187 98.06.08 「愚痴をこぼそう」

 世を過ぎる風は冷たく、傷心を抱えることになった。私の繊細な心は傷ついた。
 やはりこういうときには世の慣習に則り、友人に長電話をかけて愚痴をこぼすのがよかろう。ここぞとばかりに、くよくよしてやるのだ。前々から一度やってみたいと思っていたのだが、なかなかその機会に恵まれなかった。今宵、好機を得て、かねてよりの宿願を果たしてみたい。
「あ~、もしもし、オレだけどね」
「ひよひよ」
「オレだってば」
「ひよひよ」
 森崎某、なんだか要領を得ない。
「ひよひよは、よせ」
「これは最近の口癖なのだ。マイブームというやつだな。ひよひよ」
「やめろ、と言うに。まあ、よい。今から愚痴をこぼすので、謹んで聞きたまえ」
「ん。愚痴? あ、そう」
「時には泣き言を言うかもしれん。繰り言といったものにも挑戦してみたいし、こみあげる涙をこらえきれずに絶句してしまうといった劇的な演出も試みたい」
「ふうん。暇だな。ま、いいや。ひよひよ。聞くよ。どうぞ」
 どうぞ、と言われるといささかひるむが、私は深呼吸をひとつして、さっそく愚痴走った。
「さっきさあ、駅の立ち食いソバ屋でさ、もりうどんを食べようとしたのよ」
「そういうものを食ってはいかん。ひよひよ。立ち食いソバ屋では人はすべからくたぬきそばを食わねばならぬ」
「あのな、おまえの嗜好は聞いとらん。それから、ひよひよは、よせ。黙って、友の愚痴を聞け。オレの泣き言など滅多に聞けるものではないぞ」
「ひよひよ」
「よせ、と言っておろうが」
 私は、さめざめと語った。悲劇の主人公として己に降りかかった災厄を過不足なく語った。時には悲痛な声音を絞り出し、またある時には沈んだ口調に苦渋を滲ませ、私は、先ほど立ち食いソバ屋で出くわした災難について、くどくどと語った。
 もりうどんである。私は、ちっぽけなチケットを差し出し、おばちゃんがもりうどんをつくるのを待っていたのである。
 災厄の萌芽は、おばちゃんと客を隔てるカウンターの上に転がっていた。具体的は、刻んだ海苔を満載にした缶がそれである。しかも、投入用のトングが無造作に放り込まれている。あまつさえ、その把っ手は客側に向けられている。
 ははあ、これは客が勝手に入れてよいのだな。吉野家的紅生姜システムなのだな。よいではないか。世知辛いこの業界にも、まだこんな良心が残っていたか。感心かんしん。
 そう考えた私を、いったい誰が責められよう。
 もちろん、私はいつものように浅墓であり、いつものように短慮であった。そんな太っ腹な立ち食いソバ屋が存在するはずはないのである。
「はい、もりうどん、おまちど~」
 どん、と所望の品が置かれると同時に、私はトングを手に取った。海苔を盛大につまみあげた。
 その瞬間である。
「だめだめだめだめだめーっ」
 おばちゃんの鋭い制止の声がかかった。同時に、電光石火の早業で私の手からトングがもぎ取られた。次の瞬間、おばちゃんは海苔の缶をしっかと胸に抱えていた。素早い。素早すぎる。
 呆気にとられる私を、おばちゃんは、きっと見据えた。その目は明らかに私を盗っ人と見做している。
「もりうどんに、海苔がつくわけがないでしょっ」
 激しい御叱責である。
 ないでしょっ、と言われても。私は唇を噛んだ。私の背に、他の客の好奇の視線が集中していた。私は打ちひしがれ、乾いた声で弁解するのであった。取り繕うのであった。
「あは。あはははは。そうだよね、もりうどんだもんね。あはあは」
 恥辱にまみれながら、私はもりうどんを啜り、とぼとぼと店を出た。悔し涙で、風景が滲んでいた。
「な、わかるだろ。オレの屈辱が」私は森崎某に訴えた。「こんな辱めを受けたことはないぞ、オレは」
「ふむふむ、それは災難だったな。ひよひよ。ところで、デンマークの首都はどこだっけ?」
「コペンハーゲンだが、ひよひよはやめろ。いくらなんでも、あのおばちゃんの態度は許せない。オレは口惜しいよ」
「まーまー」
「思い出すだに酷い仕打ちだ」
「まーまー」
「そう思うだろ?」
「思う思う。で、Mnという元素はなんだ? ま、で始まる四文字なんだが」
「マンガンだろ」あ。なんて酷い奴だ。「おまえ、友が悔し涙に掻き暮れているというのに、クロスワードパズルにうつつを抜かしておるのか」
 森崎某は「まーまー」などと言いながら、「ま、で始まる四文字」を考えあぐねていたのだ。
「あれ? わかっちゃった?」
「……」
 こんな奴に我が胸中を理解してもらおうとした私は、いつものように浅墓であり、いつものように短慮であった。
「ひよひよ」
「だから、それはやめろと」

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