170 98.02.21 「ワカメよ、ネギよ。」

 ワカメを、ネギを、我々の手に取り戻せ。
 と、いうような運びとなった。どうしてそうなるのか全く不明だが、成り行きなので仕方がない。我々三名は意気揚々と、とりあえず手近な立ち食い蕎麦屋を目指すのであった。
 発端はキョウジの嘆きであった。彼が永年のあいだ惜しみなく注ぎ続けた愛が、裏切られたというのである。立ち食い蕎麦屋、常盤軒が、キョウジを裏切った。つい先ごろ常盤軒の経営戦略に極めて甚大な転換が見られた、とキョウジは涙ながらに言い募るのであった。
 聞けば、酷い話である。それまで常盤軒は、具という重大事についてたいへん太っ腹な見解を有していた。ワカメとネギがその傍証である。常盤軒は、その投入量の加減を客の裁量に委ねていたのである。ワカメとネギは、客が入れる。己の嗜好の赴くままに、客が入れる。店のおばちゃんは、いっさい口出ししない。信頼とはかくあるべしという美しい共生である。キョウジはそんな常盤軒をこよなく愛していた。心の安寧を得ていた。しかし、キョウジの人生はいきなり暗転した。
 ああ、常盤軒よ、おまえもか。ある日、常盤軒を訪れたキョウジは、楽園が喪われた事実に直面し、慄然とした。おばちゃんが無造作に入れるワカメ。おばちゃんが無造作に入れるネギ。客の嗜好発露の場は、もはや七味唐辛子にしか残されていなかった。そんなのは常盤軒じゃない。キョウジの自由は、またひとつ剥奪された。常盤軒の天こ盛りのワカメが俺の数少ない贅沢だったのだ、俺達に許されたささやかな自由がどんどん削り取られてゆく、キョウジは唇を噛み締めてつぶやくのであった。
 私は大いに共感した。私もかねがねその点については鬱屈する不満を抑えかねていたのだ。いったいいつの頃から、立ち食い蕎麦屋はワカメやネギの生殺与奪権を客から奪ってしまったのか。貴重な良心と思われた常盤軒も、ついに転向してしまった。立ち食い蕎麦屋のオアシスが消えていく。砂漠化が進んでいく。
 さあ、いくらでも取っていきなさい、たんとお食べなさい。そんなふうに優しく語りかけながら、カウンターに置かれていたワカメ達よ、ネギ達よ。君達が不本意ながらも経営者側の軍門に降って久しい。そろそろ、我々の許に帰ってこないか。
 懐かしがってばかりもいられない。志を同じくすることを確認したワカメ派のキョウジとネギ派の私は、党派を乗り越え、一致団結してコトにあたることを決意した。
 そこへ現れたのが、マミという者である。彼女もまた、近年の立ち食い蕎麦屋のあり方に強い疑念を抱く懊悩の士であった。マミはネギが苦手という決定的な弱点を保持していた。しかるに、昨今の立ち食い蕎麦屋のテイタラクはいったいなんなのよ、入れないでよネギを、入れないでって言ってるでしょ、きーっ、それからワカメもちょっと苦手なのよね。といった苦衷の顛末を経て、立ち食い蕎麦屋の現状を愁えるに至った剛の者である。
 マミのネギは私が請け負うことにしよう。マミのワカメはキョウジの担当だ。利害は一致し、ここに共同戦線は成立した。
 我々は、仮想敵の検証にかかった。まず考えなければならないのは、「ワカメが嫌ならいらないと言えばいいじゃん。ネギをたくさん入れて欲しいのなら素直にそう言えばいいじゃん。言えばその通りにしてくれるよ、立ち食い蕎麦屋のおばちゃんは」などと能天気に語る一派である。デリカシーというものを母親の胎内に置き忘れてきた手合いであり、およそ度し難い。
 そんなことはあらためて指摘されなくてもわかっている。我々は物事の根本を改革しようとしているのである。「おばちゃん、ネギをちょっと多めに入れてよ」そんなたわけた発言を口にできるはずもない。そんなさもしい言辞を弄するほど我々は落ちぶれてはいない。「おばちゃんごめんね、わたし、ネギはいらないの」そんな不遜な物言いができるはずもない。ひとが思いがけないことばで傷つくことを、我々は知っている。
 おばちゃんにはおばちゃんの仕事がある。与えられた仕事がある。我々は、それを侵害したりはしない。自分の些細なわがままでおばちゃんの仕事を増やすには、我々の神経は繊細に過ぎる。ひとに優しい昔の取り放題システムが蘇れば、すべては解決する。システムそれ自体を改変すべく、我々三人は立ち上がったのである。
 こうして、社会に適合できないという共通の特質を抱えた三人は、世直しのために立ち食い蕎麦屋に赴くことになったのであった。
 途上で綿密な作戦会議が催された。各人の意気は高く、次々に魅力的な戦略が立案された。
 戦場に到着した我々は、かけうどんを所望した。ワカメやネギの存在が際立つ選択である。三つのかけうどんを前に、マミの丼からキョウジはワカメを私はネギを、それぞれ救い取って各々の丼に移しかえた。ここで作戦にいささかの齟齬が生じた。この作業はこれみよがしに行われるはずだったのだ。現状のシステムは客の側にこういう余計な作業を強いているという無言のアピールであるから、もちろん店側に伝達されなければならない。これみよがしでなければならなかった。しかし、実際にはなにかしら申し訳なさそうにこそこそと行われてしまった。
 卒然と、我々は気づいた。そうだったのである、実にどうも、我々は気が弱かったのである。
 うっかりしていた。自らの気の弱さを全く考慮せずに戦略を立てていたのだ。我々は気が弱いばかりではなく、粗忽者でもあった。いささか傍若無人な戦略を実行する資質が自らにあるかとの事前検証作業を、完全に失念していた。
 次なる作戦も、当然のことながら破綻した。「なぜ要求もしていないワカメやネギを勝手に投入するのか。親切の押し売りとは、まさにこのことではないか」「全く同感である。誤った民主主義が招いた悪しき平等の典型例といえよう」「いかにもその通りである。個性というものを黙殺する恐るべき所業といっても過言ではない」といったような問題意識に溢れた鼎談が声高に行われるはずだったのである。そういう市井の声を聞かせることで、店側の猛省を促そうという意図だったのだ。店内の雑音に負けないように声高に語られなければならなかった。
 実際には、声高など、どこにもなかった。小声のひそやかな会話、というのが正しいようであった。
「なんで、頼んでもいないのに入れるのかなあ」
「ひとには好き嫌いがあるのになあ」
「なんとかしてほしいなあ」
 我々はお互いに顔を見合わせ、すぐに目を伏せた。
 すべては画餅に終わった。完敗であった。言葉は途切れ、我々は黙々とうどんをすすった。
 店を出た我々は、それぞれの胸の内でなにかと戦った。誰からともなく共同戦線の解消が提案され、すぐに了承された。
 我々は、とぼとぼと歩きだした。歩き慣れた敗残者の道を。

次の雑文へ
バックナンバー一覧へ
バックナンバー混覧へ
目次へ