089 97.04.02 「粗忽な私を呼び止めて」

 呼び止めてくれるから、人間って素晴らしい。
 機械は呼び止めてくれないもんな。あ、いやいや、銀行の現金自動支払機は呼び止めるか。でもあれは呼び止めるっつうより、早く現金を取り出せって言うだけだな。あれ、せわしないよなあ。せかすみたいに、短い間隔で喋りやがる。こちとら、通帳やカードをしまうのに忙しいんでいっ、カネを取り出し忘れてるわけじゃないんだっ。だいたい、いちいちやかましい。しつこいし、くどい。それに冷たい声だしやがって、もっと温かみのある口調で喋れんのか。第一勧銀の支払機は西田ひかるの声を出せ。三和銀行の支払機は和久井映見の口調で喋れっつうの。カードはここっ、通帳はここっ、てさあ。操作を間違うと冷静に指摘しやがるのも、憎たらしい。大声で間違いを正すんだよなあ。大声っていっても、それはこっちの気のせいなんだけどさ。間違ったときはこっそり小声で教えてほしいよな。恥ずかしいじゃないかっ。
 あ、いけね、また逆上しちゃった。支払機のことはどうでもいいのだった。自動販売機は、品物を取り忘れてもそれを教えてくれないので困る、というような話をするつもりだったのだ。なんでいきなり横道にそれちゃうかな、オレ。
 対人販売の場合、購入したばかりの品物をうっかり手にとらずにレジを離れても、すかさず店員が呼び止めてくれる。「あ、お客様、お忘れですよ、お買い上げになったコンドーム」バツの悪い思いはするが、まあ、ありがたい。その場で双方が気づかなくても、デパートあたりだと店内放送で呼び出してくれる。「さきほどおもちゃ売場で電動コケシをお買い上げ下さいましたお客様、お品物をお忘れですので至急おもちゃ売場までお越しください。取りに来なかったらアタシが自分で使っちゃうぞ」まさか、そんなことは言わないが。なんにしろ、人様の親切は身に染みる。
 自動販売機だとそうはいかない。忘れたらそれっきりだ。しばらくして気づいて戻ってみても、まず残されていない。誰かが持って行っちゃうのである。その自動販売機の利用頻度の高さが察せられて勉強にはなるが、私が買った缶コーヒーは誰かが飲んじゃうのである。私が意図した通りに事態は進行しないのである。私は損をしちゃうのである。しかし、持って行っちゃったひとは、こりゃ儲かったってんで疑いもせずに飲んじゃうのかな。飲み口に毒物が塗られているんではないか、なんて考えないのかな。その缶コーヒーは差し上げるから、そのへんの心境を一度じっくりお聞きしたいとつくづく思う。
 他人に話すとあまり信じてもらえないのだが、私はわりとこの類の失敗を懲りもせずに繰り返す。これまでのジンセイにおいて見ず知らずの他人に供給してきたタバコ、清涼飲料水その他は、数知れない。これまでで最も高価だったのは電車の切符で、千円くらいだったのかな。このときはさすがに自分の粗忽さに呆れた。当然のことながら改札口に到って取り忘れたことに気づくわけで、すかさず券売機まで戻ったが、すでに切符は人手に渡っていた。今となっては、過不足なく使用されたと思いたい。途中下車されたら、私の出費が本当に無駄になってしまうではないか。
 巷間伝わるところによれば、品物を取り忘れても呼び止めてくれる自動販売機は存在するらしい。簡単な技術だという。そりゃまあ、取り出し口にセンサーをつけて時間を計るだけだもんな。普及しない理由は、まあ、わかる。すぐに喋りだすとまっとうな利用者を不快にするし、しばらくたって喋りだすと粗忽な利用者はすでに立ち去っている。
 どうして、自腹を切って購入した品物を取り忘れるのか。馬鹿ではないか、とひとは言う。だが馬鹿を自覚している人間に馬鹿と言っても、なんの効果もないのだ。
 原因はわかっている。お釣りを取ることに専念してしまうのだ。専念する必要などまるでないのだが、私はなにかに捕らわれると他のことを忘れてしまうのである。横道にそれてしまうと、なかなか戻ってこない。
 今、思い出したのだが、品物を確保してお釣りを取り忘れたことも、これまた数知れないな。

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