194 98.08.03 「ある朝突然に」

 そういう場面に出くわすとは、考えたことさえ無かった。
 なにも二十六個もまとめて渡さなくてもいいだろう。朝の駅前で配られるポケットティシューである。なんの因果か、突然のポケットティシュー二十六個。朝っぱらから、某消費者金融会社のポケットティシュー二十六個。
「はい、これ」
 おねえさんは、そんなことを言いながら、紙袋ごと手渡すのであった。反射的に、つい受け取ってしまった。
 どうなっているのだ。
 「###で~す。よろしくお願いしま~す」といったところが、常套句ではないのか。一個あるいは二個を配るのが、常道ではないのか。おねえさん、あなたはいささか常軌を逸してはいまいか。
 ポケットティシュー配布作業は、業者に発注する場合と、自社の社員に時間外出勤を強いる場合があるようで、前者においては大量配布はありえない。後者はざっくばらんであり、時間内にノルマを達成できないとなれば、わりと平気で大量配布に及ぶ。これまで、いちどきに五個ほど貰ったことがある。
 それがいきなりの二十六個である。いったいどうしろというのだ。
 その制服から明らかにその消費者金融会社の社員と見受けられるおねえさんは、そそくさと去っていった。呆気にとられたままの私が取り残された。
 なんだろうか。その筋のひとにとっては、私はポケットティシューにも不自由しているように見えるのだろうか。おねえさんの親切心の発露が、この紙袋なのだろうか。もしそうなら、小さな親切、大きなお世話、である。憤然とせざるをえない。
 違うのか。おねえさんには予知能力があり、このあと大量出血の時が訪れる、と私の未来を透視したのだろうか。時ならぬ鼻血に備えよ、との暗示なのだろうか。そうだとしても、これほど多くのティシューはいらないだろう。このティシューをすべて消費するほど出血したら貧血を起こすではないか。小さな貧血、大きなお世話、である。茫然とせざるをえない。
 そうではないのか。消費者金融会社の広告媒体であるところのポケットティシューである。やはり、その道の達人が見れば、カネに困っているのがわかってしまうのだろうか。潜在的顧客を発見したら大量のティシューを配れ、といった指示が発令されており、おねえさんは律儀に任務を果たしただけなのだろうか。小さな金欠、大きなお世話、である。悄然とせざるをえない。
 いや、いつかお世話になるかもしれないが。
 それにしても、この二十六個のポケットティシューの有効な使い道はないものか。やはり、出勤前に自社の前で「###で~す。よろしくお願いしま~す」とやって笑いを取りにいくのが賢明か。
 あれ。おかしいぞ、オレの賢明って。
 そこまで考えたとき、私はもうひとつの可能性に思い当たった。
 もしかして、私はおねえさんのあとを引き継いで、ティシューを配布せねばならないのではないか。おねえさんは、交代要員を待ちあぐねていたのではないか。私は、交代要員と見做されたのではないか。「はい、これ」というくだけた口調に内包された意味は、そういうことだったのではないか。
 配らねばならぬのか。私は、朝の雑踏の中で途方に暮れて立ちつくした。
 配るのか。私が。ここで。このポケットティシューを。
 あまり考えたくはない話である。

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