223 99.05.09 「犬の呪縛」
目覚めれば、犬だった。
実にどうも、彼は犬となっていたのである。
かふか不幸か、毒虫ではなかった。犬だった。その朝、彼は、犬になっていたのであった。チワワなり秋田犬なりダックスフンドなりといった具体的な位置付けはなかった。単に、犬だった。目覚めたばかりの彼は、ただ単に、犬でしかなかった。
その朝、彼は単なる犬になっていたのである。
午前三時まで飲酒にうつつを抜かしていた。そのまま友人宅になだれこみ、惰眠をむさぼった。同行したのは、その家主ほか二名である。のちに秘密結社nWoと呼び習わされたその三名が更なる馬鹿話に花を咲かせているのをよそに、彼だけはただちに睡眠に陥った。まさに陥穽であった。人は安易に寝顔を曝してはならない。そうした教訓を彼の身に降りかかった災厄から学ぶことも、あながち的外れではないようである。
彼は、午前七時に叩き起こされた。プロレスとはなんの関わりもないこのnWoは、そそくさと彼を部屋から追い出した。とっくに電車は動いてるんだからとっとと帰れ、と言わんばかりのつれない態度であった。
まだ寝惚けている彼は、唯々諾々と追い出された。電車に乗って、家に帰った。なんともはや、電車に乗ったというのである。切符を買い、電車に乗る。それは人として、ごく普通の行動である。だが、犬が切符を買い電車に乗るというのは、これはいささか周囲に疑念を呼び起こすのではないか。
もちろん彼の潜在的主観としては、自分は人である。犬ではない。ホモ・サピエンスでありモンゴロイドであり大和民族であり関西人であり会社員であり、駄洒落が好きでありミステリが好きでありタコ焼きが好きである。人である。人は、自分が人であることに疑いを抱くことなど、あまりないものである。ましてや、自分が犬ではないかとの疑念に苛まれることはない。
が、それでもやっぱり、その朝、彼は犬だったのである。
彼を犬たらしめているのは、あるひとつの文字であった。まったくもって、彼の額にマジックで書かれた「犬」の一文字が、彼を犬と化さしめているのであった。むろん、彼は知らない。自らの額のまんなかに、どちらかといえば悪筆に類する「犬」という文字がくっきりと記されていることなど、彼には知る由もないのであった。
nWoの仕業である。昏睡状態の彼の額に季節外れの書き初めをなしたのは、彼の友人三名、その名もnWoに他ならなかった。
墨痕鮮やかに、額に「犬」。人に見えなくもないが、額で犬宣言をしているのだから、犬なのだろう。たとえばその朝、電車の中でたまたま彼の真向かいに座った人は、そうした感慨を抱きながら目を背けたと伝えられる。
「なんや、犬やん。かかわりあいにならんとこ」
この期に及んでも、彼はまだ、半ば寝惚けていた。自らの存在に対する周囲の反応がいつになくよそよそしいことにまったく気づかなかった。犬の呪縛が、彼の注意力を低下させていたのであろう。
犬が電車に乗っている。しかもその犬は、犬としての自覚に欠けている。
その朝、彼はそういう存在であった。
なんともはや、nWoは酷い集団であって、「彼は帰宅したのではない。彼が外を歩いていたとしたら、それは、お散歩だ」などと、全く反省の色がないのであった。
「鏡を目にすることがないように、起こすや否やさっさと追い出した」
とは、nWo首魁の語るところである。皆目、悪びれるところがないのであった。
相手によっては、顧問弁護士に相談して訴訟を検討といった展開となってもおかしくはないが、nWoの高のくくり方はすがすがしいほどであった。
「だって、犬だし」
犬を人とも思っていない。
nWoはその日の夕方、彼に電話をした。彼も粗忽で、その時まで自らの額に生じている異変に気づいていなかった。
鏡を見てみろと、nWo側は要求した。
沈黙が訪れた。長い長い静寂が流れた。
その間、彼の脳裡に去来した様々な思いは、いったいどのようなものであったのだろうか。
やがて彼はつぶやいた。「……犬やったんか」
その時のnWoの喜びようは、尋常ではなかった。実にどうも、天罰を待ち望んでいるとしか思えない。
「せめて‘太’と書いてくれれば、ボケようもあったのに」
その夜、彼はしみじみとそう述懐したと伝えられるが、nWoの言うことだからどこまでが真実なのかは薮の中である。
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