131 97.09.01 「晩夏のセミナー」

 部屋に迷い込んできた蝉を追い出すのに思い悩んだ経験はありませんか? 本日はそんなときの対処法を御伝授申し上げましょう。そんなことはありえないとうそぶくあなた、明日あなたの部屋に蝉が迷い込んでこないとどうして断言できるのですか。人生、一寸先は蝉です。転ばぬ先のゼミなどとも申します。明日あなたの部屋に蝉が迷い込んできたときに、ああ、為になる講義を受けておいて本当に良かった! と、私に感謝すること請け合いです。
 ここではアブラゼミを想定しましょう。しかも、オスです。あまつさえ、羽化したばかりです。人生においては何事も最悪の場面を想定しておくのが肝心だと、鑑真も語っていました。ガンジーだったかもしれませんが、そんな駄洒落をもてあそんでいる場合ではありませんでした。あなたの人生が危機に直面しているのです。およそ、部屋に蝉が迷い込んでくるほどの災難は想像できるものではありません。筆舌に尽くし難いとはまさにこのことです。
 蝉はまずあなたの部屋の壁にへばりつきます。蝉は、なにかというとへばりつくものなのです。しかもオスなので鳴きわめきます。オスの蝉は、なにかというと鳴きわめくものなのです。アブラゼミなのでジージーと鳴きわめきます。我々人間社会においてはナンパと称される行為です。許せるでしょうか。人の家に勝手に入ってきてナンパです。自然界では当然の行為ですが、この歪んだ人間社会では許されるはずもありません。この狼藉を看過してよいものでしょうか。軒先を貸して母屋を取られてはなりません。排除です。強制排除しかありません。
 さあ、立ち上がりましょう。アブラゼミをいかにして追い出すか。あなたの真価が問われています。人には誰でも、いつかアブラゼミを追い出さなければならない日が訪れるものです。現実に目を背けてはなりません。いくつもの苦難を乗り越えてきたあなたに、できないことはありません。さあ、勇気を出して、追い出すのです。
 一般的な家庭ではこういうときのために捕虫網が用意してあるはずですから、すかさず手にしましょう。殊に夏場ですから、すぐに手に取れる場所に常備してあることと思います。そっと近づいて素早く捕獲しましょう。くれぐれも捕虫網を振り降ろす角度を間違えないようにしてください。蝉の飛び立ちそうな方向を瞬時に予見して、その方向から一気に捕獲するのです。自信のない方は今からでも遅くはありませんから、毎日三十分は野外で蝉取りに励んでください。場数を踏むことが大切です。たとえ忙しくても室内での素振りだけは欠かさないでください。不断の努力が、ここぞという瞬間に実を結ぶのです。
 万が一、最初の捕獲に失敗した場合は、長期戦を覚悟してください。敵は、ここかと思えばまたまたアブラと部屋のあちこちを移動するものです。開け放った窓から出て行ってくれればよさそうなものですが、しょせんは蝉にすぎません。蝉といえば、あまり頭が良くないことで知られています。そのくせ生命の危険を鋭く察知して、過敏になっています。部屋の内部の微かな空気の動きを感知して絶え間なく移動を繰り返します。こうなると根比べです。気配を絶ちましょう。この日に備えて整息術を学んでおくのもひとつの方法でしょう。まずは、心を無にします。すべての邪念を放擲し、空気と一体化するのです。初めのうちはうまくいかないかもしれませんが、慣れればさほど苦労せずにできるようになります。何事も慣れるものです。気配を絶ちさえすれば、捕獲はたやすいことです。
 不幸にもたまたま捕虫網を切らしていたり、信じられないことですが普段から捕虫網を常備していない場合は、いささか困ったことになります。手で捕獲できるものではありません。できる人もいますが、ここではそうした特殊技能のことは考えません。人にはできることとできないことがあります。
 捕獲以外の方法論を採択することになります。安易な手法としてはまず、殺虫剤が挙げられるでしょう。しかし強力なものは条約で禁止されています。特にスプレイタイプのものは即死の可能性もあり、その使用は厳に慎むべきでしょう。同様の理由でハエタタキの使用も控えるべきです。
 蚊取線香が存外に効果的との報告が多数寄せられています。適切に運用すればかなりの成果があげられる模様です。ただし窓を全開にしておくことだけは忘れないでください。殺してしまってはなにもなりません。目的は追い出すことです。時折、手段に捕らわれて本来の目的を見失ってしまい、誤って蝉を死に至らしめる事例が見受けられるようです。くれぐれも注意してください。他にも、たばこの煙に同様の効能が認められるとする傾聴に値する説もありますが、理論の域を出ていないようです。
 音には音で制するという手法にも注目する必要があるでしょう。ロック、特にヘビメタが大変効果的とされています。たちまち逃げ出したとの成功例がいくつか報告されています。この方法の難点は大音量を要することで、御近所付き合いがうまくいっていない場合、蝉より怖い隣人が怒鳴り込んでくるため、なかなか普及には至らないようです。
 常に一匹の蝉を飼っておき窓の外に置いておびき出す、という友釣り型の作戦も試してみる価値はあるでしょう。
 以上、それぞれの状況に配慮しながら臨機応変に試してみてください。
 万策尽き果てたときには、すべてを諦めましょう。長い人生です。時には、明るく諦めることも必要でしょう。人事を尽くしたあなたを、いったい誰が責められるでしょう。
 長くても一週間我慢すれば、蝉は死にます。うまくタイミングが会えば、明日にも死ぬかも知れません。殺してはなりませんが、死んでいくものは仕方がありません。蝉と同じ部屋に住む体験も、得難いものだと思います。いつか訪れる死について思索を深めるよい機会かもしれません。
 それでは皆さん、御健闘ください。
 これで講義を終わります。

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