166 98.02.14 「邂逅の記」

 これまでも赤の他人で、今後もきっと赤の他人だろう。先のことはわからないが、たぶんそうだろう。こちらにしてみればそういう位置付けの人物である。おそらくあちらも御同様だろう。
 一日のうちに同じ人物に何度か出会う。時間をおいて、異なる場所で。出会うというより、見掛け合うといったところか。お互いがお互いの存在を認知する。べつに挨拶を交わすわけではない。あれれ、さっきも会ったな、あのひと、と思う。むこうも、たぶんそう思っている。こちらと同じく、あれれ、という顔をしている。
 気づくのは二回目からだ。仕事先の某市役所で擦れ違った。こちらと同年輩のサラリーマン風。擦れ違ってから気がついた。いまのひとは、今朝、電車の中で隣り合わせたひとじゃなかったかな。歩きながらちらりと後方を振り返ると、彼も同様の行為をしていたので、若干うろたえた。ここまではよくある話である。翌日になれば憶えていない。
 昼食を摂るために初めて訪れた定食屋で出くわしたのが三回目。そっと驚くわけにもいかず、私は思わず立ち止まった。慌てて会釈をしてしまったところ、彼は鶏の唐揚げとおぼしき物体を口にしたまま、がくがくと顔を上下させた。彼の方が慌てたらしい。彼も私も、べつに会釈をする必要はないのである。偶然が重なった結果に過ぎない。似たような立場にある似たような人物が似たような行動様式を辿っただけのことである。よくよく考えれば、不思議でもなんでもない。かつて同じような体験をしたこともあるようにも思える。奇遇というほどのものではない。あってもおかしくない話である。来週になれば忘れている。
 夜になって、帰途書店に立ち寄った私は、またしても彼を見掛けた。偶然という現象について、なにかしら考えざるをえない。四回目である。記録的である。自己新、というようなものだろうか。日本記録や世界記録は何回くらいなのだろう。どこへ行けばその記録がわかるのだろう。国際邂逅委員会は、いったいなにをやっているのか。
 彼はまだ私に気づいていない。これがある種の人物であれば対応は決まっている。「よくお会いしますね、お嬢さん。これもなにかの縁です。どうですか、そこらでモツの煮込みでも」。しかし彼は特に私の興味に訴える人物ではない。見なかったことにして立ち去ろうかと考えたが、購入したい雑誌を手にするためには彼の横を通り過ぎなければならない。
 逡巡していると、彼のほうが私に気づいた。「あ」
 他にどういう態度をとってよいか思いつかず、私はとりあえず会釈した。
「よくお会いしますね」同時に同じ科白を口にしていた。「ええ」
 ふと、妙な間があった。なにか新たなる展開が生じるか、といった微妙な一瞬が、彼と私の間をすり抜けていった。
 そんな展開を期待する理由は、私の裡にはなかった。彼も同じだろう。
「それじゃ」
 もごもごと呟きながら、擦れ違う私達なのであった。

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