 「買いませんよう、恥しいもの」(38歳・保険外交員)
 「販売機は使い方がわからなくてねえ」(64歳・無職)
 「女の子は缶コーヒーなんて飲まないのっ」(20歳・アルバイト)
 「コンビニでは買う。販売機じゃ買わない。ん、なんとなく」(30歳・事務員)
 「買いますよ。え? あたしって変なの?」(34歳・デザイナー)
 ええと、年齢は少しばかりいいかげんです。そのくらいかな、と。
 単に私の世間が狭いだけなのかなという気もちょっとしますが、缶コーヒーは女性にあまり好まれていないようです。自動販売機も疎まれている気配がありました。
 そういや、自動販売機で清涼飲料水を買っている女性はあんまり見かけないように思えます。なにを購入したかが通りすがりのひとに露見してしまうのがためらいを呼ぶのでしょうか。どうなのかなあ。
 自販機モンダイはちょっと置いといて、缶コーヒーなんですが、やっぱり人気なかったですね。コマーシャルなんか観ると、ほとんど女性に飲んで欲しいと思ってないもんなあ、作りが。マーケティングの世界ではもう完璧に結論が出てるのかも知れませんね。缶コーヒー購入者のうち女性の占める比率は4%とかなんとか。
 女性がコーヒーを好きじゃないわけじゃないとは思うんですよ。缶コーヒーっていうのは要するに「コーヒーのようなもの」なので、そのへんのギマンが敬遠されるんでしょうか。わかんないですけどね。「缶コーヒーを飲んでいる自分の姿」が嫌なんじゃないかという気もします。いや、わかんないですけど。そんなに缶コーヒーはイメージがよくないんでしょうか。いやほんとに、わかんないんですが。「缶コーヒーを飲んでいる自分の姿を見られる」のが、いたたまれないのかもしれません。
 そんなふうに考えると、ちょっとかわいそうですね缶コーヒー。ま、しょうがないですけど。味わって飲んだらうまくないもんね、あれは。
 うまいかどうかってモノサシを缶コーヒーにあてちゃいけませんが。
 それにしても気になるのは、あのおね~ちゃんのその後です。飲酒後の疾走はコタエると思うなあ。きっとゲロ吐いただろうな。
 もちろん、缶コーヒーもろとも。

バックナンバー一覧へ /  目次へ



005 95.11.09 「霞ヶ関ビル一杯の幸せ」

 霞ヶ関ビル5杯分とか東京ドーム14杯分とか、ニュース番組では膨大な容量をそんなふうに表現しますね。この夏に出荷されたビールの量とか、江東区で集められる一日のゴミの量とかを表現するための比喩です。あれ、ちっともぴんとこないんだけど、そう思うのは私だけですか。
 まあ、ペットボトル150000本分の廃液とか言われても途方に暮れてしまうだけなので、ビルだか球場だかにお任せしてしまうんでしょうけども、その結果わかりやすくなったかというとそうでもないんじゃないかなあ。相変わらず実感できないことに変わりはないと思うわけです。自分の理解できるような尺度に換算しようとしてみるんですけど、そのうちに頭がこんがらがっちゃうんです。
 そもそも、いまだに霞ヶ関ビルを目安にしているのが謎です。どうして都庁を使わないんでしょう。杯という単位も不思議ですね。建築物がとつぜん容器になっちゃう。だいたい私は、「霞ヶ関ビルと東京ドーム、どっちの容量が多いでしょうか?」という質問をされたら、確信を持って答えられません。東京ドームのほうですよね。きっと。たぶん。おそらく。だんだん自信がなくなってきちゃうなあ。よく考えてみたら、私は霞ヶ関ビルを見たことがないんです。都会に不自由な人なのでした。
 こういう言い換えの意図は、なんだかよくわかんないけどともかくいっぱいなのだたくさんなのだものすごいのだ、というあたりにあるように思うんですね。驚いてください、と暗に言ってるような、ね。そうじゃないのかもしれないけど、一視聴者としての私はそう受け取ってしまうわけです。この時点で私にとっては客観的な報道じゃなくなってしまうんですが、私は報道に客観性を求めてはいないので、それはそれでいいんです。ただ、ぴんとこないので困ってるんです。もうちょっと、わかりやすい比喩はないもんでしょうか。
 ないんだろうなあ。あったら、使われてるもんね。
 で、どうせ実感できないんだから、ひとを驚かせることに専念してほしいと思うわけです。小錦が全人生で絞り出すうんこの半分のゴミとか、火野正平がこれまで放出した精液と同量の覚醒剤とか。
 あ、だめ? そりゃそうか。
 だったら、「いっぱい度」というのをマスメディア方面で設定してくれるといいかもしれません。こんなにいっぱいなんだよ、というのを度数で示してくれたら、どれだけ驚けばいいのかわかって有難いわけです。震度みたいなやつですね。
 「このビールの量は霞ヶ関ビル8杯分にあたります。FNNの測定では、いっぱい度5に相当します」なんて報道してくれると、「ほう。けっこうたくさんあるじゃん。いやあ、こりゃすごいわ」というような感想を抱くことができて、安心するわけです。自分なりに納得できてなんらかの見解を持てることが、視聴者にとっては重要なんです。報道された事柄の内容よりも。
 「この土砂の量は東京ドーム3杯分です。NHKでは、いっぱい度2と判定しました」と言ってくれると、「さすがNHK。慎重だなあ」とひとりごちたりして悦に入ることができますね。「今回の事故で流出した放射性廃棄物は霞ヶ関ビル1杯分です。ANNでは、いっぱい度7と認定しました」などと報道された日には、「たたたたたた、たいへんだあっ」と驚愕してひっくりかえったりすればよいわけです。自分ではなにも考えなくてもいいんですね。便利だと思うんだけどなあ。
 決めつけてください押しつけてください、というような、なんだか情けないような態度みたいですが、だっていちいち考えるのめんどくさいんだもん。どれくらい驚けばいいのかはそっちであらかじめ決めといてくださいよ。だって、そのニュース、おれには関係ないんでしょ。ね、そうだよね。

バックナンバー一覧へ /  目次へ



006 95.11.13 「渡辺満里奈に気づく」

 いまCM界に未曾有の異変が起きている。とかなんとか、もったいぶりつつも大上段に振りかぶって語り始めてしまいましたが、いやあべつにたいしたこっちゃないんです。だいたい、未曾有ってなんだろ。よくわかんないで使ってるんですけどね、みぞう。
 露出度という業界方言があって、いや私はべつにその業界にはなんの関係もないんですが、この露出度のなかで重きをなしているのがCMというものらしいんです。好感度ってのと重なってくる部分ですね。
 で、渡辺満里奈なんですが、さいきんCMにおける露出度が高いな、と感じるわけです。三浦友和とやってるセフィーロとかカップ麺のJAPONとか、ですね。他にもいろいろ。特にセフィーロのCMで、三浦友和の顎のあたりにおでこを預けるときの表情の移ろいは出色です。あ、出色というのは私の主観なので、あまり気にしないでください。お、いいじゃないですかあ、と勝手に思ってるだけなんです。
 んんと、このひとはおニャン子クラブ出身のひとなので、考えてみればもう10年も芸能界にいることになります。アイドルだった時代があったわけです。アルバムなどというものを出した過去もあるんです。いや、笑っちゃいますけどね、今となっては。
 その後バラエティ番組に出演しつつも、バラドルと呼ばれる罠を巧妙にすりぬけながら、というかそこまでのインパクトを持つこともなく、やってきたわけです。これ、という個性がないんですね。そしてこの点が凄かったわけです。嫌われないんですね。嫌われないのに、というのは別に反語じゃないんですけど、飽きられもせずにバラエティ番組のなかにその命脈を保ってきたわけです。立派です。もはや、ほとんど結論を語ってしまいましたが、渡辺満里奈というひとの真価はそこらあたりにあったと、今にしてみれば思うわけなんです。
 このひとは、ずっと変わることがなかった。
 その賞品価値に気づくべきだった業界の人々が、そこに行き着くまでにあまりに時間がかかりすぎてしまったみたいです。そんな気がします。プロが見過ごしてたんだから、私達は実際に作品が放映されるまでわからなかった。
 こういう展開はちょっと思いだせません。初めてじゃないですか。イメージチェンジという契機がまったくないのに、10年選手がとつぜん注目を浴びてしまったわけです。離婚もヌードもないんです。私たちは、浅野温子と浅野ゆう子という例を知っていますが、これとも違います。この方たちは商品としての自然な自分というものが前面に出てきて初めて新たな脚光を浴びたわけですが、渡辺満里奈はそうじゃないんですね。どうも、よくわからないひとです。
 とにかく、わかりません、このひとは。
 時代というとおおげさですが、その価値観が変わったとも思えません。本人も周囲もさして変化したわけじゃないですよ。渡辺満里奈御本人は、だらだらとなすがままにやってきた、かのような感想を洩らすような気がします。
 結局、気づく、っていうのは、偉大な変化なんだろうなあ。お互いに。
 とかなんとか、考えるわけです。
 なんだか、どうでもいい話だったな。

バックナンバー一覧へ /  目次へ



007 95.11.16 「定義事件」

 居酒屋でがやがやと馬鹿話をしていたら、日本でいちばん広い島はどこかという話になった。このとき広島であろうと答えた一休さんのような奴がいたがこやつはすかさず黙殺された。で、佐渡島だろう淡路島ではないかいや沖縄本島も侮れない、と議論は紛糾した。結論はというと、これが本州だったので、一同はひっくりかえった。
 それはないだろう、と言わざるをえない。誰も本州を島だとは思ってないぞ。北海道も四国も九州もそうだ。島であってたまるものか。だが地理学を聞きかじった人間がいて、彼の語るところによると島には島の定義があるのだそうで、それは面積が鍵を握っておるという。ある一定の面積を超えると大陸というものに昇格するらしい。なんでも、いちばん広い島がグリーンランドで、いちばん狭い大陸がオーストラリアなのだそうだ。
 釈然としない。ぜんぜんしないぞ。
 しかし、地理学方面の常識はそのようになっているらしい。べつに他方面に押しつけるわけではないが、自分達のムラの中では島だの大陸だのといった言葉を使い分けるときに定義が必要になるので、とりあえず決めつけておるらしい。
 沼と湖にも似たような定義があるという。深さだ。従って、地理学専攻の女子大生と首尾よく仲よくなってドライブなどに行ったときには発言に注意しなければならない。「きれいな湖だね」などとはうかつに口にしてはいけない。「違うわ、これは沼よ」と言い返されてしまうかもしれないからだ。
 狭い世界での言葉の定義付けという似たような現象はどこにでもあるようで、例えば気象庁に勤務する女性と懇意になって夜の港で逢瀬するときには注意が必要だ。「夜霧が出てるね」などと口走ろうものなら、「違います。霧じゃありません。これは靄です。視程が違うんですよ」と諭されてしまうのだ。敵は「小型で強い台風」などという謎めいた用語を駆使する方々だ。小型で強いとはなんという言い草であろう。生理的に理解できない。気圧だの風力だのと言われても、そんなことはこちとらの知ったこっちゃないのだ。小型だったら、弱いに決まってるじゃないか。
 ふだん何気なく日常的に使っている普通名詞を、定量的に厳格に定義している人々がいる。そこでは情緒は徹底的に排除され、数字によって機械的な分類が行われてしまうのだ。恐慌せざるを得ない。
 こういうことを知ってしまうと、何事も不用意に発言できなくなってしまう。特に自然科学方面があぶない。口に出す前に考えなければならないのだ。砂と言ったとすると、隣に地学に詳しいひとがいて「いや、この荒さは礫と言うべきでしょう」と口を挟まれるかもしれない。そのようなことをいちいち考えてからおもむろに口を開くはめになる。ひどいときには事前の思考だけでは解決できず、ついに押し黙ったままでそっと唇を噛みしめるというような事態に陥る。考え過ぎて寡黙になる。
 こうしてひとは無口になっていくのだ。
 もう一軒いこう、ということになって、居酒屋からスナック方面へ流れていった。水割りをつくりながら、店の女の子はこう言うのだ。
「あ~ら~、こちら、おとなしいのね」
 どう返答しようかと、またまた考え込んでしまうのだ。

バックナンバー一覧へ /  目次へ



008 95.11.17 「もう、タウンページったら」

 ちょっと必要があってタウンページという代物をひもといたりしたんだけど、ううむ、ひもとくという動詞は再生紙の本には似合わなかったか。だいたい、本と呼んでいいのかな。雑誌でもないし、まあとりあえず本ということで。
 この本には発見がありますね。情報のみが求められる本なんだけど、ふと気を抜いて本来の目的を忘れちゃったんですよ。なんのために開いたのかを忘れちゃいまして、耽溺してしまったわけです。なにか調べることがあったはずなのに、しげしげと熟読してしまったんですね。まぬけ。
 索引というやつですか、これ、なんか変です。ここまで細分化するのかっ。私、嬉しくなっちゃいました。いやはや、世の中にはいろんな業種があるもんです。圧倒されました。
 きわ物、というものが商売として成立していたとは知りませんでした。岩波国語辞典によると、「きわもの(きは‥)【際物】ある時期のまぎわにだけ売れる品。例、正月の門松、三月のひな人形。また、一時的な流行・人気をあてこんで作った品物、また脚本・小説など。」となってます。後者の意味しか知りませんでした。すみません。索引に従ってそのページをめくると、あらま、たしかになんたら人形店が掲載されていました。人生は、思いがけないところで知識を増やせるもんですね。キワモノって、よくない意味の言葉だとばかり思ってました。由緒ある言葉だったんだなあ。ごめんなさい。
 「香道教授所」なんていうのもありました。いかなる業種かはよくわかりません。どんなお香でも即座に嗅ぎ分ける犬のような鼻を持ったお師匠さんが、香道初段とかを授けてくださるんでしょうか。「配ぜん人紹介所」という、なにやらうさんくさいのもありました。あくまでも想像ですが、これはちょっとあやしいです。いや、べつに、根拠はないすけど、あやしいと思うっす。
 このように、NTTではあくまで土着の言語で表現しようという努力を重ねているみたいで、このへんが笑えるところです。「ええと、手頃な配ぜん人紹介所はないかなあ」とつぶやきながら、電話帳をめくるひとはいないもんね。
 一方、似たような薄っぺらい紙を使ってキオスクあたりで販売されている求人情報誌がありますね。そこではきっと、「シーズナブル・ドール・メーカー」「マスター・オブ・フレイヴァー」「デリバリスト・イントロデューサー」なんて言葉が横行してるんでしょう。ま、どっちもどっちなんですけど、立場が変われば表情も変えなきゃいかんということなんでしょうね。
 私は茨城県南部版のタウンページを見て書いてるんですけど、地域によってはもっと特異な業種があるんだろうなあ。その地方ならではの業種というのが。知りたいなあ。都会は都会で、これまた謎めいた業種があるんだろうなあ。気になるなあ。
 ところで、タウンページは昔は職業別電話帳とかいってたんだけど、その頃からずっと掲載されていない職業がありますね。いかんです。いかんと思います。サラリーマンや主婦をないがしろにしてはいけません。このひとたちは、まとまって怒るとこわいです。うじゃうじゃいます。載せてあげてください。そんな業種はないなんて言わないで、どうかひとつお願いします。
 ついでに、家事手伝いのひとなんかも載せてください。この需要は絶対あると思うな。

バックナンバー一覧へ /  目次へ



009 95.11.19 「ビールの名前」

 そこまでやりますか、そんなの売れないよきっと。
 鍋に合うビールとかいうやつですね。売れたら、ちょっと悲観的になっちゃいますよ私。日本で生産発売しているビールというのは実はどれもこれもたいしてかわりばえしない味なので、なにか差別化しようっていうんでしょうけどね。
 季節に頼ったあとは肴ときたかあ。ううむ。それは思いつかなかったよなあ。おせんべから塩辛まで、たいがいの食べ物をクリアしちゃうのがビールのよさだと思うんだけどな。まあ、問題の鍋うんぬんっていうビールは一連の冬物のバリエーションのひとつなんでしょう。冬物語とかの一派ですね。
 要するにネイミングの観点から鍋という言葉が出てきたんでしょう。想像ですが。つまり、冬だと。酒飲みにとっての冬の季語が鍋というわけですね。夏における枝豆的な存在が、鍋だと。ずいぶんスケールが違うけど。
 たしかに、鍋という言葉にはなにかこう、懐かしさをかきたてるチカラがあります。安らぎを与えてくれます。その湯気が脳裏に浮かぶと、自然と口元がほころんでしまいますね。北風が吹きすさぶ街を歩いていた旅人のコートを脱がせるのは、やはり鍋ということになりましょう。囲むという動詞を伴う冬の実力者です。
 けれども、だからといって季節物のビールのネイミングにもってくるとはなあ。大久保まで出して。
 味のほうはどうかというと、特に特徴はないですね。ま、日本のビールはどれを飲んでも似たような味です。み~んなおんなじ。どれもそれなりにうまいですけどね。
 もう、味で勝負はしてません。宣伝が勝負です。ポイントは第一にネイミングで、第二にうまさの理由付け、三番目がCM作りですね。その典型が、一番絞りです。最初に絞った麦汁がうまいと言われたって、そんなの工場のテイスターにしかわからないですよ。でもそう宣伝されて飲むと、「ああ、やっぱり一味違うなあ」とか言っちゃいますね。焼肉屋でカルビを注文したひとがいたらすかさず「ほ、骨つきっ」なんてことも言っちゃいます。乗せられてるんだけど、乗せられたからといって別に困ることもないし。
 だまし方が素晴らしければ、乗せられますよ私は。どんとこいっ。
 で、次に出てくるビールはいったいどんなものでしょうか。ドライ・一番絞り・焙煎・アイスと続いてきた製法絡みの新製品となると、これはもう専門家じゃないので予測できるわけがありません。味の面での期待は常にここにあるんですけどね。焙煎、最近おとなしいけど、ハートランドの道を歩んでしまうのかなあ。私が好きになったビールは、いつもほどなくして市場から消えていきます。
 それでネイミング予想方面へと逃げていくわけですが、季節物の傾向はまだ続くでしょう。散文化の道もしばらくは途絶えないでしょう。かつての容器形態競争を思わせる本筋を無視した状況になっていて、これはこれで面白いことになってます。
 来春は楽しみです。ここは完全にネイミング戦争になるでしょう。すでに今春、春一番というおいしい言葉が使われてしまいました。次なるキイワードは「花」でしょうか。
 夏にも期待がかかります。季節物を出す必要がない夏に限定発売しても売れるビールが出るかどうか。太陽と風のビールとかいう、おずおずと様子をうかがっているかのような及び腰の戦略は通用しないことはすでにわかっています。ずばり夏という字を前面に押し出した新製品は出るか。「夏-1997-」楽しみです。
 もうひとつ、この国土には梅雨という第五の季節があります。個人的には、この一カ月半の短期決戦には最も期待してます。「雨の日のビール」どっか出さないかなあ。出さねえか。
 ところで、アサヒの黒生はうまいよ。

バックナンバー一覧へ /  目次へ



010 95.11.29 「ニッポンの正しいおばちゃん」

 ハナウマ湾とは、こりゃまたどうにもふざけた名前だが、そう感じるのは日本語を理解できる人々だけであって、この湾は恐るべきことにハワイ諸島はオアフ島に実在する。ワイキキビーチから車で30分の距離にあって、ダイビングやスノーケリングを愉しめる名所となっている。実際には湾というよりもこぢんまりした入江であって、水深は浅く波も穏やかで、しかも色とりどりの美しい魚がたくさん泳いでいる。水中メガネをかけて潜ると、目の前をきらびやかな魚が行き交うという寸法だ。餌付けされているらしく、人間をまったく恐れない。浜辺の売店ではしたたかに餌を売っており、この$2也の餌を水中にばらまくと、どどどどばしゃばしゃと魚が集中して誠にもって大騒ぎとなるのだ。ちょっと撒いただけで100匹くらいが寄ってくる。うひゃうひゃ馬鹿笑いしながら餌を撒いて無邪気に喜ぶ私なのであった。
 しかし、寄ってくるのは魚だけではなかったのだ。ものすごいものも寄ってくるのであった。
 山田幸代52歳、埼玉県与野市在住、職業専業主婦、身長154cm体重69kgという者も、喜び勇んで寄ってくるのであった。いや、そのおばちゃんの氏素性は不明なのだが、とりあえず設定してみた。つまり、どこにでもいるおばちゃんだ。
 どこにでもいるので、当然ハワイにもいる。
 ハナウマ湾にだって、いる。
 山田幸代は餌を撒いているのが日本人男性(私のことだ)であるとの認識は得ているように見受けられた。しかしその後、山田幸代は彼(私だ、私のことだ)の人格についていっさい顧慮することはなかった。
「ほらほらほらほら、すごいわよ。ほらほら、みんなおいでよ。はやくはやく」
 とは、山田幸代の言である。そのように叫びつつ、砕氷船の勇猛さをたぎらせて、山田幸代は、寄せ来る波を掻き分けてくるのであった。派手な花柄の水着を身にまとった山田幸代は、怒涛の勢いで私のもとへと接近してくるのであった。ごく控え目に言って、山田幸代は成田を発つときに遠慮という荷物は置いてきたもののようであった。
「ほらほらほら、こんなに魚がいっぱいいるのよ。このひとが餌を撒いてんのよ。すごいすごい。なにしてんのよ、はやく来なさいよ」
 山田幸代は、同年輩の友人達を差し招くのであった。
 このひととは言って下さったものの、山田幸代は私を自動給餌機としてしか認識していないように思われた。
 山田幸代の友人達もすかさず集まってきた。遅参した彼女達も山田幸代と同類項と見て差し支えないようであった。
 私は期待に応えなければならなくなった。エサ係と化した。餌をやるたびに、おばちゃん達の歓声があがった。逃げ出せる雰囲気ではなかった。彼女達は、当然そこにいて餌をやるものとして、私を認識しているのだ。私は顔をひきつらせながら、ひたすら餌をばらまいた。魚達は喜んで群れ集い、山田幸代一派も大いに喜んだ。
 専念、忍耐、機械、といった単語が頭の中を5億6千万回ほど駈け巡り、ようやく餌が尽きた。
 私はほっとして、空になった餌の袋を逆さに打ち振った。
「ああら、餌がなくなっちゃったわよ」
 山田幸代は興醒めしたような口調で言うと、侮蔑するような目で私を見た。
「さあ、行きましょ。もう、餌がないんだって」
 山田幸代は、友人達を促して、風のように去っていった。
 おばちゃん達の次なる標的は、楽しげにふたりだけの世界に没入していた新婚カップルであった。もちろん日本人である。彼女達は日本人にしか近寄らない。はしゃぎながら餌を撒いて一生の思い出をつくっていたふたりには、同情に堪えない。すまん、俺の餌がもうちょっとあったなら。ふたりとも呆然としていた。勘弁してくれ、そいつらはスコールなんだ。しばらく我慢してればいなくなるからさ。
 山田幸代一派には、自ら餌を買い求めようという発想が欠落していた。まったく、なかった。
 私はひとりぽつんと取り残された。数匹の魚が名残惜しそうに私の周りを泳いでいた。
「ごめんな。もう、餌はないんだよ」
 私はつぶやいた。
 空を振り仰いでみた。太陽が眩しかった。
 空は晴れ渡り、大気は清らかで、海水は澄んでいた。風は優しく、波音が穏やかに響いていた。
 いいところだなあ、と思った。

バックナンバー一覧へ /  目次へ



011 96.03.07 「らしからぬ私」

 スポーツマンらしくないプレイをすると、厳重注意を与えられた上にせっかくのそのプレイが無効になってしまうのだそうです。各都道府県支部に通達が出たんだそうです。こうやれん、というところからですね。日本高校野球連盟です。じゃ~ん、という感じですね。この団体は、時々おもいがけないギャグで楽しませてくださるので、私、気に入ってます。またまたやってくれました。ありがとう高野連。今回はトリックを使った牽制球がいかんと言ってます。ピッチャーセカンドショートセンターがよってたかって演技をしてセカンドランナーをだまくらかし、離塁したところをアウトにしちゃおう、というのがいかんそうです。あ、とうぜんルール上はなにも問題ないんですよ。スポーツマンらしくないのがいかん、とそのように高野連は申し述べておられます。あははは。えらいこと言いだしちゃったもんだなあ。すごいセンスです。
 「なんとからしい」とか「かんとからしく」とか言われると、ひとによって感想がだいぶ違うと思うんだけどなあ。たとえば私にとってスポーツマンとは「やたらと明るいがギャグはちょっとつまらない」というような存在なんですけども。これを高野連発言に当てはめると、「地味な性格だがギャグはすごく面白い、そんなプレイは禁止だよ」となっちゃう。わけがわからない。仕方がないので、発言者の想定しているスポーツマン像を想像しなければならなくなるわけです。正々堂々とか純粋とか、まあそんなことなんだろうなあ。と、考えてはじめて理解できるわけです。まわりくどいですね。最初からわかりやすく「卑怯なプレイは禁止」って言ってくださいよう。
 私はスポーツマンには縁遠いので、たまたまこのようなまだるっこしい思考経過が必要になってしまうのかもしれません。しかし思い返すと、「男らしい」「女らしい」「子供らしい」などと見聞するたびに「はて、それはどういう意味であろう。どういうことを表現したくてそういう言い方をしたのであろう」と考え込んでいた記憶もあります。そのたびに、何段階かの思考手順を踏んで、その発言の意図を探り出さなければならないわけです。
 たとえば「高校生らしい」というと、私は「道路いっぱいに広がって歩くような邪魔な」というふうに理解してしまうんです。自分が高校生でなくなって以来、高校生と接触する機会がないもので、もはや高校生がどんなものだかわかりません。そのあげく、我ながら「この解釈はちょっと違うのではないか」と思わざるを得ないような見解を抱いてしまうのです。「こりゃ違うよな」と思い直して、理想的高校生像というものを想像して思考の泥沼に陥っていくわけです。ばかですね。
 あるひとに話したところ、「そりゃ、分けて考えるからいかんのだ」と諭されました。そのひとが言うには「スポーツマンらしい」はひとつの単語として憶えておけばいいということなのでした。英単語の丸暗記と同じ憶え方だ、「愛らしい」や「嫌らしい」の仲間だと思えばよい、とのありがたい御宣託なのでした。ははあ、なるほど。そりゃあ、気がつかなかった。うん、それは便利だ。なあんだ、そうだったのか。
 そのひとは、「まあ、そんなふうに考え過ぎるとこがおまえらしいんだけどな」とも言いました。私らしい? すかさず私は考え始めていました。はて、私とはどのようなものであろうか?
 ……考えなけりゃよかった。
 そこにはただ風が吹いているだけでした。ひゅるるるる。

バックナンバー一覧へ /  目次へ



012 96.03.22 「石焼きいもは腰を浮かす」

 条件反射、というようなものであるらしい。腰が浮く、という行動形態となってその反応は現れるようだ。合図は、ふつう屋外から聞こえてくる。多くの場合テープレコーダーから発せられる老年男性の声であり、まれに肉声が使われることもある。きわめて特徴のあるメロディであり、常に間延びしている。い~しや~~きいも~~。
 その場に緊張感が張り詰めていたとしたら、その声は確実にその空気を破壊する。竹田弘子さんの場合は、企画会議の席上でその声を聞いた。議題は竹田さんのシゴトにはさほど関わりがなく、会議の緊張感とはうらはらに竹田さんはただぼけっと座っていた。うららかな日和で、開けはなれた窓から吹き込んでくるそよ風が気持ちよかった、とのちに竹田さんは語っている。そういう竹田さんの心の間隙をついたのが、その声であった。
「い~しや~~きいも~~」
 誰もがその声を聞いた。続いて、がたん、と椅子が動く音がした。ふと我に帰った竹田さんは、自分がとんでもない行動をしたことに気づいた。鳴ったのは自分の椅子だ。なぜなら、自分がとつぜん立ち上がったからだ。石焼きいも屋さんの接近を察知して、起立してしまったのだ。自分が置かれた状況も省みず、本能のおもむくままに身体が反応してしまったのだ。竹田さんは、うろたえた。
 全員が竹田さんを見つめていた。発言の途中だったひとも、顔だけを竹田さんに向けて、あっけにとられている。
 十秒ほどの静寂があったらしい。
「……つい、出来心で」
 巷間伝わるところによると、竹田さんはとっさにそのような弁解をしたもののようであった。これはウケた。一同、爆笑の渦となった。
 みんな笑ってくれてよかったわよう、とは竹田さんの述懐である。だって、もしも冷たい空気のまんまだったら、いたたまれないじゃないのよ。
 竹田さん、爽快なお人柄ではあろう。
「どうもだめなのよね、あの声きいちゃうと。知らないうちに、腰が浮いちゃうのよ」
 そんなふうに、竹田さんが過ぎし日の武勇伝を語っていると、次第に同志が集まってきた。女性ばかりだ。「そうそう」「そうなのよね」とあからさまな同意を表しながら、談笑の輪に次々と参入してくるのであった。「身体がいうことをきかない」「いてもたってもいられない」「ふと気づくと駈けだしている」「理性が消えてなくなる」等々の生々しい証言があいついだ。心情を吐露しながら、彼女たちは連帯を深めていくのであった。
 彼女たちを突き動かさずにはおかない魔性の力を、石焼きいもは持っているようだ。彼女たちの精神の奥深いところに、共通の衝動が横たわっているように見受けられた。信仰の対象のようでもあった。おいしいから好んでいる、というような単純な解釈ではもはや理解できない深刻な断絶が、私と彼女たちの間に底知れぬ闇の亀裂をきざんでいるのであった。断絶の向こう側に、聖域があった。
 男性側の証言者も現れた。西本さんは、ふうふせいかつのさなかにその断絶を発見したという。
「ま、してたわけよ。休みの日に昼間っからさ。オレが下だったわけね。で、その問題の間延びした声が外から聞こえてきたのよ。そしたら、抜けちゃったわけ。そうよ、かみさんが腰を浮かしちゃったのよ。い~しや~きいも~、に反応して、腰を浮かしたってわけよ。そんなのってあるかよ。オレのより、石焼きいものほうがいいのかよ。そりゃ、オレのはあんなに立派じゃないけどさ」
「わかるわあ」竹田さんが、きっぱりと言った。「反応しちゃうのよ、やっぱり」
 西本さんは、ちょっとかわいそうだった。

バックナンバー一覧へ /  目次へ



013 96.04.02 「哀しき四月馬鹿愛護協会」

 そんなある日、とは昨日つまり4月1日のことなのだが、同僚から思いがけない報告を受けて、私はたちまち青ざめた。本当か。それはまずい。うろたえて、いかなる善後策を講ずるべきか考えた。まずは先方に、ことの真偽を確かめればなるまい。事実だったらひたすら謝るのみだ。焦って電話をかけはじめたら、その同僚があわててフックを押した。
 本気にするなよ、と笑っている。私はあっけにとられた。嘘に決まってるじゃないか、と言う。
「へ? 嘘なの」
 だって、今日はエイプリルフールだろ。との、お答えだ。
 私は呆然とした。嘘をつかれたときより大きな衝撃を受けた。過去からの亡霊というやつに、いきなり出くわしてしまったのだ。
「エイプリルフールだってえ」
 私の喉から、すっとんきょうな声が出てしまった。
 はあ。まだそんな慣習が生きていたのか。御存命だったとは知らなかった。そうかそうか。よくぞ生きていたものだ。とうの昔に死んでいたものだと思っていたよ。私の目から涙がこぼれた。結局この列島の風土には根づかず、落魄と国外退去を余儀なくされたと聞いていたが、意外なところで細々と棲息していたのであった。
 しかし、こぢんまりして湿度の高い風土にはさすがに侵されているらしく、もはや亜種となってはいるようだ。BBCの火星人襲来報道に代表される本来の壮大な大ぼら精神は去勢されて、ただ身近な相手がだまされてうろたえる様子を見てほくそ笑むだけの卑小な嘘に堕している。
 いかん。これではいかんのではないか。勃然と私の胸に熱い思いがこみあげてきた。私は立ち上がった。即座に「四月馬鹿愛護協会」の結成を宣言し、自らを初代会長に任命した。絶滅の危機に瀕したエイプリルフールを愛護し、かつ本来のおおらかなほらの道に導くのが本会の目的だ。
「君は副会長になりなさい」
 私は同僚に命じた。しかし理解は得られなかった。なおも説得を続けたが、そのうちに彼は私を「冗談のわからないやつ」と認識していることがわかった。嘘を真に受けたのが意にそぐわなかったようだ。
 仕方がないので、孤高の活動を展開することにした。まずは若手がよいだろう。折り良く、配属されたばかりの新入社員というものが現れた。
「本日はエイプリルフールだが、なにかひとつ大ぼらを吹いてみたまえ」
「は?」
「遠慮するな」
「ええと、今朝、駅でトドを見ました。苦しそうにポカリスエットを飲んでいました。宿酔いだったようです」
「ふむふむ。で、君はどうした?」
「目を合わせないようにしました。私は前世でヒマラヤウサギだったので、トドはどうも苦手なんです。シラスボシの入ったチャーハンも苦手です」
「なるほど。なかなかスジがいいな。その調子でがんばれ」
 やはりまだ頭がやわらかい。ちょっとずれているが、これから鍛えて、副会長に育てよう。
 転属してきた同輩にも理解を求めてみた。
「なに? エイプリルフール? そんな暇はないんだよ。まだ引き継ぎが終わってないんだよ」
「まあまあ、もっと余裕をもってさ。春なんだから」
「わかったわかった。あ、おまえズボンのチャックあいてるよ」
「え?」あわてて確認する。
 あいてない。
「馬鹿だな。そんな古くさい手にひっかかる奴があるかよ。じゃあな。忙しいんだ」
 いや、だからね、そういう、ひとをだますのじゃなくてね、もっとね、嘘自体の根源的な楽しさを満喫しようという、ね。あ、おいおい、待てよ。行ってしまった。薄情な奴だな。それにしても私はだまされやすいな。
 エイプリルフールがすたれたのがわかる気がする。嘘をつく悦楽から遠去かって、人をだます快感に溺れてしまったのが敗因だ。だまされること自体には問題はない。それが楽しいことは少なくない。だまされた自分がだました当人に笑われている、この不合理な構造がやりきれない。嘘をついて人を楽しませることと人をだまして喜ぶこととの間には、もともとなんの共通点もなかったはずなのに。いつのまにか同一視されている。
 エイプリルフール自体は本質的には楽しい慣習だ。やっぱり新聞社や放送局が率先してやってくれないと定着しないのか。欧米の新聞は今年も張り切ってたみたいで、ダイアナ妃のホームページができて本人が姑を批判している、とかなんとかやってたらしいもんなあ。いいなあ、そういう記事を読めて。こういう外電を見聞するたびに、羨ましさがつのる。
 なおも、蕎麦屋さんの出前、転任の挨拶に来た取引先、保険の勧誘に来たおばちゃんなどを相手に孤独な啓蒙活動を行っていると、さすがに上司に怒られた。
「人をだましてはいかん」
「はあ。いかんですか」
「げんにおまえは今、だましている最中じゃないか」
「どういうことですか?」
「だって、今こうしてしゃべってるこの俺は、おまえが勝手にでっちあげたんだろう」
 ま、そりゃそうなんだけどね。

バックナンバー一覧へ /  目次へ



014 96.04.09 「セ・シ・ボン」

「ねえあなた。やらして、って、間違った日本語よね。正しくは、やらせて、よね」
 やらせて、が正しかろうな。なにを基準に正しいとするかにもよるが。一般的にいえば、やらして、は間違った用法だろうな。
「わたしは、ほんじつ、そのあたりの日本語の乱れを鋭く問うてみたいっ、と思っているわけなのです」
 はあ。問えば~、と、思わずしんちゃんになってしまうな。
「今わたしが問題提起したいのは、弘美ちゃんの口癖であるわけです」
 弘美ちゃんとは、君の同僚だな。どんな口癖なんだ。
「同じ女性として弘美ちゃんの口癖には問題があるのではないか、とかようにわたしは考えるわけなのです。置かして、と弘美ちゃんは言うわけです。それも、この書類ちょっとここに置かして、と言うならまだしも、この書類ちょっとという部分を身振りで示して、ただひとこと、置かして、というわけなのです。わたしはたいへんよくないことだと思うわけです」
 よくわからん。なにが問題なんだ。
「職場の男女比率がここに大きく関係してくるのです。女性が非常に少ないのです。つきつめて申しますと、わたしと弘美ちゃんしかおりません。つまり、弘美ちゃんが置かしてと声をかける相手は、わたしを除くと男性ばかりであるということになります。わたしたちは、この点に注目しなければなりませんっ」
 注目するのはいいが、なにが問題なのかさっぱりわからんぞ。
「置かして、を、犯して、と聞き取る男性社員がいるかもしれない、ということなのです。つまり、弘美ちゃんに誘われていると勘違いするのではないか、とわたしは懸念しているわけなのです」
 呆れたな。そんな勘違いをする奴はいねえよ。
「いいえ、弘美ちゃんを侮ってはいけません」
 べつに侮っちゃいないが。
「弘美ちゃんはたいへん可愛い、という点にもわたしたちは着目する必要があるのですっ。弘美ちゃんが小首をかしげて、犯してなどと潤んだ瞳で訴えた日には、それはもうあなた」
 ははあ。だんだん理解が深まってきたのだが、君は弘美ちゃんに嫉妬しているね。
「な、なんということを言うのですかっ。そ、そのような事実はありませんっ。わたしは今、乱れる日本語よああおまえはどこへ行くのか、という崇高な問題を論じているのです。そのような志の低い解釈は不愉快ですっ」
 でも、そうなんだろ。
「断じてそのようなことはありません」
 で、肝心の弘美ちゃんはなんと言ってるんだ。
「やだあ、もう、考えすぎですよ~。と、鼻で笑っておりました。自らの不用意な言動が余人に与える悪影響といった観点が欠落しているように見受けられました」
 じゃあ、その悪影響とやらを受けた例があるのか。つまり、俺は弘美ちゃんに誘われているのだ、と勘違いした男性社員はいるのか。
「わたしの観察によると、まだ表面化してはいないようです。しかしいつの日かなにかしらの事件が発生することは火を見るより明らかであると、わたしはひとり苦慮しているわけなのです」
 わかったわかった。ならば解決策を授けよう。
「承りましょう」
 君もやるのだ。それも、あからさまにやる。
「え。やだ。そんなことできない」
 弘美ちゃんにこの言葉の危険性を察知させたいとは思わないか。ひとは、他人の言動によって、自らの誤謬に気づくものだぞ。
「そ、そうかしら」
 じゃ、練習してみよう。
「……おかして」
 う~ん。やっぱりやめといたほうがいいな。

バックナンバー一覧へ /  目次へ



015 96.04.18 「彼等はオヤジじゃないと思う」

 7日午後11時40分頃、東京都墨田区で男性会社員(30)がオヤジ狩りに遇ってしまったそうなのである。更にその30分後、同区で男性会社員(29)も同様の被害に遇ったそうなのである。新聞がそのように伝えている。
 御二方ともさぞかし悔しかろう。「オレはオヤジじゃないっ」と声を限りに叫びたいに違いない。「オレはただ高校生のグループに強盗されただけだっ。たいした事件じゃないんだっ。いちいち報道するなっ」と、怒っているに違いないのだ。
 それもこれも犯人の高校生諸君が、オヤジ狩りをやったと発言しておるからで、そもそもの問題はここにある。が、警察がこの目新しい単語を記者発表の場に持ち出さなければ御二方の名誉は守られたはずだ。しかし警察にも警察の事情があるらしく、高校生諸君の発言内容を発表するに至った。こうなるともう事態は後戻りできず、報道に携わる皆さんがオヤジ狩りオヤジ狩りと連呼することになる。報道されなかったかもしれないありきたりの強盗事件が、大々的に取り上げられ、ここにおいて、一夜にしてオヤジが2名誕生した。
 30歳と29歳。御二方とも、自分をオヤジだとは認識してはいないだろう。たとえ子供がいたとして、自分が父親だとは自覚してはいても、オヤジだとは考えてはいなかったに違いない。近年、オヤジという言葉には新たな意味が加わっていて、それはオヤジギャグに代表されるようにけして好ましいイメージではない。
 思えば、罪作りな高校生諸君である。強盗はかまわない。かまわないわけはないのだが、ま、かまわない。強盗をオヤジ狩りなどと称したのがいかん。オヤジ狩りをするのなら、ちゃんとオヤジを襲ってもらいたい。高校生諸君から見れば御二方はオヤジかもしれない。しかし本人達にはまた違う認識があるのだ。
 御二方の将来は閉ざされた。オヤジというレッテルを貼られてしまったのだ。これから正真正銘のオヤジとなるまでの少なからぬ時間を、オヤジでもないのにオヤジとして生きていかねばならなくなったのだ。
 御二方とも、傷が癒えれば社会復帰することだろう。会社の皆さんから「いや、とんでもない目に遇ったな」「大変でしたね」「このたびはお気の毒なことで」等々、暖かいいたわりの言葉をかけられるだろう。
 しかし午後2時50分の給湯室では「あのひとオヤジ狩りに遇っちゃったんだって。オヤジよオヤジ。うぷぷぷぷ」と笑われてしまうのだ。かわいそ。同僚は取引先で「君んとこでオヤジ狩りに遇ったひとがいるんだって。まだ若いんだろ」と問われ、「いやあ、元からオヤジみたいなやつなんですよ」などと軽口のネタにされてしまうのだ。かわいそすぎる。
 更にしばらくたって事件の記憶も薄れかけた頃になると、上司が彼のミスをたしなめるのに「ま、君ももうオヤジなんだからもうちょっとしっかりしてもらわないと」などと、彼の悲惨な体験を冗談にしてしまうようになる。かわいそすぎるではないか。そういう小さな出来事の積み重ねが彼等を自暴自棄に走らせ、そのうちにカラオケの席で「僕はもうオヤジなので昴を歌いますっ」などと叫ぶようになったりして、すっかりふてくされた人生を歩んでしまうことになるのだ。
 思えば、ノックアウト強盗の頃はよかった。被害者はひたすら同情された。しかし、オヤジ狩りの被害者は、そういう救いの手がさしのべられない不遇な気配がつきまとう。
 いま心配なのは、短絡的な高校生が「だったら、俺たちは」といって、オバサンを。
 こわすぎる。

バックナンバー一覧へ /  目次へ



016 96.04.19 「買い物かごをぶら下げて」

 誰にだって一度や二度、スーパーの買い物かごを持ったまま店外へ出てしまったことはあると思います。レジで会計を済ませたあと、ポリエチレンだかなんだかの袋への積み替え作業を行うのをついうっかり忘れて、外へ出てしまった恥しい体験です。あの無骨なプラスチック製の角形のかごに買ったばかりの商品を満載にして、時には鼻歌などを口ずさみながら、店の外へ出てしまう。私、よくやるんですよ。みんなも、やるよね。お願い、やると言って。
 顔から火が出るとか言いますが、ほんとにそういう状態に陥りますね、自分がなにをしているのか気づいた瞬間には。口から火を吐いてる分には時には尊敬されたりしますが、顔から火が出るのはこれはもういけません。この火は目に見えません。メタノール燃焼状態。動揺します。すごくします。ひたすら平静な態度を装ってますが、心の中は恐慌状態です。なんて馬鹿なことをしてしまったんだ俺は、などと自分を責めるゆとりさえありません。ただただ動転するのみです。
 それでも、恥をかき続けた半生の蓄積が、このままではいかん店内に戻らなければ、と最後の理性を掘り起こしてくれて、ようやく次の行動指針が決定されるわけです。Uターンするしかありません。
 この距離が長い。とても長い。すぐそこまで歩いていくだけなのに、とても遠い。走って取って返すのもみっともない、と、それがどういう価値判断なのか自分でもわからないままに、悠々とした足取りで歩を進めるわけです。いやあ、ついうっかりしちゃったなあ、まいったまいった、でもぜんぜん気にしてないんだもんね。と、いうような演技を知らず知らずしているのです。誰に対してそんな演技をしなければならないのかわからずに俳優と化すのです。そもそもそんな演技をしたところで誰も気づかないではないか、と思い悩んだりもするのですが、そんな懊悩はおくびにも出さず、不必要に悠然とした挙措で、出てきたばかりのスーパーを目指すわけです。急ぎたい、一刻も早くこの苦痛から逃れたい、と思いつつも、あははははいやあ俺ってばかだなでもほんとにこんな失敗のことなんかぜんぜん気にしてないんだよ、という態度をさりげなく振りまきながら、スーパー特製買い物かごをぶら下げて歩くしかないのでした。
 駅のホームで鳴り響くベルの中を疾走してきたものの、電車に乗らんとしたまさにその直前でドアが閉まる。あれですよあれ。あの心境です。誰もが不必要なアクションをみせますね。大袈裟に悔しがったり、ぜんぜん気にしてないようなそぶりをしたり。いずれにしても過剰な演技ですね。でもね、あれは必要なアクションなんです。自分の心のバランスを保つための行為なんです。恥しいと感じたときに、ひとは取り繕ってしまうんです。周囲のひとに見て頂きたい行為ではありますが、それはもう純粋に自分だけのためになされるアクションなんです。わかってあげてください。
 心中はまだ動揺しています。心臓ばくばくです。いろんなことを考えてしまいます。あ、あのおばちゃん、内心では笑ってるんだろうな。いいんだいいんだ、どうせ俺は粗忽な奴なんだ。あ、あっちのおねえちゃんなんか、露骨に笑ってるじゃないか。俺のことかな。違うよな、あさってのほう向いてるもんな。でも、俺のこと笑ってるのかもしれないな。買い物かごの中身が丸見えだもんな。今夜の献立ばればれだよな。おでん。ああもう、ああもう。あっ。ひょっとして、こ、このコンニャクがいかんのではっ。ち、違うんです。このコンニャクは、食べるんです。おでんにしてですね、食べるんですってば。
 大声で弁明したくなる衝動を抑えるのに苦労してしまう。もしかしたら自分が誤解されている、という怯えにさいなまれる。冷静に考えればそんなことはないのに、そして本当に誤解されていたとしてもだからといって別にあわてふためくこともないのに、もはや精神の均衡を欠いているので、考えなくてもいいことばかり考えてしまうんです。しかも、こんなときばかり連想は悪いほうへ悪いほうへと、止めどなく転げ落ちていく。もう、いや。
 そうして、このような精神の大冒険を経て、再び店内に入りレジの横で数分前に行うべきだった作業を終え、あらためてスーパーから解放された頃には、心身ともにすっかり疲れ果て、もはや家に帰る気力さえ喪失しているというテイタラクとなっているのです。
 しかし、それもこれも昨日までのいい思い出です。私は遂にやってしまいました。いま目の前にスーパー大黒屋とロゴが入ったプラスチック製の買い物かごがあります。ちなみに、私は家にいます。
 恐れていた日がやってきました。私は、帰途に自分の過ちに気づくこともなく、とうとう家までの帰還を果たしてしまったのです。その途中で私を目撃した方々の胸に去来したであろう様々な感想については、今はなにも考えたくはありません。
 私はいったい、どうしたらいいのでしょう。

バックナンバー一覧へ /  目次へ



017 96.04.23 「葛藤」

 パチンコは難しい。なかなか勝てない。出玉の数をもって判断した場合、なかなか勝てない。他にもなにかしら精神的な勝利の形態があるようにも思うが、やっぱり札を数えつつ景品交換所をあとにしなきゃないかんよなあ。あ、ちがうちがう、そのようなことを語ろうとしたのではなかった。
 昨日も私の出玉は一進一退を続けていた。正確に記せば1進1.1退といったところで、約分すると十進十一退で四字熟語ではなくなってしまうのだが、そもそもこういうのは約分というのか。まあ要するに、大当りで出した玉がなくなって更にいくばくかの金銭を投入したとたんに大当りが来るものの連チャンしないという、アンニュイな花曇りの午後三時、メロウな気分でビッグウェンズデイを待つ、というような状態だったのだ。
 ふと気づくと、隣のおじさんがなにやらぶつぶつ呟いている。「まいっちゃったよなあ」と、ひとりごちている。私のあとから席に着いたおじさんだ。
 パチンコをやりながらなにかしら呟いているひとは意外に多い。たいていは思うようにならない現状に対する不満である。即ち、今日はついてねえなあ。しかし時には、パチンコとはまるで関係のない事象について不平不満を洩らすひともいる。じっと耳を傾けていると、いっこうに上がらない自らのセールス業績についての独自の見解とか、崩壊しつつある婚姻関係に対しての厭世的な感想などを聞くことができたりする。これらはたいへん面白い。パチンコしにきてよかった、と思う瞬間だ。
 おじさんも十進十一退のクチのようであった。ちらりと表情を盗み見ると、浮かない顔だ。私は、ここぞとばかりに耳をそばだてた。
 喧騒のなかで、「五十万円」「警察に」といった発言を聞き取ることができた。むむむ。強盗かなにかをやらかして五十万円を強奪してはみたものの自首するか否か思い悩んでいるのであろうか。私はどきどきしながら、なおも我が鼓膜に神経を集中した。もはや、パチンコどころではない。しばらくして、「届けるか」「こんなもの拾ったばっかりに」「民法」といった独白を採集するに至った。どうやら、どこかで五十万円を拾ってきたらしい。警察に届けるかどうか思案しているもののようだ。おじさんの視線が時折、台の上の棚に走る。黒いセカンドバッグがある。おじさんが置いたものだ。が、おじさんの所有物ではなく、今のところおじさんの意識においては拾得物の段階であり、今後の身の振り方を考察されている過程のものらしい。
 どうするつもりなんだろう。ひとごとながら、私は焦燥した。おじさんの葛藤は続く。「五十万円あれば」という言葉に続き、おじさんのささやかな欲望、夢、といったものが語られた。引き続き、自分の良心、正義感といった事柄にも、おじさんは触れた。
 さあ、どうする。どうするんだ。走れ正直者となるのか、ネコババと40人の盗賊になるのか。私の緊張は高まった。おじさんはどちらを決断するのか。
 おじさんの最後の玉が吸い込まれていった。おじさんは意を決したかのように勢いよく立ち上がった。
「よし、決めた」と、おじさんは言った。
 私は、呆然とした。おじさんは、黒いセカンドバッグをその場に残して立ち去ってしまったのだ。
 それはないだろう。それは。
 私の他に、おじさんの独り言に耳を傾けていたひとはいないようであった。おじさんの忘れ物に気づいたひともいないようであった。
 その後、店員がその忘れ物を持ち去るまでの小一時間ほどの間、私はいろんなことを考えた。それはもう、いろんなことが胸に去来した。
 くたくたに疲れた。すっかり老いたように思う。

バックナンバー一覧へ /  目次へ



018 96.04.24 「恵まれない私に孫の手を」

 ふと背中がかゆくなったので、孫の手を買いに出かけた。孫の手は、神の手、見えざる手と並んで世界三大手と称されている。三大手とは、いかにもかっこわるい語感だが、侮ってはならない。神の手とは、空気銃を持つ以前のディエゴ・マラドーナの手のことであり、見えざる手は見えないところがエライ。この偉大なふたつの手に並び称されるとは、孫の手も孫の手冥利に尽きるというものであろう。いずれ端倪すべからざる実力を備えているとみて間違いあるまい。あ、端倪すべからざるなどという言い回しを生まれて初めて使ってしまいました。使い方、まちがってないかな。どきどき。すべからざるがちょっといかしてるので、前々から使ってみたかったんです。
 ことほどさように、孫の手は偉大である。合いの手風情とはちょいとばかり住む世界が違う。ましてや、奥の手などといった姑息なヤカラと比べてはならない。なにしろ、孫の手なのだ。
 さて、どこで購入すればよいのか。孫の手は、どこで買ったらいいのかランキングにおいて、日の丸と激しいツバゼリアイをしていると伝え聞く。こういうときはデパートに行って、受付の見目うるわしき女性に尋ねるのがよいとされている。先哲から語り継がれたその処世訓に従ってデパートを訪ね、思ったより見目うるわしくはなかった女性に訊いてみた。たちどころに雑貨売り場とのお答えが返ってきた。きっと一日平均13.3名が同じ問いを発しているのであろう。
 意外にあっけなく入手の運びに至った。実は、どこかの観光地に行かねば購入できないのではないかとの危惧もあったのだ。そのへんの店先で見かけることはないが観光地の土産物店では必須の定番商品であるという事実が、孫の手の謎めいた属性だ。そのくせ、徹頭徹尾、実用品ときている。孫の手以上に掻く快感を満たしてくれる道具はない。装飾品でも食品でもないというなんとも不可解な土産物だ。孫の手の需要はどのあたりに立脚しているのであろう。思えば、奇妙な商品ではある。
 我が所有物と化したからには早速つかってみたい。たとえば、公衆の面前で買ったばかりの本を紙袋から取り出して読む。これはべつにおかしくはない。衆人環境のなかで買ったばかりのパンツにはきかえる。これはちと問題であろう。孫の手はどうか。わからない。背中がかゆい。そのために掻くための道具を購入した。路上ですぐに使うのは公衆道徳に反するだろうか。孫の手で背中を掻くという行為は、世間の一般常識のなかで、どのように位置付けられているのだろう。しばし黙考したが、わからなかった。私は愕然とした。三十数年生きて、いったいなにをしてきたのだろう。こんな簡単なことがわからない。
 困ったことになった。似たような行為を思い浮かべてみよう。雑踏のなかで髪を櫛でとかす、爪切りで爪を切る、あまり見栄えのよいものではなかろうが、とりたてて奇異ではないようにも思える。だったら、孫の手を背中に突っ込んで気持ちよさそうに掻くのもさほど問題はないのではないか。掻きたい気持が、そのような思考を辿りたがる。
 しかし、実行はためらわれた。なにが私を押しとどめるのだろう。かゆみは増す。掻けない状況に図らずも陥ったせいか、背中のかゆみは次第に耐え難くなってきた。
 我慢できない。上半身が知らず知らずのうちにもぞもぞとむずがってしまう。だんだんものを考えられなくなってきた。頭がぼうっとしてきて、ふと気づいたときには孫の手を背中に突っ込んでいた。欲望の赴くままに掻いていた。き、きもちいい。ふかい溜息がもれた。
 ひとごごちつくと、再びセケンテイという概念が私の脳裏に甦ってきた。周囲の視線が心なしかよそよそしい。失笑を買っているような気がしてならない。
 あ。やはりいけなかったのか。こういうことは隠れてするべきだったのか。頭に血が上った。ついで、心の中に喪失感が忍び寄ってきた。私は人としてなにか大切なものを失ってしまったのではないか。越えてはならない一線を踏み越えてしまったのではないか。ひとときの悦楽に我を忘れ、畜生の道に堕ちてしまったのではないだろうか。
 泣きたくなってきた。自分は穢れてしまった。純真だったさっきまでの自分には戻れないのだ。
 でも、しょうがない。やがて、私は開き直った。だって、もう、かゆくないんだもん。

バックナンバー一覧へ /  目次へ



019 96.05.05 「日本人初のうんぬんかんぬん」

 土井孝雄さんという氏名を持つ方は数多くいらっしゃるかと思われますが、宇宙開発事業団に籍を置く土井孝雄さんはそんなに多くはないでしょう。更に、NASAの穴で宇宙飛行士としての特訓を受けている土井孝雄さんとなると、これはひとりしかいないものと思われます。日本人初の船外活動をする宇宙飛行士になるそうです。科学技術庁長官がそのような見通しを発表したそうです。
 まだあったのか、日本初のネタは。次はもう船長しかないのではないかと思っていたんですが、いやあ、宇宙開発事業団のネタは尽きまじ、って感じですね。妙に笑えます。誰が宇宙に行っても、み~んな日本人初。日本人初の宇宙飛行士・毛利さん、日本人初の女性宇宙飛行士・向井さん、日本人初のミッションスペシャリスト・若田さんときて、今回の土井さん。その次には日本人初の二度目の搭乗者・向井さん、というこじつけネタも控えてるみたいです。
 なぜそんなに日本初にこだわるんでしょう。予算確保のために話題性が欲しいという切実な問題はあるんでしょうけど、TBSに先を越されたのがトラウマになってるんじゃないですか。秋山さんですね。宇宙開発事業団はそれがよっぽど悔しかったんじゃなかろうかと、私は邪推してるんですけどね。やっぱり宇宙空間に乗り出した最初の日本人がいちばんインパクトがあるもんなあ。宇宙開発事業団はその消せない事実の記憶を薄れさせたいがために、日本人初の連発を企てている。そんなふうに思えてしまうわけですよ。初回の大量失点を挽回すべく毎回得点で地道に盛り返そうとはするものの点差はまだまだ大きい、ってなところですか。
 報道される日本人初という言葉の裏側に、宇宙開発事業団の強がる声が聞こえてしまうわけですよ、どうしても。「どうだTBS、我々は高度に訓練された宇宙飛行士をあの広大な宇宙空間に送り出しているのだ。ただ窓の外を眺めて感想を述べてた奴とは違うのだ。貢献だ。貢献してるのだぞ。そのへん、わかってるのか、おい。我々は、あんたがたが記者をひょいと乗せてしまう前から人員をNASAに派遣していたのだ。訓練を積ませていたのだ。それを、なんだというのだ。宇宙船のことなどなにもわからないシロートを、いきなり乗せたりして、それでいいと思っておるのか。え、どうなんだ、おい」
 でも、日本の科学年表で最初に登場するのは、やっぱり秋山さんなんだよね。悲運の宇宙開発事業団。
 もはや、これまでのイキサツを粉々に打ち砕くほどの衝撃で決定的に注目を浴びるとすればこれはもうひとつしかないわけで、宇宙開発事業団、実はそれを待っていたりして。いや、まさかそんなことはないでしょうが。
 でもやっぱり、日本人初の宇宙空間での死者に勝る注目度は、これはちょっと他にないよなあ。

バックナンバー一覧へ /  目次へ



020 96.05.06 「ひまわり戦記」

 押入れの奥から古文書が発見された。絵日記だ。私が幼少のみぎりにしたためたものらしい。まったく覚えはないが、表紙に私の名前とその所属3年1組が記されているので、きっとそうだ。ある夏の7月21日から8月31日までが、たいへん稚拙な絵と字で綴られている。夏休みの宿題であったようだ。
 テーマはただひとつ、日高町軍団vs藤野沢町軍団の抗争劇だ。その夏休みにおける私の興味は、憎き藤野沢町軍団をいかにしてひまわり広場から駆逐するかというただ一点に絞られていたのだ。ちっとも憶えていないが、絵日記はそのように語っている。
 我々日高町の子供たちが常日頃から遊び場として使用していた通称ひまわり広場に、突如として侵略者が現れたところから、この40日戦争は始まった。7月21日に、幼い私はこのように記述している。「きょうから夏やすみだ。ひまわり広場がのっとられた。ぼくたちがやきゅうをしに行ったら、ふじの沢のやつらがさきに来ていた。サッカーをしていた。みきおちゃんがもんくを言った」なんの創意工夫も見られない安直な文章である。情けない。
 当時、幹男ちゃんは6年生で我々のリーダー格であった。長じて消防署に勤務したが酒席での喧嘩が原因で退職し、現在では不動産業を営んでいる。性癖は変わらないということになるのであろうか。更に記述を辿ると、文句を言った幹男ちゃんと藤野沢町軍団の頭目の間で喧嘩が始まったことになっている。これは幹男ちゃんの勝利となり、彼等は引き上げた。第一次ひまわり広場の合戦は、双方の大将があいまみえ、地元側が勝利を挙げたのだ。やはりホームは強かった。
 束の間の平和がもたらされたが、7月27日に第二次合戦が勃発した。藤野沢軍団は乾坤一擲の奇襲を採用した。その前後の記述から察するに、敵は偵察を繰り返していたらしい。こちらの弱点を的確に突いてきた。幹男ちゃんが留守の間を狙ってきたのである。こちらの大将は、こともあろうにこの日から家族で和歌山の親類の家に行ってしまっていたのだ。我々日高町にはもうひとり6年生がいたが、この克己ちゃんは学究肌とでも称すべき人物であり、統率力のかけらもなかった。どんな昆虫の名前でも知っていたり、宿題を手伝ってくれたりする、というような部分で下級生の思慕を得ていた人材であり、誰にでも好かれてはいたが、およそ戦闘には不向きであった。
 その日も我々は飽きもせず野球をしていたのだが、ライトを守っていた克己ちゃんがとつぜん大声を上げて倒れた。先ごろ幹男ちゃんに叩きのめされてしまった敵の大将が、背後から克己ちゃんを襲ったのだ。この時点で、敵の大将は私によってイノシシと命名されている。子供の発想は他愛ない。イノシシに続いて彼の配下が続々と出現し、ひまわり広場はあっという間に彼等に席巻された。こちらは頼るべき大将が不在で、変わって指揮を取るべき人物を真っ先に失っている。ひるんでしまった。防衛や警戒などの思想もなかったことも敗因であろう。すっかり委縮してしまい、克己ちゃんを担いで撤退するほかに道はなかった。私は「こわかった」と書いている。どういうつもりか、朝顔の精密な描写が添えられている。逃避、であろう。
 我々は領土を失った。翌28日は雨となった。我々の間にお触れが回った。克己ちゃんが召集をかけたのだ。ぞろぞろと克己ちゃんの勉強部屋に集まった。のちに医師となって僻地医療に赴いた克己ちゃんの武器は頭脳であった。幸い膝小僧を擦りむいただけで済んだ克己ちゃんは、昨日の敗戦をなんとも思っていないようだったので、一同は安心した。克己ちゃんの言によれば、負けた理由がわかっているから気にすることはないとのことであった。いま考えると、たいへん優れた軍師であることがわかる。状況を分析し兵士に安堵を与えるという行為を最初にやっている。だから、次に出された指令に誰もが従うのだ。すぐに復讐戦に挑むことはない、というのが克己ちゃんの考えだった。一夜明けて一時の恐怖から解放された面々からは、たちまち不満の声があがった。自分達の場所を乗ったられたのだ、ただちに取り返さなければ。そういう声をあげた面々に、克己ちゃんは指令を与えた。藤野沢に偵察に赴け、というものだ。なにかしたがっている人物にすかさず仕事を与えている。しかし分はわきまえていたようで、幹男ちゃんが帰ってくるまで戦いは我慢しようと表明している。どう考えても一級の軍師の所業である。私はといえば、絵日記上で克己ちゃんの煮え切らない態度に不満を洩らしている。まだまだ人間が甘かったようだ。今でも甘いが。
 諜報戦が始まった。派遣された面々はなかなか優秀だったようで、藤野沢の連中が今まで根城にしていた遊び場が宅地造成されたため彼等が流浪の民となったことが報告された。理由のない侵略ではなかったのだ。同情すべき余地はあったが、子供というものは狭量である。誰もが復讐戦を待ち望み、士気は暴発寸前までに高まっていった。
 8月4日、幹男ちゃんが戦線に復帰した。すでに克己ちゃんとの間で軍議が催されたらしく、遅滞のない命令が全軍に響き渡った。第三次ひまわり広場の合戦の火蓋が切って落とされた。
 藤野沢の連中は、ひまわり広場で夢中でサッカーに打ち興じていた。我々は物陰に隠れながらそっと三方から取り囲んだ。しばらく待機していた。克己ちゃんが合図の打ち上げ花火を上げた。それを期に全員が声を限りに喚いた。鬨の声だ。日高町の子供がすべて動員されている。女の子もだ。男の子はいっせいに爆竹に火をつけ、相手にあたらないように投げた。派手な音がした。敵は立ちすくんだ。幹男ちゃんが大声をあげながら、敵方に突進した。続いて、全員が突進した。三方から唐突に出現した我々を見て、敵は一気に総崩れとなった。意図的に解放されていた残された一方にひとりが駈けだし、何人もがそのあとに続いた。敵の指揮系統はなだれをうって崩壊した。あっというまに敵方は逃げ散った。イノシシが、いかにもそれっぽいセリフを吐いた。「お、おぼえてろよ」大勝利だ。克己ちゃんが立案し幹男ちゃんが指揮したこの作戦は大成功をもたらした。私は絵日記に「ざまあみろ」としたため、全員がお日様の下で万歳している絵を描いている。会心の勝利であった。
 その後、8月22日まで、ひまわり広場は我々の天下となった。当番制で常に見張りが立ち、敵の斥候が発見されるや否や全員で恫喝のブーイングをあげるという不自由な平和ではあったが、我々は自らの領地を専守防衛し、夏休みを謳歌した。
 8月23日は朝から厚い雲がたれこめ、湿った風が強く吹いていた。嵐が近づいていた。第四次ひまわり広場の合戦は、暗い空の下でその不気味な端緒を静かに待っていた。
 藤野沢軍団の新兵器は飛び道具であった。投石という手法が用いられた。もちろん昨今の未成年が演じる殺伐としたサツリクとは根本的に違って暗黙のルールがあるわけで、敵方も絶対に当たらないようには投げている。だが、投げられたほうは確実にひるむ。またしても奇襲ではあった。多くの石つぶてが敵兵によって投擲された。
 とはいえ、投石がさほどの効果をあげることはなかった。軍師である克己ちゃんのレクチャーによってほとんどのケーススタディが済んでいたのだ。迎撃態勢は万全だった。しかも、誰もが全幅の信頼を置く幹男ちゃんという大将がいる。我々の士気は高かった。その数日前に私は、「あいつらがどんなことをしたって、ぼくたちは負けない」と書き記している。まるっきり馬鹿ではないか。あろうことか、一介の兵士と化している。我ながら誠にもって情けない。自我が、まだ、弱々しい。
 実際のところ確かに一兵卒ではあったので、軍師によるかねての御指導の通り、すかさず反撃に移った。ホース攻撃というものだ。広場の片隅にあった水道の蛇口を全開にして、つないだホースの先を細めて相手に高圧力の水を放出する。この攻撃は意外に効果があった。瞬く間に、相手はずぶ濡れになって撤退していった。完勝だ。
 だが、事態は急変した。敵の藤野沢軍団に神風が吹いたのだ。いきなり雷が鳴った。同時に大粒の雨が、ついに堪えきれなくなった空から勢いよく落ちてきた。土砂降りだ。こちらも、あっという間にずぶ濡れだ。戦闘どころではなくなった。結論としては、痛み分けだ。相手は撤収したものの、こちらも領地を確保することなく撤退してしまったのだ。私は、「たいふうが来なければ、勝ったのに」と、満たされない思いを悔しそうに綴っている。
 8月28日、ついに和平が訪れた。抗争の結末はたいへん下らない。第三者の介入だ。双方の陣営の親同士の話し合い、という常識的で心踊らない方法論が強制的に採用されてしまったのだ。「仲良く遊びなさい」とのお達しだ。私は、「仲良く遊んでたのに」と記述している。本質はわかっていたらしい。
 要するに、双方とも白けてしまった。本人達が意識しようとしまいと、一連の争いはゲイムだったのだ。どちらの陣営も漠然とそう認識していたのだ。そこに、なんだかわからないけど、とてもかなわない権力が介入してきた。
 彼等の和平案は「ひまわり広場は日高町の子供たちも藤野沢町の子供たちも仲良く使える」というものであった。ずっとそうしてきたじゃないか、という思いを言葉に変換できる子供がひとりもいなかったために、強制的な和平が成立した。納得していた奴は、ひとりもいない。
 届けたい思いを伝える言葉を学ぶためには大人にならなけれならないのだろうか、大人にならないで届けたい思いを伝えるすべを学ぶ方法はないのだろうか。と、そんなことを考えたのは束の間であって、もちろんそれは言葉にできない思いに過ぎない。つまるところ、必要な言葉は、必要がなくなった後に覚えるしかないのだ。
 むずがる思いが薄れた頃に、ずっと昔に必要だった言葉が目の前に現れて、その意味を提示してくれる。
 子供の頃にかいた絵日記は、大人になってしまった本人しか、真に理解できないのではないか。と、いうのが本日の結論だ。明日になったら、違う結論を抱いているかしもれないけれども。
 この絵日記の、宿題という観点からの評価は、「たいへんよくできました」である。色あせた朱色がそう語っている。いい先生であった、のだと思う。

次の20本へ /  バックナンバー一覧へ /  目次へ



新屋健志[araya+fureai.or.jp