189 98.06.28 「思いっきりの国」
マドモアゼル・ソフィは、かつて一度だけこの列島を訪れたことがあるという。その折の体験から、ニッポンジンはすべからく歌手を目指しており来る日も来る日も個室で歌唱力の向上に余念がない、とソフィは思い込んでいる。ニッポンではセイコ・ミソラの権威は絶対であり無条件に崇め奉られている、とソフィは信じている。
訂正するほどのことでもないので、私は異議を唱えない。短期間の滞在でその国の全貌を理解することなどできるはずもなく、たまたま見聞した一面の事象からその国の全体像を推し量るような浅墓な思考形態は、実は私も得意とするところである。
私としては、フランスは「思いっきりの国」と断ぜざるを得ない。この国では、何をするにも思いっきり力を加えなければならない。
たとえば水道の蛇口から水を出す、という単純な行為にすら思いもよらない力を必要とするのである。レバー、ボタンといったスタイルが多いのだが、これが固い。慣れないレバーなのでやり方を間違っているのかと狼狽してしまうのだが、けして間違ってはいないのである。単に、力の加え方が足りないのである。思いっきり捻らなければならないのである。思いっきり押さねばならないのである。思いっきり、思いっきり、思いっきり、思いっきりですか~、などと歌って、ぐいぐい捻ったり押したりせねば事態は進展していかないのである。なにも歌うことはないのだが、歌ってしまうのである。ここはトゥ~ル~ズ~。
ホテルのバスタブでシャワーに切り換えるにも、やはり思いっきりが必要だ。思いっきりプルタブを引っ張らなければシャワーを使えない。その固さに最初は戸惑う。びくともしない。これは引っ張るもんじゃなくて押すもんじゃないのか、回すもんじゃないのか、揺さぶるもんじゃないのか、などと不安は増大していく。素っ裸のままであれやこれやと試しているうちに方策は尽き、やはり引っ張るものであるとの確信を抱く。そうして、もはや引っこ抜くといったような心意気でえいやっと引っ張ると、意外にあっけなくプルタブは動き、とつぜんシャワーに切り換わるのである。熱湯が頭から降り注ぎ、あぢぢぢと情けなく叫ぶはめに陥るのである。
ホテルの部屋に入るにも、思わぬ力を要する。どういうものか、きわめて頑丈な施錠態勢が図られており、鍵も折れよとばかりに思いっきり回さねばドアが開かない。思いっきりがよくなければベッドを得ることはかなわない。
この国で日常生活をつつがなく送っていくためには、思いっきりが肝心なのであった。思いっきり硬貨を押し込まねば地下鉄の切符は買えず、改札ゲートの回転棒は体を預けて思いっきり押さねばならない。思いっきり手を振らねば路線バスは止まらないし、乗ったバスを目的の停留所に停めるには思いっきりボタンを押さねばならない。生活のあらゆる場面で、なにかにつけて思いっきりを要求されるのである。
私がフランスに対して抱いたそういった印象をソフィに伝えると、彼女は理解しかねるようであった。ガイコクジンの視点は、常に思いがけないものである。ニッポンジンはすべて歌手になりたがっているとソフィは信じ、フランスジンは常に思いっきり力を加えた日々を送っていると私は見做す。
日仏の民間外交は、相互の文化理解という点で暗礁に乗り上げた。こういうときには、文化の壁、人種の溝を乗り越えて、一己の人間として対峙するべきであろう。お互いに赤心をもって、相対するのである。わかりあえるはずだ。
そうした次第で、酔ったイキオイでマドモアゼル・ソフィを思いっきりナニしてみようと試みたのだが、やはりこればかりは洋の東西を問わず結末は同じで、頬をひっぱたかれるのであった。
それはもう、思いっきり。
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