168 98.02.16 「傷ついても独り」

 侮り難し、自動改札機。
 右手親指の腹に痛みを覚え、私は思わず立ち止まった。駅の雑踏でいきなり立ち止まれば、周囲にたいへんな御迷惑をかけてしまう。私はたちまち背後から突き飛ばされ、人の流れから弾き出された。人波から落伍した私は、しげしげと右手親指を見つめた。縦に一センチほどの切り傷。ちょうど血が吹き出したところであった。
 ううむ。イオカードで怪我をするとは、あまり誉められた話ではないのではないか。いや、いっそここはむしろ積極的に、かなりマヌケであると断言してみたい。してみたからといって、どうなるものでもないが。
 どうやら本日の私には油断があったようだ。禁物と語られて久しい油断が、私の心の空隙を見事に衝いたのである。いつも空隙だらけではあるが、それは言いっこなしである。
 イオカードは、自動改札機に吸い込まれる瞬間、私の右手親指の腹に一センチほどの切り傷を残したのだ。困ったことになった。これでは拇印を押すときに示しがつかないではないか。誰に示しをつけようとしているのか、私にもわからないが。
 イオカードとは、JR東日本が発行している自動改札用のプリペイドカードであり、テレホンカードに酷似した人相風体を宿している。バタフライナイフばかりが凶器ではない。近所でも評判のあの真面目でおとなしいイオカードでさえ、ひとたび牙を向けば人を傷つけるのだ。都会の深層に潜む暗黒の亀裂が、その凶暴な牙を閃かせた魔の一瞬だったと言えるのではないか。言えなくてもよいが。
 そのいちばん右側の自動改札機には、かねてより注意していたのである。札付きの問題機であり、しょっちゅう修理だか整備だか調整だかを受けていて、通過不能となっていることが多かった。通行拒否自動、と密かに名付けて悦に入っていた報いであろうか。本日、鮮やかなしっぺ返しを繰り出されてしまった。その意気は買える。敵ながら天晴れだ。
 その問題機にはムラっ気があった。カードの投入から射出までの時間が、他の優良機に比べて心なしか長い。センサーの精度が低いのか、時々扉を閉めて通りゃんせ攻撃を仕掛けてくる。そしてなにより、投入時における引き込む力が異様に強いのであった。特筆すべき吸引力であり、カードから手を離すタイミングに気を使わねばならない。うっかりすると、カードの側部で切り傷をつくられそうなほどだ。
 つくられたわけだが。
 その遠慮を知らない吸引力が瞬間的にカードに与える移動速度は、いったいいかほどのものであろうか。裏ロムが仕込まれているとの嫌疑が拭えない問題機は、暴力的な貪欲さでカードを呑み込み、通り過ぎる人々の指を傷つけているのであった。
 のであった。のであったはずだ。違うのか。
 私は、しばらくの間、問題機を使用する人の流れを観察してみた。
 あれれ。変だな。話が違う。いやはやどうも、誰もがなんてこともなく問題機を通り過ぎていくではないか。誰ひとり、負傷した様子はない。
 オレだけか。オレだけなのか。オレだけが粗忽なのか。ぐすん。私は足許の小石を蹴ろうとした。が、こういうときに限って、足許に小石はないのである。惜しいなあ。こんな場面では、小石を蹴って背中を丸めながらとぼとぼと立ち去るのが、この列島における伝統的な習慣となっているのだが。
 つまんねえなあ。傷ついちゃうよなあ。いや、もう傷ついていたのか。
 それにしても、意外に深いなこの傷は。

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