198 98.08.20 「茗荷畑でつかまえて」
いつかは茗荷谷に住みたい。
下北沢に住みたいと願うひともいれば、代官山で余命を全うしたいと望むひともいるだろう。亀有で暮らしたいと焦がれるひともいれば、大井町に骨を埋めたいと祈るひともいるだろう。
私の場合は、茗荷谷だ。憧れの地、茗荷谷。私は、終の栖を茗荷谷と定めたい。ついのすみか、みょうがだに、である。いつかは茗荷谷に庵を結び、心穏やかな時を見つめたい。そうして、人知れず朽ち果ててしまえるのならば、もはや望むものはなにもない。茗荷に尽きるとは正にこのことだ、って、字が違うぞ。
東京都文京区に茗荷谷はある。地名としての茗荷谷は、いまでは地下鉄丸の内線の駅名として残るのみである。たとえ茗荷谷に住んだとしても、住民票に記されるのは、大塚、小日向、小石川といった町名である。従って、居を定めるにあたっては、慎重な調査が必要となる。法務局に赴いて閉鎖登記簿謄本や旧公図を丹念に吟味し、この土地は以前は確かに茗荷谷と呼ばれていたのだとの証左を得ることが肝要である。
私はまだ、茗荷谷を訪なうたことがない。夢破れるのがこわくて、足がすくむ。
茗荷谷。そこは柔らかな陽光が降り注ぐ谷あいであろう。夏ともなれば、大地を覆う一面の茗荷が微風にそよぎ、葉擦れの音が懐かしいメロディを奏でるに違いない。その風は、大地にちょこんと顔を覗かせた茗荷の芽が放つ奥床しげな芳香を、私の鼻腔に運んでくるだろう。私は立ち止まり、深呼吸する。胸一杯に吸い込んだ大気に含まれた茗荷の香りは、私を陶然とさせることだろう。私はきっと、涙を流す。私の長い旅は、いまようやく終わった。私は、還るべき場所へ、ついに還ってきたのだ。茗荷谷。谷を覆う一面の茗荷。
一面の茗荷。
一面の茗荷。
私は大地にがっくりと膝をつく。安堵のあまり、崩折れる。積み重なってきた疲労から、凝り固まってきた困憊から、不意に解き放たれる。
解放された私は、幻影を見るだろう。
茗荷の草原の中から、乙女が現れる。か細い両腕で大きな竹笊を抱えている。竹笊の中には、どっさりと茗荷。満載の茗荷。
「採れたての茗荷よ」乙女は微笑んで、その笊を私に差し出す。「思う存分、食べてね」
って、茗荷が好きと一言で語れば済むのに、私はなぜこんなにも無駄に言葉を費やすのであろうか。魔力である。茗荷の魔力である。茗荷に恋心を絡めとられてしまった者は、もはやこの魔力から逃れるすべを持たない。
茗荷である。しょうが科の多年生植物である。熱帯アジア原産なのだそうである。熱帯アジアさん、ありがとう。熱帯アジアさんのお蔭で、私の人生は実りあるものになっています。
拙宅では、正月には明賀、お盆には妙雅と呼ばれて珍重されている。平時には世間の慣習に則って茗荷と呼ばれて珍重されている。二日とおかずに食して珍重もないものだが、日々、思いを新たにしながら茗荷に対するのが、茗荷と抜き指しならぬ関係に陥ってしまった無頼の徒としてのせめてもの努めである。
ましてや今は旬である。珍重の夏である。安価である。冬に比べれば、冥加金は高が知れている。大量に食することになる。
茄子とタッグを組ませて浅漬け、というのが目下のお気に入りとなっている。ともに細く刻む。塩で揉みこんで三十分ほど冷蔵庫に寝かせて馴染ませる。たったそれだけだが、これがまた、んまい。んまいのである。私だけがそう感じるのかもしれないが、それはそれでいい。私がいかに幸せであるか他人にわかってたまるか、などと無意味に意気込んだりしながら、肩で風を切って茗荷と茄子の浅漬けをむさぼり食うのが私の夏のあり方なのであった。
あ、よく冷えたビールなんかも混ぜといてね、そのあり方の中に。って、勝手に混ぜろよ、てめえは。ま、てめえは私だが。
茗荷にまとわりついて離れない風聞のひとつに、物忘れが激しくなるとの説がある。こうした俗説にはなんらかの訓戒が宿っていることになっている。身体によくないからあまり食うなよ、といった先達の教えがこめられている。いったい、どのような弊害が生じるのであろうか。物忘れ云々は脅し文句に過ぎない。大量の摂取は芳しくないはずなのだ。それはなぜか。なにゆえか。
私は最近、その解答を見出すに至った。
再び、妄想の茗荷谷に還ろう。私の未来の安寧が眠っている茗荷谷だ。竹笊を抱えた乙女が私を待っている茗荷谷だ。
「君は誰なんだ」
私は乙女に問いかける。すると、乙女は謎めいた微笑を浮かべるのだ。
「私は、茗荷の精。茗荷好きのひとにしか見えないの」
乙女は、竹笊から茗荷をひとつつまみあげ、丸かじりする。
「あなたも、おひとついかが」
乙女は、私の掌に茗荷をひとつ、分け与える。私はむさぼりかじる。がりっと青春、生茗荷。
「おいしいでしょ。うふふ」
「んまいんまい。うふふふ」
さよう。茗荷を食べると物忘れが酷くなるのではない。幻覚を見るようになるのだ。
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