91/12/12 「これでいいのだ」

 尊敬する人は誰かと問われると、バカボンのパパと答えることにしている。誰も本気
にしちゃくれないが、本人は大真面目で答えているのである。バカボンのパパを大変尊
敬しているのである。憧れてもいるのである。彼の人生観や行動様式や哲学や腹巻など
に憧れているのである。私の人生は彼によってその進路を決定づけられたと言ったら過
言なのだが、ともかく尊敬しているのである。

 NHKをつけっぱなしにしていたら、突然矢野顕子が現れて「バカボンのパパがどう
した、バカボンのママがどうした、これでいいのだ~、これでいいのだ~」などと歌い
だしたのだった。あ、そのような持ち歌があったのですか。その歌、よいです。しかし
矢野顕子、例のごとくなんと歌っているのかなんだかよくわからないのだった。その歌
詞、知りたいなあ。

 バカボンのパパがいかに偉大であるかは、自らの名前を放棄してしまった思いきりの
よさに集約されている。名前はつまり記号だと言い切っているのだ。個人を識別できれ
ば充分ではないかと言っているのだ。バカボンのパパ。我が子の名前に依存しているあ
たりのどうでもよい態度も素晴らしい。バカボンのママも同様に素晴らしいが、バカボ
ンのパパと婚姻関係を締結しているという点で、もはやこの人は素晴らしいのである。
いかなる恋愛が過去のふたりの間に存在したのかは定かではないが、なんにせよ性行為
を少なくとも二度は執り行っているわけで、それはどのような体位をもってなされたの
であろうか。とんでもなくアクロバティックなことをしながら「これでいいのだ」と言
いつつあっというまに果てた、という展開だったら嬉しいなあと思うが、実際のところ
はどうなのであろうか。意外と淡白だったりするのであろうか。それとも延々とやりま
くってしまったりするのであろうか。永遠の謎である。

 ハジメというのはつまらない奴だ。不幸、といってもよいかもしれない。
 バカボンというのもどうでもいい。たいした奴ではない。
 『天才バカボン』の真骨頂はふたつある。ひとつは、このいかなる接点をもって成立
しているのかわからない一組の夫婦の不可解な交流である。あまりに深い夫婦である。
読めば読むほど謎は深まる。
 もうひとつは、目ん玉つながりのおまわりさんとレレレのおじさんの間に培われたあ
るかなしかの友情である。あのピストルの撃ち方とあのほうきの掃き方で、ふたりは微
妙な会話をしているのだ。
 そのように、『天才バカボン』は読まれなければならない。

 これでいいのだ。

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