192 98.07.22 「傘カバーに学ぶ」

 そのスーパーでは店内用傘カバーと称していた。雨天の折に、デパートやスーパーなどの入口に用意される細長い袋である。不完全燃焼のアカツキにはダイオキシンを撒き散らしそうな半透明の袋である。
 その機能は、その内部に閉じられた雨傘を挿入されることによって、萌芽する。
 その機能は、その雨傘に付着した雨水を袋内に封じることによって、開花する。
 その機能は、その下方に雨水を導いて下端に貯留することによって、結実する。
 店内用傘カバー。その形状、構造、用途などのことごとくが、まったくもってわかりやすい特質を見せる無骨な職人である。雨の日ひとすじに生きて幾星霜、けして陽の目を見ることがない生涯に、誰もが賞賛を惜しまないことであろう。心ある者ならば、その健気な姿に胸をうたれずにはいられないであろう。
 私はうたれないが。
 そんなに暇ではないのである。たかだか、傘カバーである。ないがしろにしちゃうのである。蔑ろである。軽蔑して蔑視しちゃうのである。傘カバーの先端に穴が空いても、私はいっこうに気にしない。
 なにしろ傘カバーの材質は脆弱である。先端の尖った傘をしまいこめば、袋の先に穴が空く。あっけなく、空く。あるいは、破ける。もしくは、綻びる。または、裂ける。まあ、または裂けるのが似合うものだが。
 蟻の一穴。そして、誰もが重力の作用を受けている。傘カバーの中の雨水も、堤が決壊すれば外へ流出する。多くの人々は、傘の先端を下方に向けて傘を持つ。さあ、満を持して、論理的必然性さまの御登場だ。
 いかがでしょうか、論理的必然性さま。
「うむ。儂が論理的必然性じゃ。本件の意味するところは、せっかく溜まった雨水が傘カバーの外へ流れ出すことであるよなあ、といったところじゃ。水は低きに流れる。なすすべもない。もののあはれ、じゃな。違うかもしれんが、ま、気にするな」
 我が意を得たり。いかにも。いかにもである。穴が空いちゃったんだから、しょうがねえよな。との立場に、私も自らの地歩を求めたい。空けようとしたんじゃないもん、空いちゃったんだもん、しょうがないだもん。と、ここぞとばかりにふてくされてみたい。口をとんがらかしたりもしてみたい。
 しかし、誰と話してんだオレ。
 ひとたびふてくされたならば、その後の対応はひとつしかない。傘カバーに包まれた傘の先を床につけて、ひきずりながら歩くのである。もはやその機能の根幹を喪失した傘カバーをまとった傘の先端から、雨水が垂れていく。私のあとに道はできる。カタツムリが残す軌跡のように、私は傘を引きずりながら、雨水の蛇行をスーパーの床に残す。発つ鳥はあとを濁さないというが、飛べない私は頓着せずに床を汚すのである。翼を持たないのだから、仕方がない。
 もちろん、いつものように、これまでのように、やっぱり私は間違っていた。詭弁を弄して、自らの行為を自らの規範に基づいて正当化したに過ぎない。
 自らが店内に持ち込んだ雨水を、床にぶちまける。この世の良識に鑑みて、いったいそれは許される所業だろうか。
「許されんじゃろ」
 ああ、やっぱりそうでしたか、論理的必然性さま。私がいけなかった。悪かった。馬鹿だった。許されなかった。
 たとえば、私のすぐ前を歩く彼女は、自堕落に傘を引きずる私を許さなかった。
 彼女は、破れた傘カバーを許さなかった。間接的に、私を許さなかった。雨の日に同じスーパーを訪れ、同じように傘カバーの先端が破れる災厄に見舞われる。彼女と私は、同じ境遇にあった。
 二十代半ばと見受けられる彼女は、傘カバーの破綻に気づくと、意外な挙動を示した。さっと、傘を斜め横に持ち変えた。水を漏らすまいとの態度が歴然としている。彼女は左手で穴をふさぎ、その左手だけで傘を支えた。右手は買い物かごでふさがっている。彼女は雨水の流出を左手一本で防いでいるのだ。左手は傘の先端部分を握っており、把っ手部分は斜め上方にある。辛そうな姿勢だ。彼女はそのまま、スーパーの入口へ舞い戻った。
 彼女は律儀に傘カバーを取り替えた。私は呆気にとられて、彼女の行動を眺めていた。そういうものであったか。そこまでしなければならないものであったか。深遠なり、傘カバー道。
 傘カバーに溜まった雨水など高が知れているではないか、などと考えてはならなかったらしい。公衆道徳のなんたるかを、いま彼女は身をもって私に提示しているのだ。
 やがて、充分に機能している新たな傘カバーに包まれた傘を片手にした彼女が私の前を通り過ぎていった。むろん、私などには見向きもしない。私の胸裏に、にわかに羞恥を主体とした混乱した感情が兆した。私はすごすごと入口に引き返した。すごすごと、傘カバーを取り替えた。
 再び店内に戻った私は、なぜか彼女の姿を探し求めていた。反省し、成長した己を認めて欲しいといったところであろうか。
「それはじゃな、おぬしは恋に落ちたんじゃよ」
 おいおい、それはぜんぜん論理的必然性がないんじゃないのか。って、だから誰と話してるんだよオレは。

次の雑文へ
バックナンバー一覧へ
バックナンバー混覧へ
目次へ