91/10/05 「きよさんに感謝をこめて」

 私の眼前に一袋のお茶漬がある。「古川のふく茶づけ」という登録商標を持った即席
茶漬である。ふぐ、ではなく、ふく、としたところに、製造者たる株式会社古川商店の
創意と工夫が見受けられよう。あるいは、かの地の習慣に基づいてそのような命名をし
たのかもしれない。品名がふく茶漬となっているので、多分この想像は当たっているよ
うな気もするが、まあ、そんなことはどうでもよい。重要なのは、これはきよさんから
頂いたお茶漬であるということだ。この事実の前にはあらゆるものがひれふすことであ
ろう。さよう、このお茶漬は有難られて食されなければならぬという宿命を背負ってい
る。この点で、他の凡百のお茶漬とは一線を画しているのである。きよさんが選び、き
よさんから手渡された。ここが重要である。ところできよさんは予想を覆えすたおやか
な女性でございました。
 さて、「古川のふく茶漬」である。これは侮れない。裏面に記載されたその仕様を参
照すれば、このお茶漬の持つ秘めたる魔力は明らかとなる。原料名からして、意表をつ
いてくる。ふぐ、海苔、あられ、ごま、食塩、調味料(アミノ酸等)と、ここまでは肯
ける展開である。しかしその次には、思わず唸らされる記述が控えているのだ。ふぐの
魚種名・標準和名クロサバフグ。いかなる法令に基づくものかは定かではないが、魚種
名を記載せねばならないのであろう。クロサバフグはかくして歴史の表舞台にその名を
刻むこととなったのである。ただのフグではない、クロサバフグである。クロサバフグ
も本望であろう。クロサバフグとして生まれクロサバフグとして死んでいった一尾の魚
のジンセイの乾燥された断片が、私の眼前の小袋に詰まっているわけである。標準和名
という表記もよい。学術名などは使わない潔い姿勢が読む者に安心を与えずにはおかな
い。厚生省、山口県、生産者、はたまた地元漁協、いずれの知恵かはわからないが、な
かなか味なやり方である。こういうところに例えば Shimonosekia Genkainadaなどとラ
テン語の学術名を記載された日には、この国の食文化は崩壊しかねない。
 この仕様書はまだまだ私を驚かせてやまない。ふぐ処理師という技術者の存在も白日
のもとに曝されてしまうのだ。山田浩多というのが、今回私が命運を託すべきふぐ処理
者である。いかなる人間像をもった男なのか皆目見当もつかないが、第673号の登録
番号を持っている山田浩多氏に賭けてみよう。ここまで執拗に記述せねばならない義務
があるということは、やはりなにがしかの危険が潜んでいると考えてさしつかえないで
あろう。山田浩多氏は笑いとばすに違いないだろうが、素人にはふぐには毒はつきもの
という固定観念が抜きがたく染みついているものである。
 とどめは、ふぐ処理施設という記述である。山口県ふぐ条例に基くふぐ処理届出番号
225、で毒を抜いたから安心しなさい、と言っているのである。よくわかった。安心
して食べてやろうじゃないか。私は食事の準備にとりかかることにした。
 用意したのは、一膳の御飯とお茶、そしてワサビである。小袋裏面にあるお召し上が
り方を見ると、熱いお茶をかけろと書いてある。今回採用するのは安物の番茶である。
せっかくの頂き物に、そういった貧しい経済事情が露骨に反映したものを取り合わせる
のも気が引けるのだが、現実は直視せねばならず私の現実とは即ち貧困である。また、
少量のワサビが「古川のふく茶漬」を一層おいしくするという記述もあり、S&B製の
本生おろしわさびというものも採用した。
 調理後の感想はまず、どれがふぐなのであろうか、というものである。乾燥した状態
では肌色っぽいカタマリが散見されたように記憶しているのだが、見当たらない。元に
戻すと透明になるのかと考えながら箸の先でつつき回すと、ようやくそれらしき物体が
発見できた。やはり多少透明感がでたようだ。また、周囲に浮かぶあられやごまの色彩
に紛れやすいという特色を有していることもわかった。全体的に華やかさに欠ける情景
である。他の色といえば、海苔の黒だ。黒と肌色が茶碗を支配している。つまり人間に
近い食べ物であると言えるだろう。
 食する前にきよさんに感謝の意を表しなければならない。それがいわゆる人の道とい
うものだ。ここに至り、私は難問に直面した。どのようにして感謝の態度を明かにすれ
ばよいかわからないのだ。傍若無人を座右の銘として暮らしてきた報いであろう。人に
感謝を捧げるという行為とは無縁に生きてきたツケがこういうときに回ってくるのだ。
仕方がないので十秒間ほど西方に向かって土下座してはみたが、これはどう考えても謝
罪の姿勢であろう。まあ、きよさんには謝らなければならない事情もあるから、これは
これでよしとしよう。儀式は終わった。さあ、食おう。
 食い終わりました。有体にいって、どうも釈然としない。うまかったかと問われれば
うまかったと答えるだろうが、自らすすんで、これは大変おいしいものです皆さんもぜ
ひ食べてみてくださいと言ってそのへんを駈けずり回るという展開とはならない。やは
りポイントはふぐであろう。ふぐに対する期待の大小いかんで、「古川のふく茶漬」の
評価はおおきく分かれるものと推察される。私は貧乏人であり、当然のことながら「ふ
ぐ幻想」を有している。高いものはうまい、というあのいわれのない妄想だ。これが今
回は強く作用しすぎたように思われる。
 人に物を貰っておいてなんという言いぐさであろうかとも思うが、今回の作文におい
ては私は嘘のない文章も書けるという事実を立証することを主眼としているため、正直
に申し述べる次第である。
 思えば、ふぐは一度しか食したことはない。そのときもなんの感慨も抱かなかった。
ふぐ自体には味はない、と教える人もあった。本当かどうか定かではないが、そういう
情報も私の脳裏にはしまいこまれている。つまり私はふぐの味を知らないのであった。
ようやく今そのことに気づいた。従って本物のふぐとインスタント食品との相違といっ
た当然語られるべき話が出てこないのだ。私にはふぐについて語る資格がなかった。
 しかし、ひとつだけ断言できることがある。
 「古川のふく茶漬」は侮れない。
 きよさん、ごちそうさまでした。

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