196 98.08.10 「物悲しきはおとな」
この場合、「雲海」といえば、蕎麦焼酎の銘柄を指す。宮崎県五ケ瀬町に本社を置く雲海酒造株式会社が製造販売している焼酎であり、限定すると1.8リットル入りの紙パックということになる。昨今の私が愛飲していることで、我が家では有名である。ちなみに我が家を構成する人員は私のみである。近来の経済情勢の逼迫は我が家の財政にも少なからぬ影響を及ぼしており、嗜好品といった費目においてはコストパフォーマンスの高い焼酎の消費がいきおい高まっていくという図式がある。端的に述べると、ビンボ~なんて大嫌いだ、といったところか。
なお、「だったら呑まなければよいではないか」といった、実行不能な要求は厳に慎まれたい。あなたに慈愛の心があるのなら、そういった心ない発言は控えられたい。
ひとつの生命体として生き長らえるためには飲酒はまったくもって不要な行為であるが、私が私として生きていくためには飲酒は不可欠な習慣なのである。ことは、人格の尊厳に関わっているのである。むろん、私の人格にはなんらの尊厳もないといった見解があるのは知っている。しかし、そんな正しい見解を受け容れるほど私は寛大ではないのである。むしろ狭量といえる。正しいことを拒む人々は、厳然として存在する。私もそのひとりである。呑むったら呑むんだいっぐびぐび、と、だだをこねているのが実情である。実情はたいてい物悲しいのが、この世の常である。物悲しい私なのである。
一方、「おとなの紅鮭茶づけ」にも私達は重大な関心を寄せないわけにはいかないだろう。東京都港区に本社を置く株式会社永谷園が製造販売している。形状としては、一食分が一袋にパックされている。紅鮭、鮭鱒、食塩、海苔、あられ等の乾燥物の細片が、名刺よりは大きく葉書よりは小さな袋に封入されている。これを御飯に振りかけ熱湯を注ぐと、お茶漬けができる仕組みになっている。
「紅鮭」と「鮭鱒」の併記にいささかの不安を覚えるが、冷や飯が残った折などに重宝することは我が家においては疑いのない事実である。我が家では、熱湯ではなく番茶が用いられ、練りワサビなども添えられるのであるが。繰り返すが我が家は私ひとりによって構成されているのであり、つまり私が重宝しているのである。
即席製品に頼ったお茶漬けはやるせない。せめてお茶漬けくらいは、そういった手合いに頼らずに対処したいものである。例えば、自家製の烏賊の塩辛と切り刻んだ大葉と海苔を御飯に載せ熱い焙じ茶を注ぐ、といったささやかな贅沢を自らに許したい。しかし理想は理想であり、実情は実情である。「おとなの紅鮭茶づけ」があるのなら、それを消費するしかないではないか。実情はやっぱり物悲しいのである。
「雲海」と「おとなの紅鮭茶づけ」。
いま、その邂逅が我が家では疑惑を呼んでいる。
「雲海」を購入すると、もれなく「おとなの紅鮭茶づけ」二袋がついてくるのである。「雲海 ちょっとおとなのプレゼント」というキャンペーンが、その背景となっている。私は「雲海」を購入したつもりなのだが、付随して「おとなの紅鮭茶づけ」二袋を入手してしまうのである。いつ果てるともしれないキャンペーンであって、雲海酒造株式会社と株式会社永谷園との間で締結された契約書を一度でいいから読んでみたいとの欲望を抑えきれない。
いったい、いつ終わるのか。好評ならば自動的に継続していくと、たとえば第五条に明記されているのか。「前条に規定する契約満了の日の三十日間前までに、甲乙どちらかからの相手方に対する文書による申し出がない限り、本契約は更に一年間継続するものとし、契約日以降十年間は同様とする」などと、その契約書には謳われているのではないか。そして、このキャンペーンは双方の企業において、「成功」と見做されているのではないか。まだまだ続いていくのではないか。
あのさあ、雲海酒造さん永谷園さん、成功してないよこの企画。少なくとも我が家では。
「雲海」と「おとなの紅鮭茶づけ」、それぞれの消費量は、我が家においては当然のことながら「雲海」のピッチが圧倒的に速い。焼酎を購入しているのだから当然である。お茶漬けを購入したわけではない。「おとなの紅鮭茶づけ」ばかりが、ただただ溜まっていく。
この大量の「おとなの紅鮭茶づけ」を、いったい私はどう処理すればいいのか。
いま数えたら二十二袋もあった。食え、というのか。売れ、というのか。捨てるほどの勇気はない。つまるところ、消費せねばならないのだろう。
とはいっても、袋入りの即席茶漬けの出番は限られている。私は私で、あつあつの御飯には納豆なり筋子なりで対応したい。即席茶漬けを用いるに相応しい余った冷や飯といった局面は、そんなに訪れるものではない。
「おとなの紅鮭茶づけ」が蓄積されていく。溜まっていく。コレクションとなっていく。
先に掲げた他に、たら粉末、魚介エキス、抹茶、本鰹粉、昆布粉、調味料、酸化防止剤、着色料などが混入されている。さほど不審な輩はいない。「おとなの紅鮭茶づけ」、そんなに悪い奴ではないようである。確信はないが、根は悪くはないと思われる。ちょいと世を拗ねている気配はあるが、お茶漬けとしてはそんなに酷い奴とは思われない。
京都の庶民文化といった文脈において伝えられる「ぶぶ漬けでも」云々の逸話がどれほど現実に即したものかどうかは、私にはわからない。が、私は、我が家を訪れるひとに、是非ともお勧めしたい。「おとなの紅鮭茶づけ、でも」と。いや、けして「帰れ」と仄めかしているわけではないのだ客人よ。
余っているのだ。大量に。人助けだと思って、ひとつ。お互い、おとなじゃないですか。
とはいっても、さすがに自動車保険の更新にやって来た保険外交員にふるまうわけにもいかず、私はいまホームパーティを開催しようかと思案している。「おとなの紅鮭茶づけの集い」、ううむ、我ながら物悲しい集いではあるなあ。
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