93/01/14 「居酒屋のカンガルー」

 そのおじさんは、行きつけの居酒屋でたまたま隣合わせただけの、いわば行きずりの
おじさんなのだった。これがたとえば長い髪に隠れた瞳がやけに悲しそうな美女と行き
ずりの一夜を過ごしたのならこれはなかなかオツなものであるが、首筋のあたりがよく
陽灼けした赤ら顔のおじさんとなぜか意気投合してしまい腰の抜けるまで酒を飲んだと
なると、妙にわびしいものがある。
 酒飲みの話題は次第にくだらなくなっていくのが正しいあり方だ。最初はお互いの仕
事の話に始まり、貴りえ騒動や雅子さんの話などをしていたのだが、いつのまにかカン
ガルーの話になっていた。なぜ、話題がそこに落ち着いたのかはわからない。酔った夜
の記憶はこま切れだ。ふと気づくと、おじさんにカンガルーの立場について説明してい
る自分がいるのだった。
「だからさ」おじさんは言うのだった。「カンガルーってのはなんの仲間なんだい。俺
が思うには犬の一味じゃないか。狼とかさ、あのへんの仲間じゃないか」
「違うってば」私は困惑した。「犬の仲間じゃないよ。猫の仲間でもないし、ましてや
鯨の仲間でもない」
「鯨か。鯨はうまいぞ。ベーコンがうまいんだ」
「いや、だからね」私は頭を抱えた。「哺乳類にはね、三種類あるの」
「哺乳瓶がどうかしたか」
「哺乳瓶じゃないよ。哺乳類」
「哺乳類くらい知ってるぞ。卵を産まないんだ」
「いや、産むやつもいるの。カモノハシとかさ。これがひとつめのグループね」
「天の橋立か。あそこはいいとこだ。きれいだぞ。知ってるか。股の間から景色を眺め
るんだぞ」
 私は途方に暮れた。「うんうん、それは知ってるよ。行ったことないけど」
「なんだと」おじさんは声を荒げた。「だめだぞ。行かなくちゃ」
「そのうちに行くってば。でね、カモノハシなんだけど、これは卵を産むの。哺乳類の
くせに」
「それはいかんな。そういうのはいかん。哺乳類が卵を産んじゃいかん」
「いかんって言われてもなあ」
「それが哺乳類のひとつ目のグループなんだな」
 わ。なんだなんだ。ちゃんと聞いてるじゃないか。
「そ、そうそう。それがひとつ目ね。原獣っていうの」
「ふむ」おじさんは不意に声を高めた。「お銚子あと二本追加だっ」
「まだ飲むの。強いなあ」
「おまえも飲むんだ」目がすわっている。
「ひええ」
「つまり、卵を産むのが哺乳類だな」
「……」
 全然わかってない。
「違うよ。そういうグループがあるっていうだけだよ」
「そうか。人生は厳しいものだな」
「ゑ? なんで人生が出てくるの」
 おじさんは手酌で注いだ酒をあおった。「いや、ふとそう思ったんだ」
「たいへんだね」
「うん。たいへんだ。人生は辛いよ。で、ふたつ目のグループってのはどんなんだ」
 おじさんはフェイントばかり使う。困る。こっちだって酔っぱらってるんだぞ。
「あ~、それはね。ええとね。カンガルーがそうなの。後獣っていう連中」
「それは偉いのか」
 むむ。なんだその謎の価値観は。
「偉いかどうかは知らないけどさ。いわゆる有袋目ってやつね。カンガルーみたいにお
なかの袋で子育てする連中だよ」
「偉いじゃないか。泣けてくるよ」
 おじさんの目に涙が滲んでいる。わけがわからない。
「なにも泣くことはないのに」
「うるせい。俺はこの手の話には弱いんだ。涙もろくなっちまう」
 どの手だろう。
「まあ、それがふたつ目のグループね。ほかにはフクロオオカミとかフクロアリクイと
かがいる。わかった?」
「わかったよわかったよ」おしぼりで涙をぬぐっている。
「みっつ目が、我々人間が含まれるグループで、真獣っていうんだけど、ここにはほと
んどの哺乳類が入ってるんだ。鯨も猫も狼も」
「待て待て」おじさんがさえぎった。「フクロオオカミは、狼の仲間じゃないのか」
「違うよ」
「おまえ、俺を馬鹿にしているのか」
 わあ。怒ってる。怖いよう。
「いや、だからね、姿かたちは似ているけど、進化の考えからすると、ぜんぜん別物な
の。後獣と真獣はぜんぜん、別のものなの。フクロオオカミがいくら狼に似ていても、
進化の過程はまったく違うの。子宮の数が違うわけ。カンガルーたち後獣はね、子宮が
ひとつしかないの」
「さすがはカンガルーだな。見どころがある」
 なんだそれは。
「俺は前々から思ってたんだけど、カンガルーというやつは他の動物とは違ってると考
えてたんだ。そうかそうか。そういうことだったのか。やっぱり、カンガルーは偉い奴
だったんだ」
 また泣きだした。どうなってるんだ。
「よくわかった。カンガルーって、なんて健気なんだろう」
 謎の感想ではある。
「ま、いいや。ともかくそういうわけなの」
「うんうん」おじさんは涙もろい。
「んでさ、もうすぐ看板なんだって。もう帰ろうよ」
「うんうん。帰ろう帰ろう」
「よく飲んだね」
「ああ。飲んだ飲んだ」
「じゃあ、気をつけてね」
「うんうん」おじさんは突然われにかえった。「あ、そうだ」
「なに」
「カンガルーを大事にしなきゃだめだぞ」
 おじさんは、きっぱりと言った。

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