92/07/22 「冷奴、その災厄の根源」

 その夏はすべてが狂っていた。
 というのはもちろん勘違いで、実際に狂っていたのはこのわたくしひとりであった。
世の中はわたくしの事情体調運勢その他には一切関知せず、つつがなくその営みを続行
していた。いつでもそうであったように、わたくしはこの社会になんらの影響も及ぼさ
ず社会もまたわたくしを必要としていなかった。わたくしが社会から必要とされるのは
「すいませぇんシャッター押してくれませんかぁ」と頼まれるときだけである。
 真夏日の太陽は慈愛の心をどこかに置き忘れてきたらしく、つい先頃三番目の惑星に
発生した生命体の思惑などに頓着つもりはさらさらないようであった。太陽はなんらの
仮借もなくその膨大な熱量のごく一部をこの惑星に放射していた。その被害者のひとり
がわたくしであった。気温の上昇に伴い、わたくしの白痴度は確実に増加の一途を辿っ
ていた。常日頃から狂っているのは確かに否定しがたい事実ではあるが、その忘れ難き
一日におけるわたくしの馬鹿指数は絶望的な値を記録し、しかもその数字は更なる上昇
の機会を虎視眈々と窺っているようなのであった。
 時計の針が二本重なって真上を指し示し、しかもあたりが暗くなければ昼食を摂取す
るというのが、わたくしのしきたりであった。それがわたくしの生き方である。わたく
しはそのようにして、それまでのささやかな人生を細々と生き永らえてきたのである。
そのおぞましき日にわたくしがその習慣を敢行しようと決意したとき、ハンドルを握る
わたくしの目に折りよく映ったのは、一軒の定食屋の看板であった。わたくしは深く考
えることもなく、その定食屋の駐車場に車を乗り入れた。
 わたくしの昼食記憶において、その定食屋は出先で行き当たりばったりに入った初見
の店という位置付けがなされた。店内の壁をひとしきり見回したわたくしはフライ物に
自信を抱いたメニューであると看破するに至った。揚げるという行為に並々ならぬ誇り
を感じさせる品揃えであった。わたくしはトンカツ定食を注文した。
 過ちとは、その行為がなされた瞬間にはそれとは気づかない点にその特質がある。過
ちは常に過去に存在する。時間を意のままに操れない以上、わたくしたちにできること
は後悔と反省だけである。わたくしの過ちはトンカツ定食という選択に潜んでいた。ト
ンカツの部分に問題はなかった。定食のあたりに禍根を残した選択なのであった。
 だが、この時点ではまだ過失は回避できた。せんキャベツのしなやかな褥の上で触れ
なば落ちんといった風情で横たわるトンカツが運ばれてきたときにも、まだ過失の予兆
さえわたくしの胸に去来してはいなかった。自らの幸福を無条件に享受できるあの昼メ
シ時という尊い時の流れにただ我身を委ねていればそれでよかった。こんがりと陽灼け
したトンカツは七片ほどに切断されたあられもない姿で、わたくしの官能を刺激した。
わたくしは我を忘れ、そのなまめかしい肌に毒々しい色彩の辛子を塗りたくった。わた
くしの瞳には嗜虐的な恍惚の光が宿っていたに違いない。真夏日が触発した狂気がわた
くしを蝕んでいたのである。鶏の生き血をいたいけな入信者に降り注ぐ教祖と化したか
のような仕草で、わたくしは哀れなトンカツにソースを注いだ。もとより蓄えの乏しい
わたくしの理性はこの段階でどこかへ旅立ってしまっていた。わたくしは本能の赴くま
まに一片のトンカツに噛りついた。口内に豊饒な肉汁が満ちた。甘美な至福感がわたく
しの全身を貫いた。この一瞬のためだけにわたくしの人生は存在しているのだった。
 ふと、忘我の境地をさまようわたくしを現実に引き戻す者があった。さきほどトンカ
ツ定食を運んできたおばちゃんであった。この坂上二郎と瓜ふたつの顔を持ったおばち
ゃんは、唐突にわたくしのテーブルに冷奴を置くという意表をついた大技を繰り出して
きた。わたくしの脳裡をかすかな疑惑がかすめて、すぐ消えた。そういえばさきほどト
ンカツその他を運んできた際に、坂上二郎はあとでなんとかを持ってくるというような
発言を残していったようであった。なるほど、なかなか豪華な定食ではないか。トンカ
ツ御飯おしんこ味噌汁の四点セットかと思われていたところへ、いきなり冷奴という強
力な援軍が現れたのである。わたくしのテーブルは一気に活気に満ちた。定食と名がつ
きながらお盆にすべての食器を積載するような姑息な真似をしていないだけに、なおさ
らその繁栄ぶりは頼もしく思われた。広大なテーブルの大地に、突如として絢爛豪華な
定食絵巻が繰り広げられたのである。
 なかでも冷奴が圧倒的な存在感を誇示していた。我がくにの食文化を陰から支えてき
たその歴史が醸し出す風格は、ややもすると主賓たるトンカツの影を薄くしかねないほ
どの威光を放っていた。長年培ってきた庶民との熱き連帯の絆がその背後に横たわって
いるのであった。わたくしの浮気な心は早くもこの遅れてやってきた夏の定番に奪われ
つつあった。わたくしは狂おしい思いでトンカツを咀嚼嚥下しながら、もどかしげな手
付きで冷奴に醤油を投入した。花がつをがその薄い全身を震わせて縮んでいった。わた
くしは重々しくうなずきながら、冷奴を口に運んだ。
 わたくしは己の平々凡々たる人生の中で数知れない汚点をその年譜に書き込んできた
が、このときほど自らの軽率さを悔やんだことはない。小学四年の三学期の通知表にお
いて鎌田先生が「よく考えて行動しましょう」と諭して下さったというのに、わたくし
はその有難い教えに背いてしまったのであった。
 最初は雑音の一種としてその男の声はわたくしの耳を右から左へ通り過ぎていった。
恐竜の神経はたいへんおおらかで、尻尾の痛痒が脳に到達するまで十秒ほどかかるとい
う。ちょうどそのような具合で、わたくしは彼の言葉を至極ゆるやかに理解するに至っ
た。すこし離れた席に座っていた萩本欽一にそっくりな男は、坂上二郎を呼びつけて俺
の頼んだ冷奴はどうなっているのだと苦情を申し立てているのであった。あまつさえ、
萩本欽一はわたくしを非難するような視線をそのタレ目から放出しているのであった。
 わたくしは状況を瞬時に理解し、そして震撼した。
 わたくしの全身から冷汗が噴き出した。
 萩本欽一はこのやりきれない暑さの中で束の間の涼を求めようと、昼食時に冷奴を食
する贅沢を自らに許したのであろう。ところがようやくできあがった冷奴は目の前を通
りすぎて、隅の席でふやけた表情でトンカツを頬張っている男の許に運ばれてゆくでは
ないか。そしてあろうことかその間抜け面は臆面もなくその冷奴に醤油などをかけて今
にも食らいつかんばかりだ。なんということだ。俺の尊厳というものはいったいどうな
るのだ。ここはひとつ、店の者に意見してやらねばならん。
 かくして萩本欽一は坂上二郎を詰問するに至ったのであった。坂上二郎は早速わたく
しの許へ派遣された。さっきの冷奴は間違って運んじゃったのあらもう食べちゃったの
あらあらどうしましょう困ったわねあらあらあら。坂上二郎のちっこい目には狼狽が色
濃く浮かび、心底困り果てているようなのであった。
 わたくしは底無しの脱力感にさいなまれながらも、かろうじて抗弁を試みた。いやこ
れは定食の一部だと思ってしどろもどろあとからなにか持ってくるって言ってたからて
っきりこれがそうだとしどろもどろああわかりました金は払うから注文したことにしと
いてくださいしどろもどろ。他にいかなる対応をすればよかったのであろうか。
 結局、ふたりの客がそれぞれ冷奴を注文したということで事態は収拾された。萩本欽
一にはほどなくして冷奴が届けられ、坂上二郎は己の過失がさしたる問題の拡大を見せ
ないようなので、各々納得したようであった。
 だが、わたくしの事情は複雑であった。激しい自己嫌悪が自らの軽率を責めたててい
た。今後しばらくは消失しえないであろうと想像される屈辱感も強固に居座っていた。
思えばこのような屈辱を覚えたのは、十四歳の秋に死ぬ思いで書き上げて勇気を振り絞
って手渡した恋文を目の前で真っ二つに引き裂かれて以来である。
 それまで常にそうであったように、わたくしの人生はなんの前触れもなく突如として
暗転する。いきなり足許をすくわれる。つまるところ、同様の事態がまた発生したに過
ぎない。おなじみの展開なのであった。また会ったな、我が友ミスター災難。
 もはやトンカツも冷奴もわたくしになんの感興ももたらすことはなかった。あの興奮
はいったいなんだったのか。わたくしは味気ないままにその波乱万丈の昼食を終えた。
やがて、坂上二郎が一杯のコーヒーを運んできた。あとで持ってくると言っていたのは
どうやらこのコーヒーのようであった。わたくしは力なくそのコーヒーを啜った。
 ただ、苦いだけであった。

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