116 97.06.30 「密着男女の行方」
不必要に密着しているとの感想は、むろん私の独断に過ぎないのであって、その若き男女にとってみれば、密着をせざるをえない何かしらの事情があるのだろう。
お互いの身体を密着させながら歩行するという行為はたいへん難しいらしく、彼等はよろめきながら電車の中に入ってきた。ふらふらと無駄な軌道を描きながら、反対側のドアの片隅に辿り着いた。移動が完了すると彼等は更にその密着度を高めていった。あまつさえ身体だけでなく首から上の部分でも、頻繁な密着を重ねていくのであった。
彼等はお互いの存在しか感知できないようであり、すぐ傍の座席に腰掛けて車両の揺れに身を委ねながら惰眠をむさぼっている男にはなんの注意も払うことはなかった。
しかし、私は目覚めていたのである。ここぞとばかりに耳をそばだてていたのであった。
「今日は、記念日なの」ちゅ
とは、少女の発言である。なお、彼等はなにかというと口づけを交わすため、ところどころに異音が混入するのであった。
「なんの記念日?」ちゅ
少年が訊き返す。
「あてて」ちゅ「みて」
「初めて」ちゅ「した日?」
「はずれ」ちゅ
はずれかあ。私もそう睨んだのだが。残念。
いや、私が残念がることはないが。
「じゃあね」ちゅちゅちゅ「初めてアレした日」
「やぁん。ちがうー」
そうか、私の予想はまたはずれたか。しかしまあ、オトコっつうのは似たようなことしか思いつかないもんだな。女性はそういう日をよく憶えているものだという根拠のない思い込みが前提にある。失礼な話ではあるが、まあそんなもんだ。
愚鈍な少年の反応にじれったくなったのか、少女は解答を披瀝した。
「あのね」ちゅ「あたしが初めてヒトシを好きになった日」
ゑ。
意表をつく展開だ。それは読めない。ヒトシくんも一瞬、凍りついた。
いやあ、ヒトシくんよ、そりゃわかんねえよな。知ったこっちゃねえよな、そんなこたあ。
しかし、ヒトシくんは素早く立ち直るのであった。
「おれがメグミを好きになったのは」ちゅっちゅっ「5月5日だな」
「それ、ヒトシの誕生日じゃない」
ヒトシくんは子供の日に産まれた模様だ。
「産まれたときから」ちゅ~~「好きだったんだ」
こういう法螺は好きだ。
しかし、どうも法螺でも冗談でもなかったようなのであった。
メグミちゃんは、うひゃんと言って身をくねらせ、ヒトシくんの口づけは更に情熱度を深めていくのであった。まいったなあ、ヒトシくんには。メグミちゃんにも困ったものだが。
馬鹿馬鹿しくなったので、私は寝た。
私が目覚めたとき、彼等は電車を降りようとするところだった。そのとき電車ががくんと揺れた。
二人の世界に溺れた若き男女の密着を引き離すのは、意外に簡単なことがわかった。ただ、電車ががくんと揺れさえすればよいのであった。
ヒトシくんはとっさに頭上の吊革をつかんだ。当然のことながら、メグミちゃんの身体に回していた両手が離れた。メグミちゃんを支えるものはなくなった。
その結果、ヒトシくんに身を委ね切っていたメグミちゃんは、こけた。派手にこけた。
すかさず喧嘩が始まった。電車を降りるのも忘れて、大声で罵り合うヒトシくんとメグミちゃんなのであった。最前まで甘い睦言を聞いていただけに、私には感慨深いものがあった。
メグミちゃんの膝小僧には血が滲んでいた。
いかなる強い愛の密着も自己保身本能の前には無力である、というのが本日の収穫だ。
そんな収穫を得てもしょうがないんだけどさ。
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