204 98.11.03 「角」
眠るかなあ、こんなとこで。
その車の傍らに佇み、私は嘆息した。
眠っちゃったのだから、しょうがない。私は運転席の窓をノックして、運転者の覚醒を促した。彼は、信号待ちのわずかな時の狭間で、あろうことか寝入ってしまったのである。
信号が青になっても、前のセダンが発進しない。二車線道路であり、対向車線は塞がっている。追い越そうにも、追い越せない。何度かクラクションを鳴らすが、反応がない。そのうちに、後続の車からも苛立ちを滲ませたクラクションが鳴り始めた。となれば、直後の車を運転する者が様子を伺いに出向くのがモノゴトの道理であろう。しょうがねえなあ、まったくもう。といった顛末を経て、私は車道上で、停止した車の窓をノックするはめに陥ったのである。
が、彼は起きない。角力取りかと思わせる巨体をシートに委ね、角刈りの頭をヘッドレストにもたせかけて、熟睡の態である。
「もしもし」ううむ、もしもしは変かな。「起きてくださいよ」もしかして、死んじゃってるのかな。「こんなとこで、眠っちゃ困りますよ」突然の心臓発作でもはや事切れているんだったら、失礼な言い草かな。「もしもし、もしも~し」やっぱり、もしもしは変かな。
誰かに似てるなあ、と思いながら、私はノックを続けた。
角である。ヤクルト・スワローズにいた角に似ているのであった。該当する角は二人いる。丸顔の角と角顔の角である。気持ちよさそうに寝入っているこの角は、セカンドを死守した眉毛の濃い丸顔の角ではない。投手のときにはえげつなく打者の内角を攻め、投手コーチのときにはえげつなく打者の内角を攻めさせた角に酷似しているのであった。角顔の角である。芸能プロダクションに籍を置いている元「巨人軍」のあの角に、きわめて似ている顔立ちなのであった。違いはといえば、その巨体である。この角さんの首の下には、角界が誇る雄姿とでも称すべきソップ型の肉体がぶらさがっているのであった。
いきなり、角さんの目がぱっと開いた。自分が置かれている状況を呑み込めないらしい。口角のよだれを拭いながら角張った顔を左右に振り、周囲を見回している。瞬時ではあるが、よほど深い眠りに落ちていたもののようだ。私は、車影がいっさいない前方の車道を指し示し、角さんの状況把握を促した。ようやくわかったらしい。ぺこぺことお辞儀をしたかと思うと、やにわに急発進した。
ルーフに手を掛けていた私は危うく転倒しそうになった。おいおい。なにもそんなに慌てなくても。まあ、仕方がない。誰だって睡魔に襲われることがある。私は車に戻り、角さんのセダンに続いた。
依然として睡魔に絡めとられているらしく、角さんは蛇行している。斜めに走るな、角さん。香車になるんだ。角になってる場合じゃないんだ。
悪いことに、追い越す機会がない。更に悪いことに、私が左折すべき角を角さんも左折するのであった。半ば眠っているくせに、滞りなく角を曲がる角さんなのであった。道が変わっても、やはり追い越せる状況は訪れない。カーブの多い道路で、対向車線に出て追い越すには死角が多すぎる。車間距離を広くとるくらいしか私には対応のしようがなかった。
その恰幅から推察するに、その属する社会においては一角の人物なのであろう。いかにしても角には置けない重要な人材なのであろう。その社会で頭角を現すために、普段から睡眠時間を充足できない生活を送っているのであろう。同輩と角突き合わせ角逐する過酷な日常なのかもしれない。だからといって、運転中に眠ってしまわれては困るのである。現に、私は困っているのである。
角さんにしても、万が一のことがあっては困るだろう。今現在の角さんは、交通事故ときわめて近いところにいる。ほんの少しの操作ミスが、あっけない死を招きかねない。角番である。あとがない。その角膜をぜひともこの機会に役立てたいという悲願があるのかもしれないが、悲しむひともいるだろう。路肩に車を停めてはどうか。そうして、ものの数分も眠ってみてはどうか。しばしの休息に疲労した我が身を委ねてはどうか。
差し出がましいとは思ったが、赤信号で停止した折に、私は車を降り、再び角さんの車の窓をノックした。
角さんは目をぱちくりさせながら、窓を開けた。
「失礼ですが」私は、角さんの運転がいかに危険な状況を呈しているかをいささか大袈裟に述べた。
角が立たないように慎重に言葉を選んだつもりだったが、角さんは憤慨してしまった。目を三角にして、角を出した。
「余計なお世話だっ」
ごもっともである。余計なお世話そのものである。他ならない。いかにもである。これ以上の余計なお世話はない。それはこちらも重々承知している。
が、角を立てるのは意外に効果的なのではないかと気づき、私は更に余計なお世話を申し述べてみた。御多忙中であろうが、暫時御休憩をむさぼってみては如何か。
いや、怒った怒った。角さんは角突き立てて、怒るの怒らないの、怒れば怒るとき怒った。
「すごく余計なお世話なんだよっ」
寝覚めが悪いのだろうか。角さんの心底より湧き上がった極限の魂の発露なのであった。いくら眠くたって、角さんは角さんなのであった。更に、口を極めて呪詛をまくしたてる角さんなのであった。役小角の末裔なのであろうか。
ごもっともである。すごく余計なお世話そのものである。すごいに他ならない。いかにもすごいのである。これ以上のすごく余計なお世話はない。それはこちらも、すごく重々承知している。
こちらとしてみれば、角さんが自分を取り戻してごくごく当たり前の運転をして頂ければ、それでよい。睡魔ときっぱりと訣別して安全運転を励行する角さんこそが求められているのである。己を取り戻したいつもの角さんこそが期待されているのである。ここまで怒れば、目も覚めるだろう。
「こりゃまた、申し訳ありませんです」
謝罪と理解されうる言葉を述べつつ、私はすごすごと退き下がった。
信号が青に変わり、我々はまた道路交通法に基づく業務に戻った。
それでも角さんは、やっぱり眠いようであった。不意にふらふらと軌道を乱したかと思うと、急に減速し、路肩に車を寄せた。ブロック塀にごりごりと車体を擦り付けながら、ようやく停車した。
危うく躱して、追い抜いた。角さんに怪我はないようである。バックミラーに映る角さんは元気そうであった。車を出て自損事故の実態を眺めやり、大仰に頭を抱えてうずくまっている。死ななかったのだから、よいではないか。
困ったのは、その後、睡魔が私に乗り移ったことであった。
いやあ、間一髪ではあった。
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