182 98.05.26 「雨が降りだした」
額に、ぽつんと、雨粒が当たった。
空を振り仰ぐと、ずいぶん低い。すぐそこにある雲から雨滴が落ちつつある。かなり黒色に傾いた色彩の厚い雲で、ほどなくして大粒の雨が叩きつけるだろうと思わせる。
私の前方を歩く高校生もまた、ほどなくしてなにかをやらかすもののようであった。そんなにも大袈裟な仕草で周囲をきょろきょろと見回して、いったいなにをやるつもりなのであろう。きわめて不審な挙動だが、その不審ぶりがあまりにもあからさまで、かえって妙な可笑しさを醸し出しているのであった。
彼はしきりに背後を振り返る。最初は、私はストーカーと思われているのであろうか、と考えた。くそう、ひとをなんだと思っておるのだ、オレにはそんな勇気はないぞ、といくぶんいじけた心地に捕らわれたのだが、どうも私のことは眼中にないようである。彼は幾度となくそわそわと振り向いては、背伸びをするように私の背後の彼方を見はるかすのであった。なにかに怯えているようでもある。
なんだろうか。とりあえず、私には関わりがないことではあろう。
しかし、関わりがあったのである。お互いの当面の目的地が全く同じだったのだ。
道端の自動販売機というものがそれだ。物件は煙草である。ふうむ、煙草を購入することに罪悪感に苛まれる高校生がおったのか。初々しいものであるな。なんとなく微笑ましさを覚えながら、私は彼のあとに並んだ。
が、そんな思いはすぐに雲散霧消し、苛立ちがとってかわった。
こやつは満足に硬貨を投入できないのである。ありていにいえば、手が震えているのである。硬貨は販売機に吸い込まれたりはせず、ちゃりんちゃりんと路上に落ちていくのであった。
参ったなあ。初体験なのかもしれぬ。まあ、何事にも初めてはあるだろう。煙草のみの先達として、私もせかすような野暮はせぬ。いらいらするのは確かだが、ぐっとこらえてしんぜよう。落ち着いて買ってくれ。
しかし、見ず知らずのオトナというものに背後に立たれてしまった彼の胸中には様々な思惑が交錯するのであろう。ようやく所期の金額を投入し追えた彼の動揺は隠しようもなく、そのうろたえぶりは見るからに痛々しい。
かといって、「ま、焦るな。オレは君の喫煙を咎めたりはしないから、落ち着け」などと励ますほど、当方はお人好しではないのである。しいていえば、マイルドセブン・ライトという無難な選択に、いささか難点があるように思う。いい若いもんがそんな冒険心も遊び心もない煙草を喫ってどうする、とは考えるが、やっぱり私には関係がない。彼には彼の嗜好があろう。
煙草をポケットにしまった彼と目が合った。
ややや。なぜ私が睨みつけられなければならないのであるか。理不尽である。彼は、きっ、と私を睨みすえるのである。私はたじろいだ。どうなっておるのか。いかなる思考経路を辿ると、そういう行動に到達するのか。なぜだ。さっぱりわからない。
そのとき、いきなり雨足が強くなった。大量の雨粒が激しく路面を叩き始めた。
私はすかさず傘を広げた。どういうつもりなのか自分でもよくわからないが、その半分を彼の頭上にもさしかけた。彼は傘を所持していなかった。
「いりませんっ」
彼は短く叫び、傘を持つ私の腕を押し戻した。そして、駈けだした。あっというまにずぶ濡れとなりながら、遠去かっていった。
しばらく呆気にとられていた私は、当初の目的を思いだし煙草を購入した。その一本をくわえながら、彼が消え去った道の彼方を眺めやった。
いりません、ときたか。私は煙草に火をつけた。なぜ敬語か。
睨んでたくせに。
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