91/08/17 「薜」
「パソコン買ったんだって」と言いながらカイフが私の部屋に入ってきた。 しつこいようだが、カイフトシキは善良な一市民であり私の友人である。 「ほう、これがそうか。おまえ、使えるの」 「使えるわけないだろ。触らせていただいておるのだ」 「ま、おまえじゃそんなもんだろ」 「嫌な奴だな。なんか用があって来たのか」 「別にない」 「そうか。じゃあ、ちょっと待っててくれ。俺はいま作業中なんだ。そのへんの雑誌で も読んでろ」 「あいよ」 私は作業を再開した。24時が近づいている。早くアップしなければ。 「この本、なんだ」 カイフは私の傍らにあったパソコン用の漢字辞典を手に取った。私は説明した。 「するってえと、漢字一文字づつに番号がついてるのか」 「そうだ」 「それは凄い」 「なにが」 「いや、なんだかわからないが、凄い」 カイフは熟読しはじめた。しばらくすると、勝手に人のペンと紙を取り出して熱心に メモをとりだした。私はほおっておいた。 私が無事アップし終えても、カイフはまだ熟読中だった。缶ビールを持ってきて放り 投げてやった。「ほらよ」 ごち。 「なんだよ、いてえじゃねえかよお」 「いらないなら飲むな」 「飲むに決まってんだろ」意地きたない奴だ。ひと口飲んで、頭をさすった。 「カイフ、おまえさっきから何をメモってるんだ」 「わはは。聞きたいか。そうか、聞きたいか。教えてやろう」 どうでもいいけどさ。 「おまえ、最高何音の読みを持つ漢字を知ってる。漢字一文字で」 「それはたとえば、掌という字ををたなごころ、と読んで五音と、そういうことか」 「そうだ」 「ふうむ」私は考えた。「いや、それしか知らん」 「わはは。六音というのがあるのだ。この本に載ってる限りではな」 「たとえば」 カイフは一枚の白紙をテーブルに置いた。 「この字、読めるか」カイフは怪しげな字を書いた。 <$> 「読めんぞ」 「えんどうまめ、と読むのだ」 「なんだって。おまえさあ、もう一回ゆっくりと丁寧に書いてみろよ」 「丁寧に、ったって」カイフは同じ字を書いた。 <豌> 「ぜんぜん違うじゃないかよ。おまえの悪筆はいつになったら治るんだ」 「愉快犯よりはマシだ」 「似たようなもんだ。ミミズが集団食中毒を起こしてのたうちまわっているようだ」 「嫌な形容しやがるな。とにかく、えんどうまめだ」 「さやえんどうの、えん、という字だな。ふうん。一文字でそこまで読ませるか」 「偉い字だ」カイフは感じ入った様子である。 「偉い、ねえ」 「偉いじゃないか。たとえば<詩>に対して<豌>は六倍の仕事量があるわけだ」 「そういうもんじゃないと思うが」 「そういうもんだ」カイフはぐびりとビールをあおった。 「ま、いいけどさ」私は先を促した。「他にもあるのか」 「こいつはどうだ」 <蜃> 「蜃気楼の蜃か。この字も六音で読めるのか」 「読めるか」 「読めるわきゃねえだろ」 「おおはまぐり」 「なんだって」 「だから、おおはまぐりと読むんだ」 「そ、それは」私は絶句した。 「凄いだろ」 「凄い。蜃気楼の美しいイメージがだいなしだな」 「そういうのはもうひとつある。これはどうだ」 <萓> 「かや、か」 「わすれなぐさ、とも読むんだ」 「わすれなぐさ、だと。ううむ。怒りすらこみあげてくるな」 「くさかんむりは、けっこうあるぞ」カイフは一挙に三文字書いた。 <蔚><莎><菻> 「見当もつかんな。なんにしろ植物の一種なんだろうが」 「そのようだ。順に、おとこよもぎ、かやつりぐさ、きつねあざみ、だ」 「初めて聞く名前ばっかりだ」 「そうだろうな。俺もわからん。さて、今度のはなかなか粋だぞ」 <艤> 「なんて読むんだ」 「ふなよそおい」 「ははあ。それはしゃれてるな」 「次はちょっと怖いぞ」 <轜> 「なんて読むんだ」私は訊いた。 「たまには考えてみろよ」カイフはビールを飲みほした。「もう一本もらうぞ」 「勝手に飲め」私は考えた。「車が必要、ってことは」 「いや、必要な車と解釈すべきだろうな」 「わからん」 「ひつぎぐるま」カイフは音をたてて次のビールを開けた。 「え。霊柩車か」 「怖いだろ」 「怖い。それは必要だもんなあ」 「さあて、こんなもんなんだが」 「ちょっと待った」突然思い出した。「七音の字があったぞ」 カイフは鼻で笑った。「どうせこんな字だろ」 <竰> 「そう。センチリットル。それから、センチメートルという字も」 「これは記号だ。俺は漢字として認めないぞ」 「まあ、確かにあて字だが」 「表意文字の王道から、はずれている」カイフはきっぱりと言った。 「そうだなあ」 「まあ安心しろ。とっておきの七音の漢字があるのだ」 「え。そんなのがあるのか」 「一文字だけあるのだ。<竰>ごときに表意文字の伝統を汚されてたまるか」力強く言 い放った。「見よ。この七音の美しく偉大なる文字を」 <薜> 「植物シリーズだな」 「そうだ。まさきのかずら、と読むのだ」 「どんな植物だろう」 「わからん」一気にビールを飲みほして、カイフは立ち上がった。 「どうした」 「俺はこれから薜を探しにいく」 「おまえ、この真夜中に何をとち狂ったこと言ってるんだ」 「とめるな」 「いや、別にとめはせんが」悪い病気がまた始まった。 「俺は一目でいいから、薜をこの目で見たいのだ」 「だからって、ねえ。だいたい、どんな植物だかも知らないんだろ」 「探せばわかる」 そういうものではないだろう。 「じゃあな」 「おい」 カイフは去った。まったく何を考えてるんだか。 雨が降りだした。カイフは戻ってこなかった。