086 96.12.30 「竹田さんの秘密」

 忘年会の三次会あたりで「これが私の生きる道」を熱唱したところ、すかさず竹田弘子さんの御指導があった。
「もっと投げやりに歌わなきゃだめよ。振りはもっとぐにゃぐにゃにね」
「こ、こうかな。ち~か~ごろ、わ」
「だめだめ。あんたはそのへんのセンスがないのよ」
「ぐすん」
「いい? こうやるのよ」
 竹田さんは、すくっと立ち上がった。模範演技を見せてくれるらしい。そろそろ四十というのにこの元気の良さはなんだろう。
 竹田さんは歌いだした。私は愕然とした。あのう、それは歌を歌っているのでしょうか。ただ酔っぱらいがくだを巻いているだけでは。子供がこの乱れた母の姿を見たらなんと思うでしょう。
 正直に感想を申し述べると、ひっぱたかれた。
「いててて」
 竹田さんは、がはははと笑う。「ま、世の中、こんなもんよ」
 どんなもんなのであろう。
「仏の顔も三度笠」竹田さんはきっぱりと言った。
 なんだろう。なんだかよくわからないが、まともに取り合っていると馬鹿を見るので、追及しない。私にも教訓を学ぶ能力はある。
 そのとき、私は床に落ちていたパスケースを発見した。拾い上げて開くと、運転免許証だった。竹田さんが妙に澄ました顔で写っている。
 先ほどの模範演技の際に落下したものだろう。
「竹田さん、これ落としたよ」
 返そうとした私は、凝固した。あれ。あれれれ。
「安宅弘子、って、誰?」
 免許証の氏名欄にはそう記されていた。どうなってるの?
「あら。バレちゃった?」竹田さんは小声で言う。「本名よ、本名。これが私の戸籍上の本名なのよ」
 私はまだ事態が呑み込めない。
「竹田弘子っていうのは、私の本当の名前なのよ」
 私の疑問は更に深まった。本名と本当の名前が違うというのはどういうことなのだろう。
「ちょっと、出るわよ、ここ」
 私は連れ出された。
 こぢんまりとした静かなバーに連れ込まれた。
「誰にも言わないでよ」
 竹田さんは、私が初めて目にするはにかんだ微笑を見せた。
 すべてを聴き、私は感動して困ってしまった。
 竹田弘子は、独身時には飯富弘子といった。安宅義幸と結婚し、戸籍上は安宅弘子となった。二人とも「おぶ」「あたか」という読みにくい苗字に飽き飽きしていた。そこで、戸籍や住民票は別として両者共に竹田を名乗ることにした。夫婦新姓というようなものであろうか。読みやすい名前ならばなんでもよかったので、仲人の姓をもらったという。
 安宅義幸の戸籍上の本名にはなにも変化はなかったが、婿に入ったと偽り、戸籍は戸籍として、今後は妻の実家の姓である竹田と呼ばれたいと周囲に申し渡した。
 飯富弘子は婚姻を機に転職し、戸籍上の本名安宅弘子にて就職したが、その際、自分は夫婦別姓の信奉者であると世間をたばかり、婚姻前の姓である竹田と呼ばれたいと周囲に申し渡した。
 実にどうも、夫婦揃って世間を欺いたという、あっぱれというしかない壮挙だ。
 竹田夫妻の夫婦別姓論に対する見解は、実に冷淡だ。記号として役割を果たしてはいないではないか、という。氏名の第一義は記号だ、分類区別のために存在するのだ、というのが、氏名に対する竹田夫妻の認識だ。夫婦の姓は同一であらねばならい、という。親子の姓が同一である必要はまったくない、という。子供たちは親の庇護を離れた瞬間に新たな姓を名乗ればよい、という。タテを断ち切りヨコを重視するのが竹田夫妻の姓史観だ。
 婚姻をなしたならば、新たな姓が誕生しなければならない。片方だけが変わるのは納得できない。姓が変わる痛みは双方が享受しなければならない。それが、竹田夫妻の婚姻観なのであった。
 私は呆然として、竹田さんの話を聴いていた。そんなことは考えたことがなかった。保守的な倫理に捕らわれた質問をしたほうがいいのかな、と思って、二、三、尋ねてみた。
 戸籍上の名前はどうなるのだろうか。なぜ安宅で統一しているのか。
「あのね、戸籍とか住民票なんてのはね、オカミが管理するためにつくってるだけなのよ。あっちの利便のためにあるの。でも、こっちにも利便はあるから、利用できるとこは利用しなくちゃ。税金とか、ぜんぜん違うんだから」
 墓はどうなるのだろう。夫婦別姓論者が持ち出す金科玉条だが。
「墓なんて残さないわよお。ばかばかしい。死んだら、なにもなくなるのよ。私のことを好きだったひとの記憶にちょっと残るだろうけど、それだけよ」
 織田信長であろうか。とにかく、私は竹田さんが死んでその墓がなかったとしても、頻繁に懐かしく思いだすだろう。それは間違いない。
 で、どこまでその主張にこだわるのだろう。
「こだわるわけ、ないじゃない。たかが記号のことで」
 はあ。
「私の名前が、安宅弘子だったら、あんた対応が変わるの?」
 ふうむ。変わらんな。
「でしょう?」
 なるほど。
「どうでもいいのよ、名前なんて。記号なんだから」
 竹田弘子は断言した。
 私達は乾杯した。

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