226 99.05.30 「東池袋三丁目のマンボウ」
マンボウの姿を目の当たりにするのは初めてではないが、やはりマンボウという魚はどこにいようが度し難い。今回のマンボウは東京都豊島区東池袋三丁目一番三号に住んでいる。サンシャイン国際水族館というのが、彼のとりあえずの住まいである。
泳ぐ、というより、浮遊している、といった印象が強い。その行動原理には、主体性や目的意識といったものは一切感じられない。見方によっては、しょせん人類の叡智など高が知れており私の崇高な大望が理解できるはずもなかろう、といった認識を抱いているようにも思える。とはいえ、その移動原理の主たる部分を支配するのは、慣性モーメントである。やはり、なんにも考えてはいないのであろう。
ぬぬぬぬーっと、水中を漂う。何かに突き当たるまで直進する。水族館という衆人環境におかれたマンボウの場合、何かとは透明なビニールシートに他ならない。水槽の硬質ガラスの壁に激突するとマンボウの生命が危機に瀕するので、水族館側としては弾力をもって彼を受け止める策を講じているのである。マンボウとは、そういう魚である。ぼよよよよんと、頭部をシートにぶちあてながら、なんらの対処がない。そのまま進もうとしているのかと思うと、そうでもない。何もしない。そのうえ、何をしたいのか傍目にはいっこうに理解できないのである。そのうちに体の向きが何かの拍子に左右どちらかに傾く。右に傾けばそのままシートに沿って左へ進む。左に傾けばそのままシートに沿って右へ進む。度し難い。およそ、何事にも逆らわない。
時を同じくしてその場に居合わせたマサキ君という名の五歳ほどの少年が、私がこのマンボウに対して抱いた印象を代弁してくれた。
「おかあちゃんおかあちゃん、このさかな、ばかだよ」
いかにも。いかにもマサキ君、その通りである。このマンボウは、そしてたぶんすべてのマンボウは、マサキ君と私の基準に照らし合わせたならば、ばかなのである。
もちろんマサキ君と私は、マンボウを不当に貶めているわけではない。ただ単に、ばかだなあ、と思っているだけである。
しかし、マサキ君の御母堂には、また別の意見があるのであった。
「マサキっ。そんなこと言っちゃマンボウさんに失礼でしょっ。謝りなさい」
「えーっ」
マサキ君、不満そうである。私も不満である。
「謝りなさい」
御母堂、頑なである。マンボウに謝っても仕方がないと思うのだが。たとえば我が子にママなどと呼ばせない教育方針から既に明らかであるが、どうもマサキ君の御母堂は森羅万象に対して少数派としての立場を堅守しているもののようであった。
「ごめんなさい」
不承不承といった態度を露骨に滲ませ、マサキ君は謝罪した。お。なんだマサキ、オレを裏切るのか。権力に屈するのか。
どうかね、マンボウ君。この親子に対して君になんらかの見解はあるかね。
あるわけがないのであった。頭だけの魚のくせに、なんにも考えていないのが東池袋三丁目のマンボウの真骨頂なのであった。ただただ、ぬぬぬぬーっと、水中を漂うばかりである。だいたい、自分がどのように紹介されているか、わかってはいないだろう。水槽の脇に説明板が掲げられているのだが、その説明文がまた味わい深いのであった。
三億個の産卵をするとか尾鰭がないとか、マンボウの種族的特徴が紹介されている。英語では、Head-fishなのだそうである。しかるにその日本語訳が、なにゆえに「頭だけの魚」となるのであろう。謎である。「だけ」などとは、少なくとも明示的にはその英単語は語っていないだろう。
更に、説明文の締めくくりがまた困惑を招く。「主食は海に漂うクラゲと言うのですからかなり不思議な魚としか言い様がないようです」というのである。
魚がクラゲを食うと、不思議なのか。私はとまどうばかりである。納豆食ってるオレはどうすればいいのだ。
言い様がない、のか。私は途方に暮れるばかりである。他にもいくらでも語りようがあるように思うが。
どうかね、マンボウ君。ここまで悪し様に言われて、君はどんな心地かね。
もちろん、マンボウからの返事はない。意外な方向からはあったが。
「ふうん。不思議な魚よねえ」
とは、私の傍らで同じ説明文を読んでいたマサキ君の御母堂の御発言である。こらこら、納得するなって。
一方その頃、マサキ君はゴマフアザラシの水槽にかぶりつきになっていた。
私は、あらためて水槽に視線を戻した。東池袋三丁目のマンボウは、マンボウにしかできないことをしていた。
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