210 98.12.13 「幼き活字中毒者の肖像」
キリヤマ隊長が、同じ市内に住んでいたとは知らなかった。
キリヤマ隊長といえば、霧山信彦である。そういうことになっている。新聞記事の訃報を読みながら唐突に甦ったのだが、極私的記憶においてはキリヤマ隊長といえば、霧山信彦に他ならないのであった。四年一組で図書係の地位をほしいままにしていた、あの霧山信彦である。教室の片隅に備えつけられた本棚、それは学級文庫というものであったが、唇の端を両の人さし指でひっぱって発音することで知られるその蔵書の管理を一手に引き受けていた、霧山信彦そのひとである。図書係という名の権力の上にあぐらをかいて、善良なる幼き活字中毒者を虐げていた、あの霧山信彦に紛れもない。
当然のことながら、こやつのあだ名は隊長であった。隊長であったが、いささか嫌な奴であった。
学級文庫などというものに興味を示す手合いは、少数ではあるが一定の比率で必ず存在するのであって、例えば私がそうであった。こういった性癖を持つ輩は、四月の第二週目には既に国語の教科書を読破し終えていたりするので注意が必要だ。あ、いや、注意しないでね。見逃してあげてね。ただの活字中毒だから。重病だけど、なおらないけど、本人はそれでいいと思ってるから。
教科書を堪能し終えたこの一派の興味は、次に必然的に学級文庫へ向かう。一派の構成は、概ね定まっている。引っ込み思案を絵に描いたような女子、クラスの副委員長なぜか必ず女子、どこかしら飄然としたたたずまいで独立している男子、そして私、といった四名である。書籍の巻末に貼られた封筒状のポケットに差し込まれた図書カードというものが、その顔触れを歴然と物語ってしまうのであった。
二学期が終わる頃には、学級文庫のすべての蔵書の図書カードにその四名の氏名が記されてしまうのである。三学期はなにをやっていたのかというと、思い出せないが、きっと寒さに凍えていたのだろう。
学年が変わり、クラス変えがあっても、それぞれその存在に相当する面々が、図書カードを物悲しく賑わせるのであった。つまるところ、一定の比率である。
四年一組における学級文庫の問題は、霧山信彦隊長の存在そのものにあった。
隊長は、どういう使命感に基づくものかわからないが、厳格なのである。自分はその蔵書をいっさい読まないくせに、杓子定規な文庫運営をなすのであった。
借りた本は一週間以内に返さなければならない。一度借りた本は二ヶ月以上たってからでないと借りてはならない。この二点の「決まり」に、隊長はきわめて忠実なのであった。
「キミが×月×日に借りた×××という本なんだけど、きのうがへんきゃく日なんだよ」
などと、隊長は言うのである。「キミが×月×日に借りた」である。自らの責務は責務だと言わんばかりに、「へんきゃく日なんだよ」である。
まだ読み終わっていないのである。正確を期するならば、借りたまま未だひもといていないのである。読み始めれば一気呵成に読破することであろうが、晴天が続けばコドモのことだから他にいっぱいやることがあるのである。往時の私にとって、本は雨の日のともだちだった。
「まだ読んでないんだよ。ちょっと待ってよ」
「だめだめ。決まりなんだから。返さないと、先生に言いつけるぞ」
決まりが好きな隊長は、お決まりの科白で脅すのであった。非力な私は、権力の行使に屈するしかないのであった。いったん返却すると、その後二ヶ月は借りることができない。ひとりの独占を防ぐためのルールであるが、実際には四人の利用客しかいないのだから、厳格に遵守される必要はないように思える。そのあたりを拙い表現で言い募ってお目溢しを願っても、隊長は「決まりなんだから、だめ」の一点張りなのであった。法規の弾力的な運用といった概念が、隊長の脳裡に去来することはなかった。
ここで、他人の名義で借りるといった猿知恵を思いつかないのが、やはりコドモの限界なのであろう。また、同好の士が一致団結して待遇の改善を求めるといった動きが発生することもなかった。内気少女と飄然少年も、時折隊長の糾弾を受けていたようであり、この点で私と連帯した運動を行う動機はあったように思えるが、それぞれ固有の性格がその余地を産み出すことを妨げた。副委員長はといえば、けして「決まり」から逸脱することはなかったし、そもそもこのひとは「読書をするという行為をしている」といった気配があり、本を読むことを通してなにか他のことを求めているようであった。他の三人の単なる本好きとは決定的に立場を異にしていた。結果的に、隊長の権力だけが助長されていくのであった。
芋づる式に記憶は甦ってくるのだが、『地底旅行』の一件は、いま思い返してみても、私に非があったとは思えない。しかし、廊下に立たされたのは私である。ルールを守れない奴は懲罰を受けるのである。が、私はルールを無視しても気にならなかったし、懲罰を受けても反省しなかった。
あるとき、滅多に言葉を発しない飄然少年がいきなりやってきて、「只今よりこの本を返却するが、次に是非借りるとよい」といったような主旨の発言をもごもごとなした。飄然少年は、言葉を使って他人になにかを伝えるのが、苦痛なようであった。その手にはヴェルヌの『地底旅行』が携えられていた。図書カードの記録を通じて、副委員長を除く三人にはある種の連帯感が生じていたのである。
苦手な行為をしてまであえてお勧めしてくれた飄然少年の好意にすぐさま感謝する心意気は、当時の私にはまだあった。さっそく二人で隊長のもとへ赴き、飄然少年の返却手続きと私の借用手続きを執り行った。
私は『地底旅行』に溺れた。
何度も読み返した。返却期限というものは念頭にあったが、まったく気にならなかった。返さなかった。いつまでも自分の手許にこの本を置いていたかった。隊長は幾度となく私を督促し、いつになく頑迷な私をもてあまし、ついに御注進に及んだ。そうして、「決まり」を守れない私は、ホームルームとかいったものの折に、先生に糾弾され、廊下に立たされたのであった。
先生の断罪の言葉を聞きながら隊長を見やると、なんだか喜んでるようであった。飄然少年は、やっぱり飄然としていた。
記憶の細部が甦るに連れて、なんだかだんだん腹が立ってきた。霧山信彦、今度会ったらただじゃおかねえからな。って、今になって怒ってどうする。
この一件には後日憚がある。私を廊下に立たせた教師は、自腹で『地底旅行』を購入し、ひそかに私を呼び出して他言無用を条件に私にくれた。決まりは決まりで守らなければならないが気持はよくわかる、ということであった。幾度かの転居を経て紛失してしまったが、私はどういうものか人の運が異様によくて、時々そういう過度の好意に救われている。
強制返却を余儀なくされた『地底旅行』は、元通り学級文庫の蔵書として供された。
「よくわかんないけど、もういっかい読みたい」
とは、内気少女が擦れ違いざまに赤面して述べた言辞である。読んだらしい。言ったとたんに駈け足で逃げていった。
「な。お、おもしろかっただろ」
とは、数週間の後にふらりと歩み寄ってきた飄然少年が表明したぶっきらぼうな同意である。皆目困惑しているようにも受け取れないではなかった。
「ちゃんと返せよ」
とは、その後私が本を借りようとするたびに隊長が発した警告である。なにしろ、その後も私は時折、期限を遵守できなかったのである。
副委員長は、そんな簡単な決まりも守れないルーズな輩はお気に召さないらしく、なんのおことばもなかった。
ひょんなことから甦った記憶であったが、私のだらしなさを差し引いても、やはり霧山信彦の学級文庫運営方針にはいささか問題があったように思えてならない。今度会ったらただじゃおかないまでも、やっぱり文句のひとつも言ってやるべきか。しかし、霧山信彦隊長は今どこで何をしているのだろう。
キリヤマ隊長については、先頃まで同じ市内に住んでいたことをつい最近知ったのだが。
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