159 98.02.02 「あんちゃんのルール」

 そのあんちゃんは、なにかが妙だった。
 どこがどう妙なのか指摘できない。しかし、なにかが妙なのであった。
 タンメンを啜りながら、私はそのあんちゃんを凝視した。私は、ラーメン屋「とんとん庵」の中で、そのあんちゃんに気づいたのである。角地に立地した店であり、私の席からは、交差点がよく見渡せる。交通量の少ない道路だが、警察には警察の事情があるらしく、信号機があり横断歩道がある。
 あんちゃんは、歩道に佇んでいた。歩行者用の赤信号が変わるのを待っているのであった。
 高校生のようである。これ見よがしに煙草をふかしているのが目立つが、妙というわけではない。野外での喫煙は、珍しい行為ではない。私もよくやる。もっとも、高校生がやるとちょっと珍しいかもしれない。しかし妙ではない。
 私は、茹ですぎ気味の麺を啜りながら、なおもあんちゃんを観察した。
 ベルトの位置を異様にずり下げシャツの裾をさらけ出しているが、高校生が制服を着くずすのもさしておかしな所業ではない。良識というものが多数決によって定められるものなら、あんちゃんの姿は確かに良識からすればだらしなかろう。とはいえ、こちらは人様のお姿をだらしないと言えた義理ではないし、そもそもあんちゃんの服装にはなにも妙なところはなかった。
 はて、なんだろう。なにかが妙なのだ。白菜を噛みしめながら、私は思い悩んだ。
 信号が変わった。あんちゃんが道路を渡り始めた。
 あっ。私はレンゲを取り落とした。わかった。やっとわかった。
 スープの中に埋没したレンゲを箸で救助しながら、私はようやく納得した。
 信号を守っているのが妙なのであった。レンゲの把手をおしぼりで拭いながら、私は自らの発見に感激した。そうだったのだ。あんちゃんは、律儀に信号のメッセージに従っているのである。
 あんちゃんばかりに気を取られていたが、そういえば赤信号など無視する歩行者ばかりであった。誰もが、左右を確認したうえで横断していく。車は滅多に通らない。むしろ、この状況下における信号無視は合理的な行動であるといえる。そんな中でひとりだけ交通法規を遵守しているからこそ、あんちゃんは妙なのであった。
 横断歩道を渡り切ったあんちゃんは、また赤信号が変わるのを待っている。対角の地に行きたいもののようだ。悠然とした態度で煙草をふかしている。先ほど、信号というものの存在を全く黙殺して斜めに道路を渡り、その地に辿り着いたおばちゃんがあったはずだが、彼女の姿はもう見えない。たとえば、あんちゃんは、あのおばちゃんの行動をどのように考えているのであろうか。苦々しく思っているのか、それとも他人のことはいっこうに気にならないのか。
 その態度から推し量るに、あんちゃんは世の中のルールというものにたいへんおおらかな姿勢で人生に臨んでいると思われる。あと数年の間は喫煙してはならないとか、服装はきちんとしなければならないとか、そうした発想とは無縁の世界で生きているようである。その彼が、なにゆえに信号を守るのか。
 また信号が変わり、あんちゃんは青信号に導かれて横断歩道を渡っていく。
 伸びつつある麺を啜り、私はなぜもっと堅めに茹でないのだろうとの不満を募らせる一方で、あんちゃんの歩んできた道を思った。
 幼少のみぎりに赤信号を無視したあげく交通事故に遭った体験が、今もトラウマとなって残っているのではないか。
 あるいは、父親が警察の交通課におり、かたく因果を含められているのではないか。交通違反でだけは捕まってくれるなよ、と。この春からは青少年防犯課に異動するから、そのときは煙草はやめてくれ、赤信号は無視してもかまわないから、と。
 もしくは、先祖に狼煙の専門家がいて、もはやDNAに信号を遵守する因子が組み込まれてしまった信号一族の末裔なのではないか。
 ふと気づくと、あんちゃんの姿はもう見えなくなっていた。
 あんちゃんがなにゆえに赤信号を守るのか、つまるところ部外者の私が口出しすることではないのだろう。スープを飲み干しながら、私はすこしばかり反省した。スープだけはうまいんだけどなこの店、と考える一方で、私は他人のことをあれこれ斟酌するのはやめよう、と決意していた。
 あんちゃんにはあんちゃんのルールがあるのだろう。私には何も言えない。
 私に言えるのは、「とんとん庵」は麺をもうすこし堅めに茹でてほしい、ただそれだけである。

次の雑文へ
バックナンバー一覧へ
バックナンバー混覧へ
目次へ