91/08/08 「それが人生というものだ」
どう考えても納得できないのが、いわずとしれた三半器官だ。あやつはいったいなん なのであろう。あやつのおかげで我々は知らないうちにいわれなき損害を蒙っているに 違いない。 だいたい、あのなんの反省も感じられない奇怪な形態はどうにかならないものであろ うか。絶滅期のアンモナイトを連想させるねじくれた姿からは、美しさのかけらも見い 出すことはできない。よくぞここまで醜くうまれついたものだ。自分の形状に不満はな いのだろうか。恥しくないのだろうか。いや、もとより羞恥心という概念すら持ちあわ せていないのだろう。恥知らずとはあやつのためにある言葉だ。 いったい何を楽しみに生きているのか。何を考えているのか。そのあたりを周囲に悟 らせないあたりの不気味さが、形態同様ねじまがった性格を如実に説明している。おぞ ましいことこの上ない。 そもそも、その生態からして謎に包まれている。普段は耳の奥底に閉じこもってけし て姿をみせようとはしないが、我々が寝静まった頃を見計らってもぞもぞと這い出して くるのかもしれない。それがあやつのやり口だ。時には息抜きと称して煙草の一本もふ かしたりなどするのかもしれない。あやつはいかにもそういう陰湿なことをしそうなや つだ。 それにしても、そのようなたわけた代物が三半器官などと大層な名前を名乗っている のはいったいなんのつもりなのか。なにが三半器官であろうか。自分を何様だと思って いるのだろう。思い上がるにも程がある。 こういう身の程知らずの愚鈍な輩が我々の平衡感覚になんらかの寄与を果たしている という説があると聞く。よくもまあ、そのようなたわけたことを思いつくものである。 いったいどういう感性なのであろう。あやつに操られているのであろうか。人は誇りを 捨ててはならない。たとえ千鳥足になろうともだ。 だが、私の頭の中にもあやつはいぎたなく巣食っている。そう思うと、自分が情けな くなってくる。運命だと言わざるをえないのはあまりに不甲斐ないが、世の中には自分 の力ではどうにもならないこともある。すべての醜悪が結集したようなあの姿には、無 論こみあげる嫌悪を禁じえない。しかし我々は生きていかねばならない。忌まわしいあ の存在を抱えて生きていかねばならない。それが人生というものだ。