『雑文館』:98.09.02から99.04.13までの20本
九月十八日のことであった。
「なぜだ?」
私は声を荒げた。なんのキャンペーンもしていないではないか。本日をなんの日だと思っておるのだ。
「いかんのではないか」
私の独白を耳にしたとおぼしき主婦山下良子さん(仮名)が、気味悪そうに足早に遠去かっていった。たしかに、スーパーの野菜売り場で声を荒げる男は不気味ではあろう。すまぬ、山下良子さん。その人物に悪気はないのだ。単に頭が悪いだけなのだ。悪気はないが、悪頭なのだ。許してやってはくれまいか。
九月十八日といえば、「かいわれ大根の日」である。日本かいわれ協会が昭和六十年に制定したのである。O157騒ぎで白日の下に曝されたこのいかにも怪しげな団体は、冤罪に抗議する一方で、ひっそりとそのような記念日を決めちゃっておったのであった。
なんとかの日というのは決めたもん勝ちということになっていて、例えば七月六日はサラダ記念日なのだと宣言してはばからない俵万智さんなどが勝っている。いや、勝った負けたはどうでもよい。誰でも、なんとかの日は制定できる。とはいえ、シャカイに認知されねば無力であって、仮に私がここで、「この味がいいね」と儂が言ったから十月八日はかいわれ大根の日、と朗々と詠んでも駄目だめ駄目だめなのよ、なのである。先人には勝てない。泣く子と日本かいわれ協会には勝てないのである。走る取的と日本かいわれ協会にも勝てないのは、いうまでもない。
日本かいわれ協会である。日本というのは、かねて御承知のとおりこの列島に重複するくにの名称であるが、こういう大立者を冠されてはかなわない。やはり九月十八日こそがかいわれ大根の日なのである。
なんとかの日にはこじつけ的な由来があることになっていて、かいわれ大根の日も例外ではない。その日がかいわれ大根の日であることを知ったとき、私もどうこじつけたのかを考えた。まず思い浮かぶのが、過去に謂われを求めるセンである。かいわれの祖として著名な農学者皆割太郎博士の誕生日だとか、永禄年間に宣教師チッチョリーナが本邦にその種子を持ち込んだ日だとか、まあそういったようなアレである。が、私はかいわれ大根に身も心も捧げてはいるが、その来歴には疎いのであった。かいわれ見当がつかない。さっさと語呂合わせ方面へ逃亡を企てるのがよかろう。で、古語風に「くゎ・い・わ・れ」と読ませるのだろうとアタリをつけたが、そうではなかった。事実は、なんだかめちゃくちゃなのであった。
日本かいわれ協会の梶木英一さんが言うことには、まず、月と日が分かれる。九月の根拠は薄弱である。協会は昭和五十九年九月に発足し、その翌年の九月にかいわれ大根の日を制定した、ただそれだけなのであった。そんなことでいいのかっ、と憤らざるをえない。日に至っては、思わず絶句する着想が導入されている。「1」が茎だという。「8」は「∞」と読み替えるのだそうである。「1」の上に「∞」を乗せてかいわれ大根を想起させるというのである。イチかバチかの綱渡りである。いいのか。そんなことでいいのか、梶木英一さんっ。それで恥じないか、日本かいわれ協会っ。
よいのであろう。ま、そんなものだ。
それにつけても、この佳き日に、なんらの販促活動を行わないのはいかなることか。キャンペーンギャルなどを繰り出せといった無茶は言わない。せめて半額セール程度のハレを演出してはどうか。
「いかんのではないか」
スーパーの野菜売り場で、肩を落として力なくつぶやく私である。決意する私である。お約束通りに、新日本かいわれ協会の創立を決意する私である。新日本かいわれ協会は、「かいわれ大根の日」なんて制定しない。ここぞとばかりに、「かいわれ記念日」である。「この味がいいね」と儂が言ったから十月八日はかいわれ記念日、である。
どうですか、山下良子さん(仮名)、会員番号1番ということでひとつ手を打ちませんか。
打たねえか。
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10月29日が誕生日という人々は少なくないだろう。結婚記念日という人々もけして少なくはなかろう。少なかろうが、初めて殺人を犯した記念日としている人もまたいるだろう。稀有であろうが、初めて地球外の生命体と愛をかわした日であると主張してやまない人もいるに違いない。悲喜こもごもなのが10月29日である。
そんな10月29日であるが、東京都市圏交通実態調査というものの実施日であったりもするのだから、なかなかどうして10月29日は侮れない。10月29日の面目躍如といったところであろうか。これだから10月29日ファンはやめられない。
ある日、私は「住民基本台帳から無作為に抽出」されてしまったのであった。なんということをされるのだ。抽出してしまったのは、茨城県の東京都市圏交通実態調査実施本部である。なんということをするのだ。宝くじには当たらないが、こういったどうでもいい調査の対象には選ばれてしまう不遇な私なのではあった。
実施本部は「将来の総合的な交通計画を策定するため」「東京都市圏」「の各都県市と協力して」「人の動きの実態について調査することにな」ったと申し述べている。いかにも本部らしさを漂わせる文言である。本部に対する期待に背かない立派な本部であるといえよう。本部とはかくありたいものである。ちなみに、「ほんぶ」である。本部耕平は「もとべこうへい」といって私の高校時代の級友であるが、この「もとべ」の話ではない。ほんぶである。茨城県の東京都市圏交通実態調査実施本部なのである。この本部が「人の動きの実態」を調査する、といってきかないのである。総務庁から承認番号21220を取っちゃったんだからお願いだよ、といってきかないのである。
わかったわかった。しょうがねえなあ。もう、予算組んじゃったんだろ。調査して消化しないと来年度の予算がつかないんだろ。わかったわかった。協力するよ。こう見えても、私は情に訴えられると嫌とは言えんのだ。
「人の動きの実態」とはいえ、「政府の転覆を企む不穏な動き」といったものではない。「みなさまが日頃の生活の中で、鉄道・バス・自動車などをどのように使われておられるか、また徒歩の状況がどうかなど」を調査したい、そのように本部は語るのであった。交通の観点から市井のひとびとの日常を暴きたい、と、このように申し述べているのであった。
「徒歩の状況」である。本部の言語感覚は、そういう物凄いことになっている。「遅刻しそうでいつも走っている、これを徒歩と呼んで差し支えないか」とか「毎朝一時間ほど散歩をする習慣があるのだが、この移動は交通調査に加味すべきものであるか」とか「木曜日は病院の日でねえ。一キロほどを一時間もかけてゆっくり歩いていくんだけどねえ、これも正直に答えなきゃいかんかねえ、由紀子さんや」「そうですねえ、どうしましょうかねえ、お義母さん」などと、本部は人心を不安に陥れてやまないのであった。
私も不安に陥れられた一派である。私の前に、二枚の調査票がある。いったい、私はこの調査票にちゃんと答えられるだろうか。不安である。あの煩雑な国勢調査のほうがまだしも簡単である。なにをどう答えたらよいのか、そこに辿り着くまでに異様に理解力を求める調査票なのであった。不安である。本部の期待通りに答えられる世帯はどれほどあるのだろう。きっと、私はまともに答えられないだろう。だめだ。自信がない。もう、おれはだめだ。何を訊かれているのか、さっぱりわからない。集計しやすいようにという着想に引きずられるばかりで、答えやすいようにという視点が見事に欠落しているのではないか。そうした邪推を、ついつい抱いてしまいそうになる。いかんいかん、本部を信じるんだ。って、無駄な葛藤を弄んでいる場合ではなかった。
「施設の場所は」って、いきなり問い掛けられて戸惑わないひとはいるのだろうか。この設問はひっきりなしに続くのだが、その最初の設問の場合、ほとんどすべてのひとがなすべき回答は「自宅」なのである。本部本部、応答せよ。「自宅」を「施設」と考えるひとはいないんじゃないか本部。
そしてまた、「施設」から「施設」まで移動する過程を、本部は「トリップ」と呼ぶのであった。ある種のオクスリを服用した結果ある一線を越えるのがトリップであるかとも思えるが、本部はそうは考えていないのであった。ある地点からある地点への移動こそが本部が考える「トリップ」である。単に「移動過程」でいいんじゃないかとも思えるが、本部は「トリップ」に固執してやまないのであった。どうもそのあたりの執拗なこだわりが腑に落ちないが、本部には本部なりの深謀遠慮があるのだろう。よくわからないが、がんばれ本部。
私もがんばらねばならない。10月29日全日の移動の経過を克明に本部に報告せねばならないのである。とある一日における調査対象のサンプルを、本部は所望しているのであった。私の場合は、10月29日こそがそのDデイというかXデイというかテヤンデイなのであったべらぼうめ。
調査票を携えて我が庵を訪うた調査員は、「10月29日の行動をその調査票に記せ」といった趣旨の発言をなすのであった。
「あ~、その日はね、シャヨ~で新潟に行ってるの、前の晩から」
突発的社用によって、新潟方面で観光まがいの所業を致す予定の私なのであった。非常にイレギュラーなシゴトである。
「はあ」
「それじゃ、目的のサンプルにならないでしょ」
「そうですね~」
「どうしましょ」
「困りましたね~」
「翌日の30日は、日常的というかごくごく当たり前の一日を過ごすんだけど」
一日くらいずれたってどうってことないよね、と言ったつもりである。調査員はすかさず乗ってきた。
「あ、それで手を打ちましょう」
「打ちますか」
「打ちましょう」
麗しきかなオトナの知恵。無作為の抽出に甘んじているばかりの私ではないのだ。無作為に抽出された者には無作為に抽出された者なりの意地があるのだぞ本部。
しかししょせんは猿知恵であって、いくら読んでも記入の仕方を理解できない私なのであった。10月31日には回収に来るというのだが、それまでになんとかなるものであろうか。いっそ「わかりませんでした(号泣)」と大書きして返却してやろうかとも思うが、それも悔しい。
今のところ、シゴトを休んで一歩も外へ出ないという案が有力な対応策となっている。やっぱりこれしかないだろう。
それにつけても、本部耕平は元気だろうか。
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「で、この花黒下って交差点を右折な」
「花黒下。これ、なんて読むの」
「え、知らないよ。引っ越したばかりなんだからわかんないよ」
「引っ越したばかりだって、そのくらい知らなきゃ。はなぐろした、かなあ」
「かくろげ、かもしれんぞ」
「はなくろしも、じゃないかな」
「かぐろうげ、も捨て難いな」
「わかんないなあ」
「うむ、わからん」
「ま、とにかく、はなぐろした又はかくろげ或いははなくろしも若しくはかぐろうげ交差点を左折するのね」
「違うってば。はなぐろした又はかくろげ或いははなくろしも若しくはかぐろうげ交差点を右折だ」
「めんどくさいなあ」
「そうだな」
「それじゃ、謎の交差点と呼ぶことにしましょう」
「うむ。そうしよう」
「で、謎の交差点を右折して、そのあとはどう行くの」
「とりあえず、しばらくは道なりにまっすぐだ。この早間川を渡ったところを右折だ」
「また読めないじゃない。はやまがわ、かな」
「そうまがわ、かも」
「はやはざまがわ、のセンも捨て難いわね」
「そうかんがわ、だったらヤだな」
「どうして、ヤなの」
「なんとなく」
「そっか。で、このはやまがわ又はそうまがわ或いははやはざまがわ若しくはそうかんがわを渡ったら右折ね」
「またまためんどくさいな」
「不可解な川、ということではどう」
「異議はない」
「ええと、謎の交差点を右折して、不可解な川を渡ったらまた右折ね」
「いかにも」
「なんだかたいへんなことになってきたわね」
「やむをえまい。次は左手に、この目原田郵便局が見えてくるからその先を左折するんだ」
「めはらだ、かな」
「もくげんだ、ではないか」
「めばらた、かもね」
「妙な郵便局ってことでどうか」
「そうしましょう。謎の交差点を右折して、不可解な川を渡ったらまた右折して、妙な郵便局の先を左折ね」
「そういうことになるな」
「疲れてきたわ」
「すまんが、まだ先がある。しばらく行くと、右側にこの風畑駐在所があるから、その手前の路地に入る」
「かぜばたけ駐在所、かな。ああ、そうね。不思議な駐在所ってことで」
「手を打とう」
「不思議な駐在所の手前の路地を入るのね」
「そうそう。そこが新居」
「整理するわよ。謎の交差点を右折して、不可解な川を渡ったら左折して、妙な郵便局の先を右折して、右手に見える不思議な駐在所の手前の路地を入るのね」
「違うだろ。謎の交差点を右折して、不可解な川を渡ったらまた右折して、妙な郵便局の先を左折して、右手に見える不思議な駐在所の手前の路地を入るの」
「え、なになに、謎の郵便局を越えたら左折で、右手の不可解な川を、あ~、もう。もう、もう」
「だ~か~ら~。謎の交差点を右折して、不可解な川を渡ったらまた右折して、妙な郵便局の先を左折して、右手に見える不思議な駐在所の手前の路地を入るんだ」
「はぁ。私達はどこから来てどこまで行くのかしら」
「いきなり哲学者になってどうする」
「なってないわよ」
「あ。そ」
「それでね。そうまでして辿り着いた私に、いったい何が待っているの」
「ん~」
「私を、何が待ってるの」
「……俺」
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眠るかなあ、こんなとこで。
その車の傍らに佇み、私は嘆息した。
眠っちゃったのだから、しょうがない。私は運転席の窓をノックして、運転者の覚醒を促した。彼は、信号待ちのわずかな時の狭間で、あろうことか寝入ってしまったのである。
信号が青になっても、前のセダンが発進しない。二車線道路であり、対向車線は塞がっている。追い越そうにも、追い越せない。何度かクラクションを鳴らすが、反応がない。そのうちに、後続の車からも苛立ちを滲ませたクラクションが鳴り始めた。となれば、直後の車を運転する者が様子を伺いに出向くのがモノゴトの道理であろう。しょうがねえなあ、まったくもう。といった顛末を経て、私は車道上で、停止した車の窓をノックするはめに陥ったのである。
が、彼は起きない。角力取りかと思わせる巨体をシートに委ね、角刈りの頭をヘッドレストにもたせかけて、熟睡の態である。
「もしもし」ううむ、もしもしは変かな。「起きてくださいよ」もしかして、死んじゃってるのかな。「こんなとこで、眠っちゃ困りますよ」突然の心臓発作でもはや事切れているんだったら、失礼な言い草かな。「もしもし、もしも~し」やっぱり、もしもしは変かな。
誰かに似てるなあ、と思いながら、私はノックを続けた。
角である。ヤクルト・スワローズにいた角に似ているのであった。該当する角は二人いる。丸顔の角と角顔の角である。気持ちよさそうに寝入っているこの角は、セカンドを死守した眉毛の濃い丸顔の角ではない。投手のときにはえげつなく打者の内角を攻め、投手コーチのときにはえげつなく打者の内角を攻めさせた角に酷似しているのであった。角顔の角である。芸能プロダクションに籍を置いている元「巨人軍」のあの角に、きわめて似ている顔立ちなのであった。違いはといえば、その巨体である。この角さんの首の下には、角界が誇る雄姿とでも称すべきソップ型の肉体がぶらさがっているのであった。
いきなり、角さんの目がぱっと開いた。自分が置かれている状況を呑み込めないらしい。口角のよだれを拭いながら角張った顔を左右に振り、周囲を見回している。瞬時ではあるが、よほど深い眠りに落ちていたもののようだ。私は、車影がいっさいない前方の車道を指し示し、角さんの状況把握を促した。ようやくわかったらしい。ぺこぺことお辞儀をしたかと思うと、やにわに急発進した。
ルーフに手を掛けていた私は危うく転倒しそうになった。おいおい。なにもそんなに慌てなくても。まあ、仕方がない。誰だって睡魔に襲われることがある。私は車に戻り、角さんのセダンに続いた。
依然として睡魔に絡めとられているらしく、角さんは蛇行している。斜めに走るな、角さん。香車になるんだ。角になってる場合じゃないんだ。
悪いことに、追い越す機会がない。更に悪いことに、私が左折すべき角を角さんも左折するのであった。半ば眠っているくせに、滞りなく角を曲がる角さんなのであった。道が変わっても、やはり追い越せる状況は訪れない。カーブの多い道路で、対向車線に出て追い越すには死角が多すぎる。車間距離を広くとるくらいしか私には対応のしようがなかった。
その恰幅から推察するに、その属する社会においては一角の人物なのであろう。いかにしても角には置けない重要な人材なのであろう。その社会で頭角を現すために、普段から睡眠時間を充足できない生活を送っているのであろう。同輩と角突き合わせ角逐する過酷な日常なのかもしれない。だからといって、運転中に眠ってしまわれては困るのである。現に、私は困っているのである。
角さんにしても、万が一のことがあっては困るだろう。今現在の角さんは、交通事故ときわめて近いところにいる。ほんの少しの操作ミスが、あっけない死を招きかねない。角番である。あとがない。その角膜をぜひともこの機会に役立てたいという悲願があるのかもしれないが、悲しむひともいるだろう。路肩に車を停めてはどうか。そうして、ものの数分も眠ってみてはどうか。しばしの休息に疲労した我が身を委ねてはどうか。
差し出がましいとは思ったが、赤信号で停止した折に、私は車を降り、再び角さんの車の窓をノックした。
角さんは目をぱちくりさせながら、窓を開けた。
「失礼ですが」私は、角さんの運転がいかに危険な状況を呈しているかをいささか大袈裟に述べた。
角が立たないように慎重に言葉を選んだつもりだったが、角さんは憤慨してしまった。目を三角にして、角を出した。
「余計なお世話だっ」
ごもっともである。余計なお世話そのものである。他ならない。いかにもである。これ以上の余計なお世話はない。それはこちらも重々承知している。
が、角を立てるのは意外に効果的なのではないかと気づき、私は更に余計なお世話を申し述べてみた。御多忙中であろうが、暫時御休憩をむさぼってみては如何か。
いや、怒った怒った。角さんは角突き立てて、怒るの怒らないの、怒れば怒るとき怒った。
「すごく余計なお世話なんだよっ」
寝覚めが悪いのだろうか。角さんの心底より湧き上がった極限の魂の発露なのであった。いくら眠くたって、角さんは角さんなのであった。更に、口を極めて呪詛をまくしたてる角さんなのであった。役小角の末裔なのであろうか。
ごもっともである。すごく余計なお世話そのものである。すごいに他ならない。いかにもすごいのである。これ以上のすごく余計なお世話はない。それはこちらも、すごく重々承知している。
こちらとしてみれば、角さんが自分を取り戻してごくごく当たり前の運転をして頂ければ、それでよい。睡魔ときっぱりと訣別して安全運転を励行する角さんこそが求められているのである。己を取り戻したいつもの角さんこそが期待されているのである。ここまで怒れば、目も覚めるだろう。
「こりゃまた、申し訳ありませんです」
謝罪と理解されうる言葉を述べつつ、私はすごすごと退き下がった。
信号が青に変わり、我々はまた道路交通法に基づく業務に戻った。
それでも角さんは、やっぱり眠いようであった。不意にふらふらと軌道を乱したかと思うと、急に減速し、路肩に車を寄せた。ブロック塀にごりごりと車体を擦り付けながら、ようやく停車した。
危うく躱して、追い抜いた。角さんに怪我はないようである。バックミラーに映る角さんは元気そうであった。車を出て自損事故の実態を眺めやり、大仰に頭を抱えてうずくまっている。死ななかったのだから、よいではないか。
困ったのは、その後、睡魔が私に乗り移ったことであった。
いやあ、間一髪ではあった。
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「いるか?」
森崎某というのは私の友人であり、数多くの欠点を有していることでこの界隈では知らぬ者はないが、私の部屋に勝手にずかずかとあがりこんでくる性癖は、特にいかがなものかと思われる。いるよ、と返事をする暇もない。あまつさえ、なんの承諾も得ずに冷蔵庫から缶ビールを取り出す悪癖は、更にいかがなものかと思えてならない。
「今夜は、お前を諌めに来た」
ぷしり、と森崎某は缶を開けた。
「氷雨?」
と、一応かるくボケてみた。
「おいおい。日野美歌じゃないって」ぐびり。「あ、しまった。つい反射的にオーソドックスなツッコミをしてしまった。反省」ぐびり。
反省するほどのことなのであろうか。
「だからな、諌めに来たのだ。諌言だ」
「ほほう」
私もついに諌められるときが来たか。年貢の諌め時というやつか。おいおい、違うって。などと、ひとり内心で漫談を繰り広げていると、森崎某は演技を過剰に滲ませた沈痛な面持ちというものをつくるのであった。
「最近、お前についてよからぬ噂を聞いた」
と、森崎某は語り始めるのであった。こりゃまた諌言の常道的イントロである。よからぬ噂、である。なにかたいへんに甘美な響きである。しかし、どの噂だろう。多すぎて見当がつかない。
「こないだ、お前は新潟に行ったな」
「行った」
「そのしばらく前には、函館に行ったな」
「行った」
「そのまたしばらく前には、金沢に行ったな」
「それは行ってないぞ」
「ふうむ。正直に答えておるようだな。感心かんしん」
森崎某は満足気ににんまりと笑みを浮かべるのであった。なんだろう。訊問しているのであろうか。諌言するんじゃなかったのか。
「旅先で宴会があったはずだ。新鮮な魚介が並んだと聞いている」
聞いている、ってなあ。
「いずれも、食膳にカニの姿があったはずだ」
「あったなあ」
「たいへん大きなカニがまるごと一匹、その足先が食膳をはみだすほどの威容を放っていたというではないか」
「そうだったかな」
いちいちそんなことは憶えちゃいないのであるが、確かにカニはあった。人様のカネで飲み食いしているので、そういうものも現れるのである。身銭を切っていたなら金輪際カニといったものは私の目の前には出現しない。
「そうだったのだ。すでに調べがついておるのだ」
と、森崎某は断言するのであった。調べたのかあ。暇だなあ。まだ諌言しないのかなあ。ほんとは讒言したいんじゃないかなあ。
「しかるに貴様は、そのカニにいっさい手をつけなかったというではないか」
「いかにも」
「イカじゃない。カニだ」
「かににも」
「なぜだ」
森崎某は詰問するのであった。なぜだ、と訊かれても、答えようがない。
「なぜ食わなかったかと訊いている」
なおも森崎某は食い下がるのであった。
「だって、オレがカニを食わないの、おまえ知ってるだろ」
「知っているが、嫌いなわけではないではないか」
「そりゃそうだが」
「だったら、食え」
「他にうまそうなものがあったしなあ。なにもわざわざカニを食うこともないかなあ、と」
「そこがいかん」
おお。諌言か。これが諌言なのか。
「いかん、と決めつけられてもなあ。カニには興味ないし」
「そこがいかんと言っておるのだあっ」
そんな大声ださなくても。
「それで世間様にどう顔向けするつもりだ」
「大袈裟な話になってきたな。しょうがないだろ、好きじゃないんだから」
「ほれほれ、そこだ、そこがいかん。好き嫌いはない、好きなものと好きじゃないものしかない、そういうおまえの態度がいかん、と諌めておるのだ」
諌められておるのであった。
「そういう態度はまずいのか」
「まずい。よくない。いかん」
「そうなのか」
「そうなのだ」
よくわからん。嫌うのは、疲れるではないか。興味のないものに注ぐ無駄なエネルギーは持ち合わせてはいないのだが。
「おまえ、最近カニ食ってないのか」
私としては、そう訊かざるをえない。森崎某の執拗さは度を越えている。
またもや勝手に持ち出した二本目の缶ビールを開けながら、森崎某はうなずくのであった。
「もちろんそういう嫉妬が根底にあるのだが、いまはひとりの友垣として、貴様の行く末を憂慮していることになっているのだから、その話はやめろ」ぐびり。
正直、と呼ぶにはいささか躊躇せざるをえないひたむきな反応である。屈折が屈折を重ねて、直線となった瞬間であったのかもしれない。
「やめろというならしないが、それでオレはどうすればよいのだ」
「俺のありがたい諌言を受けて反省すればよいのだ」
「オレが悪かった」
「こらこら、そんなにすぐに反省してはいかん。ドラマがないではないか。せっかくひとが気持ちよく諌めておるというのに、その態度はなんだ」
「どうすりゃいいのよオレは」
「俺にカニを奢れ」
それが森崎某の結論のようであった。
「日野美歌は、今頃どうしてるのかな」
私は、はぐらかしてみた。森崎某は、はぐらかされなかった。
「うまいカニを食っているのだ。そうに決まっている。だから、奢れ」
「奢れる者は久しからず、と言うが」
「言わない」
日野美歌さん、食ってないよね、うまいカニ。
なぜなら、全てのカニはうまくもまずくもないのだから。
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「パッパラ・パラパパ・ッパッパ・パフ、かなあオレは」
「タメがあるね。深いねどうも」
「とりあえずパ派としておこう」
「パ派が、やっぱり多数派ということになろうか」
「いや、セ・リーグのほうがまだまだ人気があるんじゃないか」
「ほどよくボケるね」
「すまんすまん」
笑点のテーマである。テーマといっても主題のことではない。テーマ音楽である。あまたの耳に馴染み深いあの笑点のテーマが話題となっている。しょせんは居酒屋の片隅で俎上に乗った話柄のひとつに過ぎない。そして、我々は酒席では主題などといった大がかりなものには取り組まないのである。素面だったら、なおさら取り組まないが。
「オレもパ派なんだけど、こうだな。パンパパ・ンパパパ・ンッパンパン・パフ」
「パン派の登場だな」
「ドンパン節の影響がうかがえるな」
「禿頭の血筋ではないか」
「余計なお世話だ」
「すまんすまん」
笑点のテーマを口に出して歌うとき、いかなる音に置き換えて歌うか、といったきわめてどうでもいい問題に、我々は取り組んでいるのであった。この場合の音とは、文字と言い換えてもいいだろう。何の気なしに口に出して歌った歌をあえて表記してみると、人それぞれなのではないか。オレはこうだが、みんなはどうだ、といった成り行きなのであった。
「オレのも影響が歴然としてるよ。バンババ・ババババ・バンバンバン・パフ」
「バン派の台頭か」
「歯、磨けよ。と、思わず合いの手を入れちゃうね」
「世代がばれるね」
「すまんすまん」
はて。オレはどう歌ってたかな。私は当惑した。歌った覚えはあるかと問われれば、あると答えるだろう。過去のどこかで、戯れに歌っているはずである。この惑星のどこかで、私は笑点のテーマを歌ったはずである。そのとき私は、いったいどのように発声したのであろうか。失った過去を取り戻そうとする私の懊悩に関わりなく進んでいく会話に、いささか狼狽する私であった。その場の流れで告白は席順となっており、幸い私は最後の六番目なのだが、なんとしても思い出せない。
「オレの場合は、こう。タッタタ・スタラタ・スッタッタ・パフ」
「タだけに頼らずスの援軍を仰いでいるのが新味だな」
「スタ派が出現したか」
「タタっていうのは、別の意味で多数派だな」
「文字でボケるなよ」
「久夕派ではどうか」
「だから、やめろと」
「すまんすまん」
こう考えてはどうだろうか。私はいつも異なる歌い方をしてきた、と。私は、これまでのちっぽけな半生において、笑点のテーマをどう歌うかなどと思い悩んだことはなかったのである。口から出任せに、場当たり的に、その場限りの笑点のテーマを口ずさんできたのである。と、そんな風に考えてみると、いかにもそれは私の行き当たりばったりの来し方によく似合う。うむ。そうだったのだ。私は何度か笑点のテーマを歌いながらようやくここまで歩いて来たが、歌ったのはすべて異なる笑点のテーマだったのだ。だとすれば、この先いかなる笑点のテーマを歌おうとも、それは私に許されたささやかな自由に他ならない。そうではないか。
「チャッチャチャ・チャチャチャチャ・ウンチャッチャ・パフ、ってのはどうだ」
「チャ派も正統的な感があるな」
「おもちゃのチャチャチャ、か」
「歳がばれるね。せめて、ニッポン・チャチャチャ、と言えぬものか」
「すまんすまん」
さて、ついに私の出番が来たようだ。私は、いったいどんな笑点のテーマを歌うのだろう。私は心を無にした。虚心坦懐に色即是空に、私は笑点のテーマを朗々と詠じた。つもりだったが、雑念だらけの心底が露呈したのか、思わず声が裏返ってしまった。
「スッチャカ・スチャラカ・スッチャンチャン・パフ」
「おっと、これはまた色彩感があふれてるなあ」
「意味が汲み取れるのがいささか邪道か」
「すまんすまん」
私は謝罪し、いや実はこういうことなんだよと、これまでの懊悩を告白した。実際のところ、そのように歌うとは自分でも思っていなかったのだ、と。そして歌ってみたところ、どうやら最前耳にした歌い方に引きずられた影響を受けたようだ、と。
「ほほう。特に歌い方など決めてはいないんじゃないかとの見解か」
「うなずけるものはあるな」
「そうだろ」
私はいささか自信を得て、試しにもう一度歌ってみてくれと、最初に歌ったパ派に水を向けた。
「ん、もう一回か。スッパパ・パラパパ・スッパンパン・パフ。あれま」
「ウメ星殿下のようだな」
「ふむ」
「ウメ星殿下は古かったな」
「すまんすまん」
そういうことなんだよ、と私は申し述べた。その前に聞いたものに引きずられる傾向は否定できないのではないか、と。
「それはあるだろうなあ。笑点のテーマを私はこう歌うという決意を秘めて生きているひとはいないもんなあ」
「いたら怖いな」
「いや、円楽師匠は決めている気がする」
「歌丸師匠も怪しいな」
と、ひとしきり落語家評が続き、テーマに関する話は終わったのかと思いきや、再び戻ってくるのだから酒席の話題は気まぐれである。
「なぜ、ア段なのかな」
「なるほど。慧眼ではあるな」
「パ、バ、タ、チャ。ぜんぶア段だな」
早速その他の各段を、めいめいがてんでんばらばらに歌った。にわかに、居酒屋の片隅にざわめきが満ちた。キッキキ・ツペペペ・ヲンヲンヲン・パフ。傍迷惑な実証主義集団である。いきなりその情景に出くわしたひとがいたら驚くに違いない、と考えながら、私もヌンヌヌ・ヌルヌル・ヌンヌルヌン・パフ、などと歌ってみた。
「歌いやすいのは、やっぱりア段だな。見事に仇を討ったと言うべきか」
「偉い奴だったんだ、ア段。徒にはできんな」
「だてにア段をやってないな。婀娜な姿の洗い髪」
「天晴れ、ア段の射手。ア段の本懐、もって瞑すべし」
「こらこら、なに言ってるのかわからんぞ」
暫時、ア段を賞賛する声が相次いだ。しかし冷静な奴がひとりくらいはいるもので、沈着な物言いがついた。
「待て待て。やみくもにア段を賞揚するのもいかがなものか。ア段だったらなんでもいいのか」
「ふむふむ。では、試しに。ランララ・ララララ・ランランラン・パフ。ううむ、ぱっとしないな」
「なんと、ラが破れ去ったか。オリーブの首飾り界では揺るぎない地位を築いた大立者であったが」
「どんな界だよ」
実証主義集団はまたしても、それぞれが思い思いに歌った。アッアア・ナナナナ・ヤンヤンヤン・パフ、などと騒がしい。傍迷惑なことを実証しているようにも見受けられることであろう。
「結論が出たな」
「出た出た」
「破裂音である」
「いかにも。ア段の破裂音である」
「笑点のテーマは、ア段の破裂音で歌われるべきものだったのだ」
「見事な結論だな」
「感慨無量である」
「いやあ、実りあるひとときであったな」
物悲しい実りである。
さあ、もうこれで終わっただろう、と思いきや、実はまだ続きがあったので、笑点のテーマの奥深さには驚くばかりの私であった。
「さて、パフだが」
「ついに来たか。パフについて語り合う時が来たのか」
「その前をどう歌おうと、パフはパフであった。他の何ものにも代え難かった。これはいかなることか」
「なぜ我々は、あの奇妙なるも馴染み深い音を、パフと発声表記するのか」
わかった。よくわかった。実を言えば、私もパフについては、かねがね一言申し述べたい儀があったのだ。こうなったら、腰を据えて語り合おうではないか。
「我々はまず、芸能人水泳大会を想起しなければならないだろう」
そうして、我々はパフのなんたるかを、終電の時刻まで熱く語り合ったのであった。
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いかがなものか、と思うのである。思ったのは私である。思われてしまったのは、「甘塩秋さけ(大切)」二百円也である。鮭の切り身が二切れ入ったパックである。昨日、近所のスーパー大黒屋で購入したものである。
さて、ホイル焼きにでもするかいな。と、冷蔵庫から取り出したところで、私は驚いた。パックに貼られたステッカーを何気なく見やった私は、その商品名が持つ奇怪さに気づいてしまったのである。「甘塩秋さけ(大切)」である。なんだこれは。どうなっておるのだ。
言うに事欠いて、た、大切ときたか。たいせつ、などと、自ら名乗るか。
私は惑乱した。
「大切なことは、そう、ここに~ある~」
などと、ハヤリ歌を思わず口ずさんでしまったほどである。
たとえば、「エバラ・焼き肉のたれ(大切)」などという商品は存在し得ない。「トヨタ・カローラ(大切)」なども同様である。およそ商品たるもの、自らを(大切)と主張したりはしないのである。「大切にしてね」などと仰るのは霊長類ヒト科の女性の一部くらいであろうが、もっともこれは商品ではない。自らを大切と称しながら恬淡として恥じない商品は、「甘塩秋さけ(大切)」をもって嚆矢となす。
もちろん、たいせつと読むのではない。しょせんは鮭の切り身である。おおぎり、なのであろう。当スーパー大黒屋は、ちょいと大きめに切ってみました、大切りなんです、うふふふふ、と言っているだけなのであろう。笑止なり、甘塩秋さけ。
だったら、送り仮名をちゃんとつけんかい。と、いきりたってみたりする私である。なぜ、り、を略すか。り、は大切である。それがモノゴトの理ではないのか。いや、大切れ、かもしれぬ。れ、も大切である。お出かけですか、と問い掛けながら路上を掃除するためには、それはもう大切である。いやいや、大切る、も捨て難い。わけはないか。
大切りとはいっても、さほど大きな切り身ではない。鮭の図体など、高が知れている。スーパー大黒屋が訴えんとしているところは、つまるところその切断の思いっきりのよさであり、正確を期すならば、むしろ厚切りが正しい。ならば、なぜ、厚切りと明記しないのか。もしかすると、大喜利の洒落なのだろうか。甘塩秋さけと掛けてなんと解く、と問い掛けておるのであろうか。そうかもしれぬ。ふむふむ。甘塩秋さけと掛けて、完全無欠のロックンローラーと解きます、などと不毛な妄想を抱いているうちに、やがて鮭のホイル焼きができあがった。
やっぱり、大切とくればダイキリが似合うのかもしれぬ。が、そんな用意はない。本日はシャブリの出番なのであった。大雪山は北海道にあるが、大切なシャブリは、そう、ここにあるのである。私は、鮭とともに堪能した。
ほろ酔い加減でつらつら考えるに、スーパー大黒屋にはスーパー大黒屋なりの内規というか不文律というか社長の鶴の一声というか、なにかそういった余人には伺い知れない社外秘の法則があるのではないか。大切りでも厚切りでもなく、大切。魚の切り身を厚く切ったら、(大切)。括弧、大切。
目覚めよ、スーパー大黒屋。そろそろ我にかえる頃合いではないか。いかがなものか、と思っているのは、私ひとりではないはずだ。大切なことは、いったいどこにあるか私にもわからないが、少なくともそこにはないだろう。
頑張れ、スーパー大黒屋。負けるな、僕らの大黒屋。世界でいちばん、君を愛してはいないが。
ところで、そのココロは、別にないから、気にしてはいかん。
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私は、売られた鯨は買うタイプである。こらえて生きるもオトコなら、売られた鯨を買うのもオトコなのである。ベーコンなどは特に好んでいる。細く刻んだやつがいいね。好物である。そういう私なので、あの複雑きわまりない捕鯨問題についてはなんら語る資格を持たない。が、それでもこの惹句はどうかと思うのである。
「76万頭いるんだよ!」
とあるスーパーの鮮魚売場で入手したのである。私が購入した商品そのものは、鯨の切り身122グラム1074円といったようなパックである。たいへんに高価であり、いつもの私だったら買わないが、折良くというか折悪しくというか、フトコロの月例バイオリズムが頂点に達していた。いわゆる給料日直後のハレの状態である。瞬間の金満家(当人比)と称される現象であり、眼鏡を外しておしぼりで顔を拭いながら「買っちゃうよ、がつんと」などとほざいて、買っちゃったのである。
鯨である。もはやワカモノではないひとびとにとっては「給食」と分かち難い記憶を伴う、あの鯨肉である。存在価値というものが或る時いきなり逆転した、あの鯨肉である。懐かしい記憶の中では極めて安価なのに昨今では異常に高価な、あの鯨である。そういうものの購入の運びに至る私なのであった。
パックを覆うラップにステッカーが貼られている。そのステッカーこそが、「76万頭いるんだよ!」と熱く語りかけているのであった。その他、このステッカーに認められるフレーズは、「南氷洋」「調査捕鯨」「ミンク鯨」などである。
それにつけても、「76万頭いるんだよ!」である。そうはいっても、「76万頭いるんだよ!」である。なにがなんだか、「76万頭いるんだよ!」である。いったいぜんたい、どうなっているのであろうか。
これほど穴だらけというか脇が甘いというか隙だらけというか触れなば落ちんといったような惹句は、これはちょっと他にないのではないか。いかがなものか指数98の離れ技である。
ここまで融通無碍な態度で迫られると、逆に「なにか罠でもあるのではないか」と考えてしまうが、あえてそういう効果を狙った惹句なのかもしれない。とはいっても、保護の観点に立脚する人はすかさず目くじらを立てて指摘することであろう。76万頭いるからといって漁獲の対象としていいのか、と。私は酒肴の観点に立脚する者であるが、その私ですらも同様の指摘をなしたい。その文脈は根本的に杜撰すぎるんじゃないですか。
ゴジラは1頭しかいないけどクジラは76万頭もいるんだよ! とでも言いたいのであろうか。割合の寡少を強調してお目溢しを願う論理はかなり危険で、この発想を押し進めていくととんでもなく悲惨な結論が導かれることは歴史が立証するところではなかったのであろうか。だいたい、この惹句の初稿は「76万頭もいるんだよ!」であったに決まっているのである。「この“も”は、ちょっとアレじゃないすか」「ちょっとアレか」「まずいっす、保護の人を刺激しちゃいかんっす」「そうかそうか、じゃあ、“も”をとっちゃおう」そのような経過で“も”は、喪に服してしまったのである。根拠はないけど、そうに決まっているのである。
ま、鯨を食いながらそんなことほざいても説得力ないすけどね。もぐもぐ。
76万頭がいかなる数字なのかもよくわからない。ミンク鯨だけなのか、鯨全般なのか、海で暮らす哺乳類全般なのか。洋画宣伝の法則を鑑みると最後のやつが怪しいが、やっぱりよくわからない。いったいなにが76万頭もいるというのであろう。76万人の市となると近隣の市町村を併合して政令指定都市にならんとする規模だが、76万頭のなにかは、いったいなにがどうなっているのであろう。
ステッカーは、なんらのヒントも与えてくれないのであった。南氷洋の冷ややかさで、澄ましているばかりである。調査捕鯨などという曖昧模糊としたことばを謳って平然としているくらいだから、やはり一筋縄ではいかないのであろう。妥協に妥協を重ねたあげくに誕生したこのことばは照れくさそうに使われるものかと思っていたのだが、どうもそうではないらしい。調査捕鯨と標榜すれば済むだろうという発想は、どうやら存在するらしい。ううむ。なんだかよくわからないが、困ってしまう私なのであった。もうちょっと恥ずかしそうにしてたほうがいいんじゃないかな、などと思ってみたりみなかったり。
食いながら語っても、ないですけどね説得力。もぐもぐ。
そんなこんなでミンク鯨をむさぼり食っているのであるが、思えば、どんな種かわかっていて食する鯨は初めてだなあ。もぐもぐ。
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なかなか気さくなおにいさんなのであった。奇策ではない。策を弄するような人物には、とても見えない。コンビニエンスストアの店員としては、過剰に己を前面に押し出すきらいがあるようにも思えるが、それがたとえば子供好きという一面であるのならば、それはそれで微笑ましいことではないか。
幼稚園児とおぼしき女の子が、カウンターに身をよじあげるように右手を差し伸べて、百円玉を彼に手渡す。彼女の左手にはアイスクリームが握られている。するとおにいさんは、アイスクリームなんかよりもっと甘い声で言い募るのであった。
「は~い。84円で~す。100円、いただきました~。おつりは16円ですね~」
腰をかがめてできるかぎり目線を女の子と合わせるようにしながら、おにいさんは邪気ってそれなあにといったような無類のにこにこ顔で、彼女から百円玉を受け取るのであった。
「16円ください~。おつり~。16円で~す」
女の子もつられて、ぴょんぴょん飛び跳ねながら無邪気な声をあげる。
彼女の背後で順番を待つ私も思わず顔がほころんでしまうやりとりである。ああ、こんなとこにも幸せはあったのだ。ほのぼのした思いがひたひたと身を包み、なんだか妙に嬉しくなってしまう単純きわまりない私なのであった。
「は~い。おつりで~す。16円で~す」
おにいさんは女の子にお釣りを渡そうとした。が、女の子はまだぴょんぴょん状態なので、うまく受け取れない。
「あ~。おつりがほしくないのかな~。16円だよ~。大金だよ~。おうちが買えちゃうよ~」
買えない。
「おうちが、買えるの?」
女の子は、ぴたっと静止して、訊いた。私は内心で爆笑していた。
「買えるよ~」
おにいさんは、理不尽な回答をなすのであった。うひゃひゃひゃ、買えないってば。
「ほうら。16円だよ。おつりだよ~。あれえ、おつりがいらないのかな~」
おにいさんは、事態をごまかしにかかった。
「いる~。おつり、いる~」
またまた、ぴょんぴょん。古来よりコドモは目先のことしか考えないものであり、この女の子も例外ではなかった。
「はあい。おつりだよ~」
おにいさんは、16円也を女の子の手に握らせた。差し出された女の子の右手に、自らの左手を添え、そのちんまりした掌に16円也を置き、更に自らの右手で女の子の右手をくるんで、しかと握らせたのであった。
なんだかもう、濃密な交流なのであった。
「落としちゃだめだよ。おうちが買えるお金なんだから」
まだ言うか、おにいさんよ。
「落とさないんだもん!」
女の子はきっぱりと宣言し、コンビニエンスストアをあとにするのであった。
で、ようやく私の番である。さあ、このくだらない雑誌一冊とさしてうまくもない缶コーヒー一本を、この千円札一枚でなんとかしてくれ、おにいさんよ。
「698円になります。はい、302円のお返しです」
……。
「……」
……。
「……」
……。
「……」
……。
「……」
なあ、おにいさんよ、そうやって、私の手を握り締めるのはやめてもらえまいか。
「こ、これは失礼いたしましたっ」
いかにも。いかにも失礼きわまりない。おにいさんは、おつりを私の手に握らせたのであった。私が差し出した右手に自らの左手を添え、その無骨な掌に302円也を置き、更に自らの右手で私の右手をくるんで、しかと握らせたのであった。
つまるところ、最前の女の子になした所業を、おにいさんは私にもなしたのであった。オレはそんなに子供か。おにいさんの目にはそう映るのか。
なんだ。
なんなのだ。
なあ、おにいさん、オレはあなたの手のぬくもりを、いったいどうすればよいかわからないのだが。
愛が芽生えたら、いったいどうするつもりなのだ。
「申し訳ありませんっ」
謝罪されても、もはやどうしようもない。
責任をとってもらおうじゃないか。
「つい、うっかり」
と、おにいさんは泣きべそ顔になるのであった。
なかなか奇特なおにいさんなのであった。危篤ではない。おにいさんは、今日も元気に生きている。コンビニエンスストアの店員としては、あまりに不用意な性癖を前面に押し出すきらいがあるようにも思えるが、それがたとえば男好きという一面であるのならば、それはそれで微笑ましい、わけはない。
ないったら、ないのだ。
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キリヤマ隊長が、同じ市内に住んでいたとは知らなかった。
キリヤマ隊長といえば、霧山信彦である。そういうことになっている。新聞記事の訃報を読みながら唐突に甦ったのだが、極私的記憶においてはキリヤマ隊長といえば、霧山信彦に他ならないのであった。四年一組で図書係の地位をほしいままにしていた、あの霧山信彦である。教室の片隅に備えつけられた本棚、それは学級文庫というものであったが、唇の端を両の人さし指でひっぱって発音することで知られるその蔵書の管理を一手に引き受けていた、霧山信彦そのひとである。図書係という名の権力の上にあぐらをかいて、善良なる幼き活字中毒者を虐げていた、あの霧山信彦に紛れもない。
当然のことながら、こやつのあだ名は隊長であった。隊長であったが、いささか嫌な奴であった。
学級文庫などというものに興味を示す手合いは、少数ではあるが一定の比率で必ず存在するのであって、例えば私がそうであった。こういった性癖を持つ輩は、四月の第二週目には既に国語の教科書を読破し終えていたりするので注意が必要だ。あ、いや、注意しないでね。見逃してあげてね。ただの活字中毒だから。重病だけど、なおらないけど、本人はそれでいいと思ってるから。
教科書を堪能し終えたこの一派の興味は、次に必然的に学級文庫へ向かう。一派の構成は、概ね定まっている。引っ込み思案を絵に描いたような女子、クラスの副委員長なぜか必ず女子、どこかしら飄然としたたたずまいで独立している男子、そして私、といった四名である。書籍の巻末に貼られた封筒状のポケットに差し込まれた図書カードというものが、その顔触れを歴然と物語ってしまうのであった。
二学期が終わる頃には、学級文庫のすべての蔵書の図書カードにその四名の氏名が記されてしまうのである。三学期はなにをやっていたのかというと、思い出せないが、きっと寒さに凍えていたのだろう。
学年が変わり、クラス変えがあっても、それぞれその存在に相当する面々が、図書カードを物悲しく賑わせるのであった。つまるところ、一定の比率である。
四年一組における学級文庫の問題は、霧山信彦隊長の存在そのものにあった。
隊長は、どういう使命感に基づくものかわからないが、厳格なのである。自分はその蔵書をいっさい読まないくせに、杓子定規な文庫運営をなすのであった。
借りた本は一週間以内に返さなければならない。一度借りた本は二ヶ月以上たってからでないと借りてはならない。この二点の「決まり」に、隊長はきわめて忠実なのであった。
「キミが×月×日に借りた×××という本なんだけど、きのうがへんきゃく日なんだよ」
などと、隊長は言うのである。「キミが×月×日に借りた」である。自らの責務は責務だと言わんばかりに、「へんきゃく日なんだよ」である。
まだ読み終わっていないのである。正確を期するならば、借りたまま未だひもといていないのである。読み始めれば一気呵成に読破することであろうが、晴天が続けばコドモのことだから他にいっぱいやることがあるのである。往時の私にとって、本は雨の日のともだちだった。
「まだ読んでないんだよ。ちょっと待ってよ」
「だめだめ。決まりなんだから。返さないと、先生に言いつけるぞ」
決まりが好きな隊長は、お決まりの科白で脅すのであった。非力な私は、権力の行使に屈するしかないのであった。いったん返却すると、その後二ヶ月は借りることができない。ひとりの独占を防ぐためのルールであるが、実際には四人の利用客しかいないのだから、厳格に遵守される必要はないように思える。そのあたりを拙い表現で言い募ってお目溢しを願っても、隊長は「決まりなんだから、だめ」の一点張りなのであった。法規の弾力的な運用といった概念が、隊長の脳裡に去来することはなかった。
ここで、他人の名義で借りるといった猿知恵を思いつかないのが、やはりコドモの限界なのであろう。また、同好の士が一致団結して待遇の改善を求めるといった動きが発生することもなかった。内気少女と飄然少年も、時折隊長の糾弾を受けていたようであり、この点で私と連帯した運動を行う動機はあったように思えるが、それぞれ固有の性格がその余地を産み出すことを妨げた。副委員長はといえば、けして「決まり」から逸脱することはなかったし、そもそもこのひとは「読書をするという行為をしている」といった気配があり、本を読むことを通してなにか他のことを求めているようであった。他の三人の単なる本好きとは決定的に立場を異にしていた。結果的に、隊長の権力だけが助長されていくのであった。
芋づる式に記憶は甦ってくるのだが、『地底旅行』の一件は、いま思い返してみても、私に非があったとは思えない。しかし、廊下に立たされたのは私である。ルールを守れない奴は懲罰を受けるのである。が、私はルールを無視しても気にならなかったし、懲罰を受けても反省しなかった。
あるとき、滅多に言葉を発しない飄然少年がいきなりやってきて、「只今よりこの本を返却するが、次に是非借りるとよい」といったような主旨の発言をもごもごとなした。飄然少年は、言葉を使って他人になにかを伝えるのが、苦痛なようであった。その手にはヴェルヌの『地底旅行』が携えられていた。図書カードの記録を通じて、副委員長を除く三人にはある種の連帯感が生じていたのである。
苦手な行為をしてまであえてお勧めしてくれた飄然少年の好意にすぐさま感謝する心意気は、当時の私にはまだあった。さっそく二人で隊長のもとへ赴き、飄然少年の返却手続きと私の借用手続きを執り行った。
私は『地底旅行』に溺れた。
何度も読み返した。返却期限というものは念頭にあったが、まったく気にならなかった。返さなかった。いつまでも自分の手許にこの本を置いていたかった。隊長は幾度となく私を督促し、いつになく頑迷な私をもてあまし、ついに御注進に及んだ。そうして、「決まり」を守れない私は、ホームルームとかいったものの折に、先生に糾弾され、廊下に立たされたのであった。
先生の断罪の言葉を聞きながら隊長を見やると、なんだか喜んでるようであった。飄然少年は、やっぱり飄然としていた。
記憶の細部が甦るに連れて、なんだかだんだん腹が立ってきた。霧山信彦、今度会ったらただじゃおかねえからな。って、今になって怒ってどうする。
この一件には後日憚がある。私を廊下に立たせた教師は、自腹で『地底旅行』を購入し、ひそかに私を呼び出して他言無用を条件に私にくれた。決まりは決まりで守らなければならないが気持はよくわかる、ということであった。幾度かの転居を経て紛失してしまったが、私はどういうものか人の運が異様によくて、時々そういう過度の好意に救われている。
強制返却を余儀なくされた『地底旅行』は、元通り学級文庫の蔵書として供された。
「よくわかんないけど、もういっかい読みたい」
とは、内気少女が擦れ違いざまに赤面して述べた言辞である。読んだらしい。言ったとたんに駈け足で逃げていった。
「な。お、おもしろかっただろ」
とは、数週間の後にふらりと歩み寄ってきた飄然少年が表明したぶっきらぼうな同意である。皆目困惑しているようにも受け取れないではなかった。
「ちゃんと返せよ」
とは、その後私が本を借りようとするたびに隊長が発した警告である。なにしろ、その後も私は時折、期限を遵守できなかったのである。
副委員長は、そんな簡単な決まりも守れないルーズな輩はお気に召さないらしく、なんのおことばもなかった。
ひょんなことから甦った記憶であったが、私のだらしなさを差し引いても、やはり霧山信彦の学級文庫運営方針にはいささか問題があったように思えてならない。今度会ったらただじゃおかないまでも、やっぱり文句のひとつも言ってやるべきか。しかし、霧山信彦隊長は今どこで何をしているのだろう。
キリヤマ隊長については、先頃まで同じ市内に住んでいたことをつい最近知ったのだが。
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「よう。今夜は、鍋か」
スーパーで旧知に出会うのは、なにかしら居心地が悪いものである。買ったばかりの食料品をポリ袋に詰め替えている最中に出会おうものなら、つまり冷蔵庫の中身を覗かれているに等しいわけで、その気恥ずかしさも一層である。しかも、購入した品々をしげしげと観察されたあげく今夜の献立を見透かされてしまったとなると、鍋があったら入りたいといった心地に苛まれなければならない。って、ヤな心地だな。更には、出会ったのが森崎某なると、あら、あららら、なんでおまえがここにいるんだよ。我が庵の冷蔵庫から勝手にビールを持ち出す輩を相手に、気恥ずかしいもなにもないではないか。
「オレの気恥ずかしさを返せ。鍋があったら入りたいなんて、思ってないぞ」
言ってみたが、虚しい。森崎某も取り合わなかった。
「葉物が高値だってのに、ずいぶん豪勢だな」
などと言いつつ、無遠慮な視線で私の買物を眺め回しやがった。馬鹿のくせに、多少は昨今の物価情勢をわきまえているらしい。
森崎某は、主に社会適応能力の欠落といった点において少しはこのあたりじゃ知られた顔である。この不適格者が、スーパーで買物をするなどという一般市民であるかのような所業をなしていたとは、数少ないと推察される友人であるところの私も知らなかった。
「おまえも鍋らしいな」
私も、森崎某がぶら下げているポリ袋を覗き見返した。ひょっこりと飛び出した葱が、その人相風体との違和感を強調している。
「鍋だ。やはり、この時期、鍋であろう」
「そうか。やはり、鍋か」
「鍋だ」
「鍋なのだな」
「鍋なのである」
そのような経緯で、ともに鍋を囲む運びとなった。
「で、俺は鶏なのだが、おまえはなんだ」
我が庵に辿り着くと、おもむろに森崎某は問うた。
「オレは牡蛎だ」
「ふうむ。それは共存できんな」
「どうする」
「モノジャンで決めるというのは、どうか」
「モノジャンか。久しくやっとらんな。モノはどうする」
「これがあるだろうが」
森崎某は、ポリ袋を掲げた。
「ああ、そうか。しからば、やろう。十番勝負な」
私は、自分のポリ袋を手許に引き寄せた。
「じゃ、いくぞ」
「ほい」
「俺は、これだ」
森崎某は、ポリ袋から芹を出してテーブルに置いた。いきなりの奇策である。
「そうきたか。オレはこれだ」
私は、オーソドックスに白滝を出した。
モノジャンという慣習はあまり一般的ではないように思うが、実際のところはいったいどうなのであろう。通常は自分の持ち物や室内で目に付いた物を使うのだが、本日は袋の中から出してくるので、いかにもジャンケン風である。つまるところは、手のかわりにモノを使うジャンケンであり、森崎某と私は時折やっておるのだが。
やはり、双方の馬鹿加減が同レベルでないと成立しえないのが、難点なのか。
森崎某は、芹の束を頭上高く掲げた。
「さて、この芹だが、ただの芹ではない。この紫色のテープを見よ。この燦然と輝くJA長木田の文字こそが、長木田農業協同組合の誇りなのだ。ああ、長木田の農家の皆さん、ありがとう」
このように口上の馬鹿具合で勝負を競うジャンケンというものは、やはりどこか異端の香りは否めない。普及しないのも当然である気はする。
「なんのなんの。この白滝こそが、英雄である。なにを隠そう、群馬県吾妻郡にその名を轟かせる有限会社浜田物産の主力商品こそが、この“特選しらたき”である。この浜田物産は、社長浜田憲三が一代にして築き上げた会社で、」
「わかったわかった。俺の負けだ」
森崎某は、私のでっちあげを途中で遮り、白旗をあげた。むふむふ。まずは、私の一勝。
「ううむ。調子が出んな」
森崎某はぼやきながら、葱を出した。私は春菊で打って出た。
「じゃあ、オレはこの春菊を世に問おう。この春菊、今でこそ鍋の友として世間にあまねく知れ渡っておるが、ここに一編の物語がある。時は戦国、足利幕府第十三代将軍、義輝の幕閣に細川藤孝なる異才があった。この藤孝、書に名高く、歌に誉れ高く、武将としても一級の人材であったが、春菊にも一家言があったことで知られ」
「わかったわかった。もういい。俺の葱の負け。おまえ、飛ばしすぎ」
うひひひ。二連勝。
「よし、今度はちと趣向を変えてみよう」
図に乗った私は、無造作に麸で勝負に出た。麸のないモノジャンは負けモノジャンである。しかし、森崎某は、さりげなく逸品を繰り出してくるのであった。
「ややや。ベビースターラーメンではないか」
「いかにも、これこそがベビースターラーメンである」
「むむ。それは素晴らしいが、鍋になにか関わりがあるのか」
「なにも鍋の食材を購うためだけに買物に行ったわけじゃない。ふたつ買ったが、おまえも欲しいか嫌ならいいんだ」
「ま、待て待て。欲しいかのあとの息継ぎを、なぜ省略するか。問い掛けたなら答を聞かんか」
「いや、ついホトケ心を出してしまったが、途中で惜しくなったのだ」
「惜しくなってはいかんと思うぞ」
「じゃあ、おまえにやろう。そのかわり、次の一番は俺の勝ちだ」
「ベビースターラーメンには代えられまい。やむをえんな」
えんのか。それでいいのかオレのジンセイ。
「で、次の一番は俺の勝ちとなったが、この一番はどうする。やっぱり、俺の渾身のベビースターラーメンの勝ちでいいか」
「渾身のベビースターラーメンには勝てまい。やむをえんな」
えんのか。悲しすぎまいかオレのジンセイ。
予め勝負が決した第四番は、森崎某は鶏肉を、私が牡蛎を提示した。それぞれのメインイベンターにそもそも自信がなかったという、馬鹿同士ならではの展開であった。二勝二敗。
第五番は、期せずして雑貨対決となった。森崎某は“えぞまつ利休箸(50膳入)”を、私は“のびる水きり袋(20枚入)”を各々推奨した。
「だからな、蝦夷松は“腰が強く折れにくく柔かい手触り”なんだと言うておろうが」
「いやいや、“全体があみ目で水切り抜群”“セットしやすい伸縮性”といった、この天晴れな惹句が目に入らぬか」
議論は平行線を辿り、引き分けとなった。モノジャンは主観がすべてなので、実際の局面では引き分けが多い。
その後、森崎某の弁舌が復活し、三勝四敗三引分で、私の敗北となった。第九番において、乾坤一擲の焼き豆腐が森崎某の椎茸に敗れ去ったのが痛恨であった。
「しかし、なにやってんだろうね。オレたち」
鶏の水炊きをつつきながら、私はつぶやいた。なにか、我々の所業はあまりに虚しい気がしてならない。
「なにって、おまえ」森崎某は言った。「鶏の水炊き、食っとるんだろうが」
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「ちゅうちゅうたこかいな」
口走りながら、既に内心ではしまったと臍を噛んでいたのである。そのようなセリフを口にしてはいかん、いかんのだ、いかんったらいかんのだ。でも、言っちゃったんだもんね。しょうがないんだもんね。どうせオレなんか、オレなんか、ぐすん。と、いった風な上目使いで、私はおそるおそる周囲を見やった。
私の発言がもたらした微妙な沈黙が、一同を凍らせている。
「あのさ」やがて、ひとりがおずおずと切り出した。「今どき、それは言わないんじゃないか」
どうしたものか、みんなお互いの様子を窺っている気配がある。
「そうだよな」もうひとりが自信なさそうに同意を表明した。「言わないよな。言わないと思う」
どうやら、誰もが自分の見解に自信を持てないでいるようであった。
「あ。やっぱり、そうか」更にひとりが、安心したように内心を吐露した。「俺も、今どきそれはないだろう、と思ったんだ」
そこから先は、一気呵成であった。彼等は、多数派となったのだ。
「ちゅうちゅうたこかいな、ときたか」
「情けない」
「この期に及んで、ちゅうちゅうたこかいな、はなかろう」
「見苦しい」
「だいたい、言うに事欠いて、ちゅうちゅうたこかいな、とは何様のつもりか」
「恥知らずが」
「たかだかタコ焼きの数を数えるのに、こともあろうに、ちゅうちゅうたこかいな、とは、いよいよヤキが回ったか」
もはや、みんな自信たっぷりである。多数派どころではない。全員一致である。「ちゅうちゅうたこかいな、などという言葉は死語である」という統一見解なのであった。私も同感である。同感だからこそ、臍を噛んだのである。この際だからオレにも言っとくけど、今どき、ちゅうちゅうたこかいな、なんて言わねえぞ。
言ったが。オレは言ったが。言ってしまったが。口走ってしまったが。ぐすん。
が、そこまで糾弾されねばならぬ問題か。
「待て待て待て」
私としては、私の名誉を守らなければならない。そんなものはないが。
私がいったい何をしたというのだ。誰かがタコ焼きを買ってきた。その場に居合わせた面々にどう配分するかといった話になり、ならばまず何個のタコ焼きがあるのかを把握せねばならぬといった展開を見た。それだけではないか。自ら進んでタコ焼きの数を数えようとした私の功績を、ほんのひとひらの失言をなしたばかりに無にしてしまうとは何事か。オレの青春を返せ。
タコ焼きである。タコの連想から、ちゅうちゅう云々といったフレーズが出現しただけである。ついつい、口をついて飛び出ただけである。聞かなかったふり、といったオトナの態度を、なぜとれないか。
だいたい、なんだというのだ。みんな最初は疑心暗鬼だったくせに。己の言語感覚に自信がなかったくせに。自らの時代感覚に確信がなかったくせに。
「え。どうなんだ、そこんとこ」
開き直ってみたところ、一同の興味は早くも次に移っているのであった。おいおい。この哀れな人物に投げかける憐愍はないのか。
ないのであった。
「で、ちゅうちゅうたこかいな、というフレーズはどこから出てきたのか」
「うむ。いかにも妙なフレーズである」
時ならぬ疑惑が渦巻いていると、ひとりが「語源辞典」といった類の書物を探し出してきた。
「んと、この本によるとだな、“子供がおはじきなどを二つずつ数えるときに、二、四、六、八、十の代わりに唱えることば”ということになっておるようだ」
「子供が、か」
「おはじきなど、か」
一同の視線が私に集中した。
「こらこら」私はたじろいだ。「そのような目でひとを見るな」
「ま、子供だからな」
ひとりが言い、みんながうなずいた。こらこら。
「こやつはこやつとして、ちゅうちゅうだが、こういうことだそうだ」
一方で、俄解説者は書物を読み上げるのであった。なんでも、「ちゅうちゅう」は、すごろく用語の重二(じゅうに)が変化したものだそうである。「ちゅうじ」「ちゅうに」を重ねたものなのだそうである。重二は、四のことであり、これを二つ合わせると八になり、タコの足八本を連想してタコといい、二つ加えて十になるのだそうである。
わけがわからない解説である。みんな何度か聞き返し、ついには書物が回覧されたが、いくら読んでも意味が把握できない。
「よくわからないが、大変なことになっていることはよくわかるな」
うなずく一同であった。
「しかし、すごろく用語というものがあったか」
「どんな業界にも、独自の用語はあるものだ」
「おそるべし、すごろく業界」
唸る一同であった。
「ところで、京都や大阪では、ほんとにこう言ってたのかな」
書物には、他地域の例も載っていたのである。
言っていたのか京都のひとよ。「ちゅうちゅうたあかいのとお」などと。
言っていたのか大阪のひとよ。「ちゅうちゅうたまかいのじゅう」などと。
言っていたのであろう。では、他はどうか。どうなのか。
「なんと言っていたのか青森のひとよ」
「そちらはどうだったか熊本のひとよ」
「意見を聞かせてくれまいかマレーシアのひとよ」
「なにか助言はないだろうかパラグアイのひとよ」
「この際だから貴重な御意見を賜りたいが火星のひとよ」
「言いたいことがあったら言ってみたまえ明石のタコよ」
「タコが言うのよ~、ってやつだな」
ついうっかり、そうした失言をなして、私はまたまた非難の集中砲火を浴びるのであった。
「その感覚が古い」
「古すぎる」
「どうにもならんな、このタコ」
などと。
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「ごぶさたしてます」
小柄な女性がやって来て、ちょこんとお辞儀をした。ちょっとした立食パーティの会場である。容貌、風体その他外見上にはさしたる特徴は認められない。年齢は三十前後といったところか。
思い出した。「なんだ、二瀬ちゃんか。どう、相変わらず赤面してる?」
本名はまだ思い出せないが、ふたせちゃんである。逆読みの達人、二瀬ちゃんに紛れもない。
「もう」二瀬ちゃんは頬を膨らませた。「久し振りに会った人はみんながみんな、そう訊くんだから」
そりゃ訊くだろう。二瀬ちゃんといえば、突然の赤面である。そういうことになっている。それはそれは強烈な印象である。
「で、赤面してるの?」
「してませんよ。わたしもいいトシですよ」
「逆読み能力は健在なんでしょ」
「はい。でもまあ、折り合いをつけるすべを学んだというか」
「時は流れるねえ」
「なに言ってるんですか」二瀬ちゃんは朗らかに笑った。「そういう物言い、変わりませんね」
私に進歩はない。
二瀬ちゃんは進歩しているようである。あれほど嫌がっていた天賦の能力と、ついに折り合いをつけたらしい。あまり役に立たない特異な才能と共存していく術を、ようやく学んだらしい。それはそれで、めでたい。
二瀬ちゃんは、幼少の頃より、言葉にそして文字にきわめて強い関心を抱く少女であったと伝えられる。三歳にして、どちらの仮名も無理なく読み書きできたという。この種の子供の次なる行動指針はひとつしかない。目に映る文字すべてを読み上げるのである。「すごいね~。よく読めたね~」周囲の大人の賞賛を呼び、子供はますます図に乗っていくという展開に至る。
が、しょせんは子供の所業であり、時には横書きの言葉を右から読んでしまう。「よいこ」という本がそこにあれば「こいよ」と大声で読んでしまい、慌てて飛んできた母親が「んもう、来いっていうから来てみたら、この子ったら」と嘆くといった事態を迎えるのだ。つまるところは子供だから、右も左もわからないのである。
ある時には縦書きの言葉を下から読むといったこともする。街の看板を見上げようとすれば、子供の視線の動きは当然下から上へと這い上がる。
「コルト」
母親は銃の名をいきなり唱える娘に驚き、次いでそれが国名でありながらも子供が発言するにはちょっと問題があるのではないか的な施設の看板であったことに気づき、やっぱり「んもう、この子ったら」と慨嘆することになるのである。
とはいえ、幼児の二瀬ちゃんにとっては、三文字それぞれが独立した文字である。順番に読み上げたに過ぎない。そこに意味を見出さない。母親の慨嘆などはまったく気にならない。とにかく一文字ずつを実際に声に出して読み上げることこそが、自然な行為なのである。右からでも左からでも、かまわない。上からでも下からでも、気にしない。そこに文字があれば、幼児の二瀬ちゃんは一文字ずつ読み上げるのであった。
そうした数々の体験を経て、小学生になった二瀬ちゃんはあるとき卒然と気づいたのである。「ほかのひとは、逆から読むことが苦手なのだ」と。二瀬ちゃんはどちらからでも読める。実のところ、逆から読んでいるという意識はない。意味が汲み取れるほうが普通の読み方なのだろう程度の認識しかない。どちらからでも自在に読める。文字の連なりには二通りの読み方があって、どちらもほぼ同時に読み取れる。二瀬ちゃんの頭脳には、いつしかそうした特異な能力が形成されていたのであった。
特異は得意につながっていく。自分にしかできないことを発見したとき、その技能の向上に熱中するのは、わかりやすい道理である。二瀬ちゃんは逆読みに夢中になった。
確かに最初は意識的だった。しかし、この類の訓練は苦にならないものである。なにより、本人に訓練などという認識が希薄である。たちまち身についた。ことさらに意識しなくても、自然にできるようになった。もはや、どちらかだけを意識的に取捨選択はできない。あらゆる言葉は、二通りに読まれなければならなかった。
単語ばかりではない。一連の文章であっても、その能力は発揮される。二瀬ちゃんの脳裡においては、ほぼ文節単位で逆読みがなされる。「むかし(しかむ)むかし(しかむ)あるところに(にろことるあ)、おじいさんと(とんさいじお)おばあさんが(がんさあばお)すんで(でんす)いました(たしまい)」二瀬ちゃんの言語解釈回路は二手に分かれ、ほとんど同時にふたつの処理をなす。逆読みの方がカウンターメロディのように響くもののようである。たとえば、往年のフォークコンサートで歌い手が観客に合唱を促すような趣きらしい。「(いのちかけてと)いの~ち、かけてと~、(ちかったひから)ちか~った~、ひから~」といったところか。二瀬ちゃんの場合は、括弧内が逆読みで処理されるのである。
そうした次第で、記された文字だけではなく、話し言葉に対しても同様の機能が働く二瀬ちゃんの言語中枢なのであった。「はやく(くやは)おきなさい(いさなきお)」との母親の声で目覚め、一日が逆読みの洪水で過ぎていく。
そうした逆読み能力を有する人物にとっては、世の中は雑音だらけである。逆読みされる言葉のほとんどが、意味をなさない。雑音は、たいがいの場合騒がしいだけである。その事実を実感したとき、二瀬ちゃんは激しい後悔に苛まれた。まったくもって、不要な能力だったことに気づいたのである。まず、書物を愉しむことができない。テレビもラジオもうるさすぎる。邦楽は聞くに堪えない。
日本語は、騒がしすぎた。二瀬ちゃんは、洋楽に逃避し、英語に安らぎを求めた。もとより語学のセンスは抜きん出ているうえに、そこにしか安寧はなかった。二瀬ちゃんは、またもや熱中した。たちまち英検一級の御取得である。
二瀬ちゃんにも思春期は訪れた。そこに至る過程で、様々な言葉を憶えてきた。が、自然に逆読みされるそれらの言葉の大半は、単なる音の響きに過ぎないのであって、なにかしらの意味を伝えることはない。つまりは、雑音である。
が、稀に意味をなす場合がある。たとえば「コンマ」というありきたりな単語が、二瀬ちゃんを著しく動揺させるのであった。二瀬ちゃんは関東に居住していたため、その逆読みには赤面せざるを得ないのであった。
我々が二瀬ちゃんと出会ったのは、二瀬ちゃんが学業を終え就職した場においてである。ほどなくして、二瀬ちゃんの特異な能力は知れ渡った。いきおい二瀬ちゃんの周囲には「コンマ」という単語が声高に飛び交うのであった。セクハラそのものである。特になんということもない言葉に著しい反応を示す二瀬ちゃんが、面白いのであった。淫語辞典などをひもとき、逆から読むと意味の通る言葉はないかと探しまくる者まで現れた。つまるところ、二瀬ちゃんの赤面が面白かったわけである。この方程式を整理すると、赤が白かったのである。
とはいえ、ただただからかっていたわけではない。同情論もあった。
「しかし、その半分が意味をなさないとはいえ、二倍の情報が押し寄せてくる体質というのは、これはかなり辛いのではないか」
「ただでさえ騒がしい世間が、二倍騒がしいのだからな」
「そういうの、あったな」
「逆テレパスか」
「七瀬だな」
「それほどのもんではなかろう」
「七まではいかんな。二くらいじゃないか」
「うむ。そんなものだな」
「二瀬か」
「二瀬だ」
「うむ」
即ち、二瀬ちゃん誕生秘話である。
やがて、留学するために二瀬ちゃんは退社していった。二瀬ちゃんにとって、この列島は騒がしすぎるのであった。
一時帰国した折に、ちょうどパーティが催されるというのでやってきた、という。
「でもね、日本への帰国はもう最後なんです」
「ほへ?」
「今度は日本から帰国するんですよ」
「はにゃ?」
二瀬ちゃんと私が話し込んでいるところへ、二瀬と命名した面々がいつのまにか集まってきた。そもそもが、そのあたりの顔触れが集りがちなパーティなのであった。
やはり「コンマ」という単語が頻発するが、年功を経た二瀬ちゃんは、もはやにこにこして聞き流すばかりである。そうして、重大発言をなすのであった。
「やっと、永住権が取れたんです」
「おお」一同はどよめいた。次いで、拍手が湧いた。
なるほど。そうであったか。二瀬ちゃんは、逆読みの呪縛から、ついに解放されるらしい。
「そりゃ、よかった」
「おめでとう」
みんな、当時の二瀬ちゃんの苦悩を知っているだけに、祝福の言葉が次々に二瀬ちゃんの浴びせられた。
「そりゃ(りゃそ)、よかった(たかっよ)」
「おめでとう(うとでめお)」
と、二瀬ちゃんは聞いているのであるが。
送別会をしよう、と、話はすかさずまとまった。パーティ終了後、一同は一度目の送別会をした店になだれこんだ。一度目とは、退社して留学していく二瀬ちゃんを見送った時である。
ふたたび、二瀬ちゃんを送り出すのである。一度目は綿密に口裏を合わせたが、二度目ともなれば数年の時を経たとはいえ、たやすく唱和できる一同なのであった。つまり、二瀬ちゃんのための乾杯の音頭というものである。
「いぱんか!」
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その晩は近来まれに見る寒さだった。
歩道に佇んで待ち人をするには最適の気候だよねっ、などと脳天気に主張する輩が現れたなら、ただちに切り捨てていただろう。だよねっ、じゃねえだろっつうの、架空のひとよ。私は、ひたすらに寒いのである。凍えているのである。身を切り刻む寒さにおののきながら、歩道に佇んで人を待っているのである。
べつに会いたくともなんともないのである。が、会わねばならぬ。かねてより先方に依頼してあった寒ブリが入荷したとの一報があったので、受け取りに出向いたのである。先方は、上質の寒ブリの極秘入手ルートを保持している。当方が願ったのだから、待ち合わせ場所を指定されれば、そこに赴かざるをえない。
だからといって、本屋の前は、ないだろう。実際にはあったのだけれど、そりゃないだろう、と、寒さに震えながら困惑する私であった。喫茶店なり居酒屋なり、なにかしらの屋内というわけにはいかなかったのか。寒空の下の歩道で半ば放心しつつ、待ち人来らずを具現化する私なのであった。
悪いことに、先方は遅刻である。電話を入れると、家人曰く、私に会いに出掛けたの由。こちらが無理を言って頼んだ物件だけに、唯々諾々と待たねばならぬ。待てば寒ブリの日和もあるだろう、と自分に言い聞かせ、私は足許から這い上がる寒さにただただ震えていた。
目の前の本屋に逃げ込めたなら、どれほど幸せだろう。本屋は暇つぶしの殿堂である。が、待ち人がいつ出現するかわからない立場にあっては、どうにも身動きならない。目前にある快楽にあえて背を向けて、いつ訪れるかわからない待ち人の来訪を歩道で待つしかなかった。
上空のオホーツク寒気団を恨んでいるうちに、本屋の店頭にうず高く積まれた小冊子を発見するに至った。眺めていると、けっこうな勢いで売れていく。なんだなんだどうしたんだ、と近寄ってみたところ、新ジャンルが勃興していることがわかった。出版界は、またまた鉱脈を掘り当てたらしい。おめでとう。昼メロ、懐メロ、カリメロなどのメロ一派に、新たに着メロというものが参入したもののようである。
幾種類もの冊子があった。携帯電話の着信音の入力データ集といった趣向である。電車の中でいきなりドラえもんのテーマ音楽がどこからかの携帯電話から流れ出して驚くことがあったが、このような背景があったのか。世の中は動いている。着信メロディ、略して着メロ。安直こそが商人の正義、を地でゆくネイミングである。たいへん、わかりやすい。
それぞれの冊子はそれぞれに意趣を凝らしているが、つまるところ戦略はひとつしかないようであった。新曲の導入、ただ一点である。発売されたばかりのハヤリ歌を、いかに素早く収録するかが焦点となっている。即ち、雑誌のスタンスである。実像は『月刊着メロ』といったものであるらしい。それでも雑誌の体裁をあえて避ける商人達よ、あなたがたの叡智は、やっぱり素晴らしい。
ふと気づくと、そのうちの一冊を購入していた。叡智には勝てないし、寒さが一瞬私を狂わせたのであろう。ヤメロと言われても今では遅すぎたよ、ヒデキ。
ただただ人を待つ身である。どのみち手持ち無沙汰である。歩道に佇みながら、さっそく自らの携帯電話への入力作業にかかった。とりあえずオーソドックスに、THE SQUAREの「TRUTH」を入力してみる。収録されたデータのうち、好みにかなうのはこの一曲しかなかったのである。松岡直也の「A FAREWELL TO THE SEASHORE」は、掲載されていなかった。あたりまえだ。でも、いい曲なんだよ。って、自分に阿ってどうする。
収録されている曲はほとんどが昨今のハヤリ歌である。スピードやらグレイやらである。つまるところ、編集者が想定した購入者層から私は逸脱しているものと推察され、哀しくなってしまうのであった。それにつけても、着信音に相応しそうに思えるスタンダードがほとんどない。私が考えるスタンダードとは、「When You Wish Upon A Star」だったり、「Take The A-Train」だったり、Pachelbelの「Canon」だったりするが、そうした認識はやはり世情からは逸脱しているのであろう。世の中は、グローブなのであった。ザードなのであった。スマップなのであった。
洋楽系は黙殺されている。著作権の問題があるのかもしれぬ。しかし、いかにも着信音といった趣きはむしろこちらに、殊にロックにあると思うのだが、どうなっているのだろう。たとえば、Europeの「The Final Countdown」はどうか。Van Halenの「Jump」はどうだろう。Eric Claptonの「Layla」などもいいんじゃないかと思うのだが。着メロというやつには。
あ、はいはい。購入者層じゃないです私、この冊子の。古いです、認識。錆付いてます、感性。
エブリ・リトル・シングですね。ラルク・アン・シエルですね。この世界はそういうもので構成されていますね。ええ、ええ。それはわかってますとも。
そうこうしているうちに、ハヤリ歌を記載されたデータ通りに入力してみてその曲を知っているかどうかを自らに問う、という遊戯を編み出した。自慰ここに極まれり、といった感がなくはない。
入力確認のための再生を聞いて、「あ。この曲、聞いたことあるよ」とか「この曲は、知らんな」とか、ひとりごちているのである。馬鹿の所業である。寒空の下、いったい私は何をやっているのだろう。
入力しているのである。携帯電話に。着信音のメロディを。着メロである。ハヤリものとおぼしき、あの着メロである。この着メロもその着メロも、まだ理解できてはいないが、とにかく、あの着メロである。
たとえば、タンポポの「ラストキッス」といったような曲である。そういう曲を入力してみる。うむ。この曲は聞いたこと、あるな。「くちびるに~」とかいうのだ、たしか。数年の後に読み返すときのためにあえて記しておくが、これはモーニング娘。とかいうバンド(数年後に読み返した私よ、ここ、笑うとこね)から分離独立した(ここも笑うとこだぞ、数年後の私よ)ユニットで、つまるところオールナイターズにおけるおかわりシスターズのようなものだ(ここは、苦笑してくれ。生きていたなら)。おねだりシスターズかもしれぬ(ひきつった苦笑を頼む、老いたる私よ。まだ健在ならば)。すまぬ。おニャン子クラブを持ち出すには、老いすぎているのだ、私は。
って、誰に謝ってるんだ。
ようやく待ち人が現れた。寒ブリ様の御登場である。待ち人は次ぎなる所用があるらしく、すかさず去っていった。
意表をついて、その一尾の旨いとこほとんど丸ごとといったブロック状である。ああ、食えるのだな私は。この寒ブリを。幸せが身に染みる。
が、幸せはちょっとしたことで中断されるのである。たとえば、携帯電話がいきなり鳴る。
鳴るちゃん憲法的に、ちゃんと鳴る。
私の携帯電話は、律儀に応える。そんなに律儀に応えなくてもいいのに、与えられたメロディを奏でる。予め設定された音を出す。たまたまタンポポの「ラストキッス」が設定されていたなら、そのメロディを奏でる。
「くちびるに~」
私は右手に寒ブリの包みをぶら下げていた。左手だけを駆使し、なんとか懐中から携帯電話を取り出した。「くちびるに~」とかいうメロディを奏でる携帯電話である。私は歩道にいた。困り果てていた。着信音は鳴り続ける。電子音は鳴り続ける。「くちびるに~」。
右手に寒ブリ、左手に携帯電話ラストキッス付き。そんなお茶目な、歩道の男。
一陣の風が吹き、枯れ葉を舞い上げた。私の心の底にも、冷たい風が吹き抜けていった。ようやく電話に出てみると、先ほどの待ち人が、間違えて手渡した、と告げる。それは俺のだった、おまえにやるのはもっとちっちゃい寒ブリだ、と。そこで待ってろ、今から戻るから、と。
待つしかなかった。歩道に立ちつくし、待つしかなかった。身体も心も寒かった。くちびるも、寒かった。
とにかく寒くてたまらなかった。
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「コービングなわけだ、これが」
森崎某という人物は意気込んで語り始めるのであった。この男の問題点は私の友人である痛恨の事実をはじめ数知れないが、なにか目新しいことを聞きつけるとすかさず注進の儀に及ぶ性癖もまた問題点のひとつに挙げられるだろう。悪いことに、その情報に森崎某独自の解釈、見解などが付与され、なんだかよくわからなくなっていくのが常であり、問題点は問題線へと化していくのであった。
「ちょいと小耳に挟んだんが」
と、言うのだが、なにがちょいとなものか。
「いや、電車の中で隣り合わせた女子高生のみなさんが、しきりにコービングという聞き慣れぬ単語を連発しておったのだ」
しきりに。連発。ちっとも小耳ではないではないか。
「よくよく聞いてみると、これがどうも、実にどうも、いやあどうも、驚くなよ」
早く言えよ。
「コービングとは、交尾ingだったのだあ」
「ふうん」
「あ。なんだその醒めた目は。なんだその冷淡な反応は。こういうときには、ええええっ、とのけぞって驚いた振りをするのが、俺の友達じゃないか」
俺の、ときたか。一般論にしないところが妙である。しょうがねえな、ほだされてやろう。「ええええっ」
「よくできました」
「よくやりました」
「ま、そういうわけで、コービングだ。交尾の動名詞だ。つまり、セックスだ、まぐわいだマーク・マグワイア。って、言うと思った?」
「思った」
「よく思いました」
「よく思いました」ん? あれ? ま、いいや。
「つまり、まぐわいの隠語が、いやむしろ陽語と呼ぶべきか、そういう卓抜なスラングが開発されていたのだ、女子高生のみなさんの間で」
と、森崎某は力説するのであった。
「コービング、ってのが? 聞き間違いじゃないの」
「いやいや、あのコービングはまぐわい以外の解釈はありえない。そういう文脈で発せられた単語に他ならなかった」
小耳に挟んだどころではなく、聞き耳を立てていた事実がすっかり露呈した森崎某は、そのように断言してはばからないのであった。
「コービングねえ」私としては呆気に取られるばかりである。
「いいだろ、コービング。素晴らしい造語だ。交尾アイエヌジー。コービング。いやはや、老いて老人力、若くて造語力だな、やっぱり」
なにが、やっぱり、なんだか。
「いいよなコービング。コービング・マイ・ウェイ。俺は俺のやり方でまぐわる」
「どういう文法なんだ。シナトラさんに怒られるぞ」
「そりゃすまんフランク。あ、いや、俺とあいつはファーストネイムで呼び合う間柄なんだ」
勝手にせい。「しかし、どんな場面で使うんだ」
「そりゃあ、たとえば」森崎某は一瞬絶句し、次の瞬間なにかを思いついたらしく破顔した。「履歴書だよ履歴書。趣味の欄に書くんだよ。趣味、コービング」
こらこら。
「ボーリングとかカーリングに似てるから大丈夫だ」
なにが大丈夫だというのか。「面接官が、このコービングとは何ですか、と尋ねるだろう。どう答えるのだ」
「スポーツなんです、格闘技の一種ですね、と、まあ、こう答えちゃうね」
「一種ときたか」
「お見合いの席なんかでも有効だぞ。趣味はなにかと訊かれて、コービングを少々、なんてはったりかましちゃう」
「はったり、とは言わないんじゃないか」
「気にするな気にするな。どんな趣味だって、まぁそれはよい御趣味で、と答えることになってるんだから」
なってない、と、思う。
「それでな」と、言いながら森崎某はペンを取り出し、新聞紙の片隅に書きつけた。
‘corving’
「こういうスペリングでいってみようと思う」森崎某は明るくハキハキと宣言するのであった。
「いってみるって、ゑゑと、何をどういくんだ?」
「そんな哲学的なことは俺に訊いてはいかん」
哲学的、じゃないと思うが。
「コービング、いえい」森崎某はいきなり全身をくねらせながら腕を振り回した。「C・O・R・V・I・N・G!」
「いやなにも、ヒデキの真似をしなくたって。Rが変だし」
「ふふん。甘いな。これは武田鉄也の真似なのだ」
私は脱力した。「その冗談、異様にわかりづらいぞ」
「そりゃ、JORDANだけに」
……壮年力がついてきた、といったところであろうか。
「で、このcorvingだが、応用範囲の広さがまた素晴らしい。たとえば、接頭辞というものがある」
森崎某はまた書きつけた。
‘pre-corving’
「ふむ。前戯か」
「な。この間口の広さに震撼しない者はないであろう。どうだ、偉い言葉だろう」
偉い、かなあ。
「じゃあ、これは、わかるか」
‘en-corving’
「むむ。動詞につくと強調だっけ? 激しくまぐわうのか」
「おまえは頭がかたいね」森崎某は鼻で笑うのであった。「エンコーだよ。そのまんまだよ。エンコーったらあなた、援交ですがな」
おいおい。「そういう短縮形が既にあるのに、なぜわざわざvingがくっつくのだ」
「文字で表記するときに当たり障りがなくてよいのだ。だいたい、援交は援助交際の略だが、en-corvingは援助交尾の略だ。そのへんが、ちょと違う」
世の中にはいろんなひとがいていいのだ、と、そういう教訓を学ぶ局面なのであろう。
「こういうのもあるぞ」
造語に目覚めた懲りない男は、更に語呂を合わせにかかるのであった。
‘ran-corving’
私にも学習能力はある。「はいはい、乱交ね」
「いや、ここはだな」森崎某は嘆息した。「おいおい、そんな接頭辞はねえよ、と、ツッコミを入れるとこなんだが」
「オイオイ、ソンナセットウジハネエヨ」
「棒読みするこたねえだろうが。ま、よい。それでは次のレッスンです」
は?
「動名詞化する前の虚飾を取り去ったコービーについて考えてみよう」
「コービじゃないのか。伸ばすのか」
「いかにも長音だ」森崎某は重々しくうなずくのであった。「こう書く」
‘corvy’
なんだなんだ、どうなっておるのだ。「もはや、交尾という言葉は想起できんな」
「そこが立派なとこなわけだコービーさんの」
「人格を認めるなって」
「苗字はパウエルっていうんだぜ。うそ」
「わざわざ、うそ、って念を押すんじゃないっつうの」
「ここでは、corvyが日本語に取り込まれた際の表記、つまりカタカナ表記であるコービーについて考察してみよう」
「待て」疑義を呈さざるを得まい。「するってえとなにか、corvyは英語であると、そう言っておるのか」
「なにもそんなことは言っとらん」
「わかったわかった。米語であると、そういうことだな」
「そんなことも言っとらん。人類は分類が無類に好きだが、それは不毛だ」
「ほほう。何語でもない、と」
「いかにも」森崎某、自信たっぷりである。
ここはひとこと諌言せねばならないだろう。「ばーか」
「ばか、とはなんだ」
「ばか、じゃないって。ばーか、と言ったのだ」
我々はコドモか。
「まあ、よい」森崎某は話を元に戻した。「とにかくコービーだ。これは、コーヒーという日常語との類似が偉いわけだ」
「たとえば?」
「つまり、一回のコービーから愛が芽生えることもある、わけだ」
「ちょっと待て。動詞じゃなかったのか、コービーは」
「名詞でもあるのだ」
なんだそれは。「なにかこの、場当たり的できわめて杜撰な展開に思えるが」
「俺のやることだから、それは当たり前だろう」
……開き直りとも違うようである。
「たとえば、こういうさりげないナンパが可能だ」森崎某は埒もない着想を披瀝するのであった。「コービーでも一回どう?」
「さりげないのか、ほんとに」
「あるいは、深夜、別れ際に恋人にこう誘いかける」森崎某は己の着想に酔い痴れていくのであった。「どう、部屋に寄ってコービーでもやっていかない?」
「やって、がすべてを破壊してるな」
「この言葉が普及すると」などと、森崎某の妄想は止めどない。「ラブホテルは、コービーコーナーと呼ばれたりするね。タウンページにコービーコーナーって分類ができちゃったりするね」
「怒るぞコージーコーナーが」
「コービーショップなんてのもできるな。大人のおもちゃだな」
「怒るぞあべ静江が」
森崎某はもはや聞く耳を持たない。「とまあ、ざっとこういったような具合で、コービー及びコービングは普及していくのであった。いやあ、いい世の中になったもんだなあ」
なってねえだろっつうの。
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1953年4月30日に兵庫県で生まれた岡田信行さんは、87年頃には金鳥どんと、ザ・テレビジョン、シマヤだしの素など、盛んにCMに起用されておりましたが、90年代に入ると露出量が斬減し、97年の関西電力を最後にCMの仕事は途切れている模様です。きっと、レギュラー番組も減っているのでしょう。いや、なくなっているのかもしれません。もはや、手遅れなのかもしれません。「イタイのそこが」などと、後れ毛を掻き上げながら歌っていた栄華も今は昔です。憎めない貧乏神といったスタンスが愛されたMr.オクレこと岡田信行さんの芸能生命は、旦夕に迫っているのでした。
一方、本年から携帯電話の番号の11桁化が実施されたことに、私達は注目しなければならないでしょう。「ケ~タイ、ピ~エイチエス、じゅういちケタ~」とウサギが能天気にほざいていたあのCMは、昨年末の騒音庁長官に他なりませんでした。
そうして地球は飽きもせずに自転し、あまつさえ公転なんかもするわけです。オクレ兄さんは没落し、ウサギ年が訪れ11桁化は強引に実施されたのでした。この一見なんの関連もなさそうに思える二つの事象に、実は意表をつく接点があったことはあまり知られていませんが、紛れもない事実です。まったくもって、世の中はわかりません。世の中のかわずにならないためにも、キイワード「090」の背後に潜む驚異の世界を、ぜひ知っておきたいものです。ものなのです。
11桁化における携帯電話の新たな立場は、その番号が090で始まる、というものでした。010も020も030も040も080も、みんなごくろうさん、今年からはぜんぶ090でいくから、そういうことでよろしく。と、ウサギが言ったもんだから、突如としてオクレ兄さんの出番が訪れたわけです。
いうまでもなく、電話番号は語呂合わせで憶えるのが、決まりになっています。これは、電話番号記憶基本法第2条第2項に明記されているところです。キカイに覚え込ませるという黒魔術も存在するとの風評も仄聞するところですが、そんな邪悪な手段はここでは黙殺します。番号登録の方法がわからない、といった些末事にこだわっている場合ではないのです。一連の数字は語呂合わせで記憶するのが常識です。ええ、常識なんです。なんです。なんですってば。
すみません、語呂合わせ専門誌「GORO」を読んで育った世代の悲哀、ということで、ひとつ。
たとえば、090-2345-1074という電話番号は、「オクレ兄さん仕事なし」と憶えておくのが、冴えたやり方というものです。もちろん、そうしていますね、090-2345-1074という電話番号を持った知人を有するみなさんは。
語呂合わせもなかなか疲れるものです。090-3441-0904に電話するたびに、「オクレさん、よしとくれよ」と、なんだかよくわかりませんがオクレ兄さんを穏やかに拒絶しなければなりません。090-8894-8946に電話をかけるには、「オクレ、早く予約しろ」と、なぜそうなるのかさっぱりわかりませんがオクレ兄さんに命令しなければなりません。090-4771-4008という電話番号を持った女性を恋人にした日には、愛の語らいをなす前に必ず、「オクレ、死なないよ俺は」と、オクレ兄さんに誓わなければなりません。
どれもこれもいささか妙なフレーズですが、この語呂すこ~し変よ、と思わせるところが語呂合わせ記憶法の特質です。どうしたのかな、と首を捻らせるほど強引にならざるを得ません。つまんないの、と感じさせるあたりにこの手法の宿命があるのでした。
おわかりでしょうか。そうです、オクレ兄さんはそういった難しい場面で、年頭より大活躍しているのでした。あらゆる携帯電話には、Mr.オクレが宿っているのです。本年1月1日午前2時をもって、この列島のすべての携帯電話にオクレ兄さんが舞い降りたのです。
オクレ兄さんの長い休暇は終わりました。1999年こそがオクレ兄さん大ブレイクの年となったのです。もっとも、今のところ語呂合わせの世界でしか活躍していませんし、その活躍ぶりがそれ以外の例えば芸能界といった分野に波及する気配はありません。でも、いいじゃないですか、オクレ兄さん。プロデューサー業を営むどこかの誰かが、毎日電話をかけるたびに脳裡を過る「オクレ」に喚起されて、ふと「あいつ最近どうしてんのかな。今度の番組で使ってみようかな」と、考えないとも限らないではありませんか。
時代はオクレ兄さんです。昨年までは「鬼丸さんは嫌な奴」と記憶されていた020-381-8782は、090-2381-8782に生まれ変わり「オクレ兄さんは嫌な奴」と読まれることになりました。いや、オクレ兄さんは嫌な奴じゃないですよ、たぶん。「マルサを愚弄しに行こうよ」と憶えられて税務当局から睨まれていた030-964-2154は、090-3964-2154に再生して「オクレさん、愚弄しに行こうよ」と言い習わされる運びとなりました。いや、愚弄しちゃいけませんが、オクレ兄さんのことは。
なぜオクレなのか、遅れでもよいではないか、送れと命令形になっても差し支えないではないか、お呉れと懇願調になってもかまわないように思えるがそのあたりどうなっておるのか。と、そうした健全な良識もあることでしょう。しかし、そういうことではないのです。オクレ兄さんの姿が脳裡に浮かんだほうが憶えやすいのです。忘れにくいのです。記憶術の本をひもとけば、なにかと連想させて記憶しろと書いてあるはずです。まずは、無味乾燥な数字の羅列に強引に意味を与える。そして、そこに登場するオクレ兄さん。そうした構図が忘却の魔の手からあなたを救うのです。
たとえば、090-3892-8310の関係者に問いかけますが、「送れ、砂漠に野菜を」と「オクレ、砂漠に婆さんと」、これはどうでしょう。いったいあなたはどちらを選ぶでしょうか。オクレ兄さんです。オクレ兄さんに決まっています。オクレ兄さんをあなたは選ぶことでしょう。いやいや、そういうことになっているので、そういうことにしておいてください。灼熱の砂漠で婆さんと二人で佇み困惑しているオクレ兄さんという絵が、あなたの記憶を完璧なものにするのです。
今この瞬間も、この空の下のあらゆる場所で携帯電話が鳴っています。さあ、電話に出てみましょう。そうして、一瞬前にオクレ兄さんの姿を思い浮かべた相手と話してみましょう。オクレ兄さんに感謝しながら。
1999年。電話暦では、オクレ元年。
時代は、ようやくオクレ兄さんに追いついたのです。
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人呼んで柳田、というのだそうである。人呼んでも何も、本名が柳田康夫なのである。呼ぼうが呼ぶまいが、柳田である。しかしなぜか、人は「人呼んで柳田」と彼を呼ぶのであった。ヒトヨンデ柳田、である。たとえばたけし軍団の一員とでも考えれば、さほど不思議な呼称ではないような気もする。「よりによって柳田」でも構わないし「言うに事欠いて柳田」でも構わない。そこまで無益な考察を押し進めると、なんとか「人呼んで柳田も普通の人なんだな、名前に似合わずいい奴なんだな」と納得できるようになるというものである。
人呼んで柳田は、居酒屋という小宇宙において、誰かの友達の知り合いの関係者の後輩だかなんだか、そのようなスタンスで、我々の前に出現した。居酒屋で出会ったので、挨拶を交したあとはとりあえずは友達ということになる。
干支が一回り以上違うようだが、人呼んで柳田はやけに人懐こい性格を有しており、すぐに打ち解け、「ランパブ、行きましょうよ~、ランパブ」などと誘いかけてくるのであった。
しかし、集まっている面々はそんなめんどくさそうな場所よりも飲酒をこよなく愛しているのである。自堕落なのである。人呼んで柳田は軽くあしらわれたあげくに、無視された。そして、一同は店舗情報などを交換し合うのであった。
「浜田町の‘かね松’、行った?」「いや、まだ行ってない。どう、あそこ」「品揃えはいいよ」品揃えとは、日本酒の銘柄のことである。「でも、料理がちょっと高い。鯛のつみれはうまかったな。表面だけ炙ってあって、わさび醤油で食うの」「ほほう」
「市民会館の裏通りに‘西ろく’って、あるだろ。よくなったよあそこ」「あ、そうなんだ」「さいきん板さんが変わったんだって。なんでも真鶴で店を構えてたひとらしいんだけど、いろいろあって流れてきたらしい」「いろいろねえ」「ま、うまいもん食わしてくれりゃ、なんでもいいけどね」「ごもっとも」
「あ~、もしもし」
「‘のしろ’って、さいきん行った?」「あ、行った行った。どうしちゃったんだ、あそこ」「それがさ、マスターがさ、蔵元と喧嘩しちゃったんだって。秋田県内の蔵元にお触れが回って、哀れマスター締め出し」「うひゃひゃひゃ、秋田の地酒なんでもあります、とか言ってたのになあ」「白鹿だもんなあ」「松竹梅だもんなあ」「うひゃひゃひゃひゃ」
「あ~、もしもし」
「東雲通りに‘きたもと’ってバーがあるでしょ。レンブラントの贋作が掛かってる」「ああ、あの偏屈なマスターの」「あそこ、近頃ちょっとした料理出すの、知ってた?」「へえ、そうなの。ナッツしか出さないんじゃなかったの?」「それがね、やけに凝ったつきだしが出てきたりするんだよ」「どうしちゃったのよ、いったい」「奥に厨房ができてね」「あったの? あの店に厨房なんか」「だから、最近つくったらしいのよ」「誰が料理つくってんの?」「いや、よくわかんないんだよ」「謎だな」「謎だ」「堕落したな」「堕落したよ。でも、マスターは幸せそうなんだよな」
「あ~、もしもし」
「ところでさ、さっきから、もしもしとか言ってる奴がいるんだけど」
「いるな」
「無視されてるのがわかってない奴な」
「みなさん」人呼んで柳田は、ここぞとばかりに割り込んできた。「無視されて苦節三十分、私が、わたくしこそが、人呼んでヒトヨンデ柳田でございます」
「呼んでないけどな」
「呼ばれてないのがわかってないらしいな」
「みなさん」人呼んで柳田は、咳払いといった効果音を自主上映しながら、めげずに語るのであった。「ランパブ好きは、世を忍ぶ仮の姿。わたくしこと人呼んでヒトヨンデ柳田が、ここに一軒のコリョーリヤと懇意にしている事実は、お釈迦様でも御存じあるめえでござんす」
「変だぞ日本語、ヒトヨンデよ」
「コリョーリヤというのはアレか。あの小料理屋のことか、ヒトヨンデ」
「いかにも」人呼んで柳田は、うなずくのであった。「いかにもあの小料理屋でございます」
「で、俺達をそこへ連れていく、と。ヒトヨンデよ、自信があるわけだな」
「ございます」人呼んで柳田は、自信たっぷりである。「ございますともさあ。がってん承知すのけ」
「あのさあ、ヒトヨンデ」
「はい?」
「日本語は正しく使おうな」
「はい~?」
人呼んで柳田は、よくわかっていないようであった。
「へえ。こんなとこに小料理屋があったとはね」
人呼んで柳田に伴われた暗い路地裏に、その店はあった。看板も提灯も掲げておらず、縄暖簾がかかっていなかったら飲酒をなす場所とはとても思われないたたずまいである。表札に書かれた‘八凪駄’というのが店の名なのだろう。
「なんて読むんだ、これ」
と言いながら一同は縄暖簾をくぐった。こぢんまりした店で、L字型の白木のカウンターに、籐で編まれた椅子が七つ。それが定員。一同がなだれこんだら満員となった。店名の読み方は、すぐに明らかとなった。カウンターの中にいた女将が、すっとんきょうな声で人呼んで柳田を迎えたのだ。
「ああら康夫、こんなにたくさんの人をよく呼んできたねえ。えらいよ」
とたんに、一同は脱力した。こらこら、人呼んで柳田、己の母ちゃんが営む店に連れてきてどうする。‘八凪駄’は‘やなぎだ’に他ならないのであった。
「ううむ。人呼んで柳田とは、そういう意味であったか」
「まさか呼び込みだったとは」
「やだなあ」人呼んで柳田は悪びれないのであった。「スカウトっすよ、スカウト」
「やられたな」
「やられたやられた」
「まあまあ」人呼んで柳田はへこたれないのであった。「とにかく、食ってくださいよ」
「ふむ。まあ、それもそうだな」
「そうそう。とにかく食べて」人呼んで柳田の母も息子の尻馬に乗るのであった。「今日は、なめろうがあるのよ」
「ほほう」一同は身を乗り出すのであった。
二時間後、旨い安い攻撃に白旗を挙げた一同は、深い満足をそれぞれの腹に抱きながら店をあとにした。
「やられたな」
「やられたやられた」
「いや、ヒトヨンデよ、疑ってすまなかった」
「いやはや、すっかり堪能した。ありがとうヒトヨンデ」
「ゑへへへ」人呼んで柳田は照れているようであった。「そりゃもう、俺は人呼んでヒトヨンデ柳田ですから。お茶の子サンザンですよ」
「だからさ、ヒトヨンデ」
「はい?」
「日本語は正しく使おうな」
「はい~?」
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その女性は涙ぐんでいるのであった。なんだかもう、ひたすらに涙ぐんでいるのであった。帰途の電車の中で隣り合わせた女性である。なんとも無防備に瞳を潤ませるその女性こそが、牛山美奈22歳なのであった。実のところは22歳であるかどうかは不明なのだが、つい先頃大学を卒業したのであるから、さしたる誤差はないだろう。とある薬科大のTKCなるサークルで四年の歳月を過ごした牛山美奈は、謝恩会というのか追い出しコンパというのか、そういった宴席からの帰宅途中なのであった。
見ず知らずの他人たる私がどのようにして彼女のそうした氏素性を知ったかといえば、彼女がバッグの中から取り出した一枚の色紙がもたらす情報を読み取ったからに他ならない。色紙を眺めながら思い出多き四年間を涙と共に振り返っている牛山美奈は、まったくもって無防備であって、その色紙を横合いから不躾な視線で眺めやる私の存在にはまったく気づいていないようであった。
色紙中央に、「牛山先輩ありがとう」と、書いた本人はきっと凝ったつもりなのであろうところのレタリング。周囲に放射状のコメント。寄せ書きである。寄せ鍋と並んで人心を和ませてきたあの寄せ書きである。寄せ鍋と共に古来より人々の絆を深めてきたあの寄せ書きなのであった。
たとえば、NOBUYUKIという男がその色紙上において牛山美奈との間の特別な絆を強調している。「美奈センパイとすごしたあの一夜は、けして忘れません。 NOBUYUKI」。どうしたのだ、牛山。NOBUYUKIとの間になにがあったのだ。どんな一夜だったのだ。なにか言ったらどうだ、牛山。
しかし、牛山美奈は追憶通りを過去方面に向かって暴走中であり、涙ぐむばかりなのであった。聞く耳を持たないのであった。ま、私は何も言ってはいないが。
言えなかったのは私だけではない。
「ついに言えなかった。 裕二」という含蓄のあるおことばもあった。これはなかなか深い。言えなかったのか、裕二。よいではないか。言えなくてよかったこともあるのだ、裕二。言わなくてよかったことにはかなわないが、それは確かにあるのだ、裕二。
牛山美奈は後輩の男性陣から慕われていたようであり、告白は続くのであった。「美奈先輩のうなじが好きだった。 by ひさと」。あー、ひさとくん、「by」はやめなさい「by」は。私はひさとくんの審美眼を検証すべく、色紙から牛山美奈のうなじに視線を転じた。
うん。ひさとくん、同感だ。
そうかと思えば、アサミなる女性の貴重な証言もあり、牛山美奈像はぼやけていくのであった。「もう、UFOをデュエットできないんですね。さみしいな。 アサミ」。甘えるなアサミ。人は‘UFO’を歌うために生きているのではないのだ。それにつけても、眼前の牛山美奈はどちらかといえばおとなしげな印象を与える女性であり、よもや頭の後ろから手を出して「ゆーふぉー」などと口走っている姿は想像できないのだが、カラオケはひとを狂わせるという風聞はやはり真実なのかもしれぬ。牛山美奈、一筋縄ではいかないようである。
一方では、牛山美奈の人となりをまったく想起させないコメントもあった。「このトリのからあげはうまいっす。 横田」。ペンを持たせると逆上するタイプであり、この横田くんの心情はよくわかる。なにか気のきいたことを書かなくちゃという強迫観念が、彼を異次元の世界へ旅立たせるのである。色紙に残された彼の一筆は確かに間抜けだが、ねじれきった勘違いのあげくの所業なのだ。ペンを走らせている間、横田くんは「これは絶対面白い」と考えていたに違いないのである。しかし横田くん、同じ失敗をなしてきた同類が衷心から忠告するが、それはつまらないんだよ。
とはいっても、「一期一会 YUKI」などとしたためる輩と比べれば、かなり救いようがあるから、あまり気にするな横田くんよ。ま、ちっとも気にしてないだろうが。私と同類項の横田くんというのは、そういった反省とは無縁の手合いに決まっている。
謎めいたのもあった。「TKC三爆女も解散ですね。これからはアサミとふたりバクハツしていきます。 レイコ」。また出たかアサミ。まったくおまえという奴は。レイコも反省しなさい。
だいたい、三爆女とはなんだ。牛山、それからアサミとレイコ、いったいそれはなんだ。肩を揺さぶって問い質したくなる衝動を、そこは私もオトナだからぐっとこらえ、三爆女と呼ばれた三人のバクハツぶりを想像し、ひとり静かに興奮するばかりなのであった。
寄せ書きを懺悔の場として利用する者もいた。「山中湖かつおぶし事件の真犯人は、実は私なんです。美奈センパイ、ごめんなさい。 Y・N」。こらこらY・Nよ、これで最後というときに、そんなことを告白してどうする。山中湖かつおぶし事件で牛山が負った心の傷は、君が思うよりずっと深いのだぞ。って、なんだろう、山中湖かつおぶし事件とは。合宿の折の料理当番にまつわる冤罪事件であろうと察せられるところだが、どうなんだ牛山。山中湖でなにがあったのだ。誰にも言わないから、Y・Nに対して思うところがあればキタンのない意見を聞かせてはくれまいか。どうだ、牛山。
しかし過ぎ去りし四年という時間に溺れる牛山美奈は、飽きもせずにウサギ目で涙ぐむばかりで、隣で妄想をたくましくしている不遜な輩にはやはりまったく気づいてはいなかった。しっかりしろ牛山。まだまだジンセイは長いのだぞ牛山。
と、不意に牛山美奈が顔をあげた。ようやく、隣からの無遠慮な視線に気づいたらしい。牛山は色紙を見られた事実を即座に悟った。あわててバッグの中にしまいこんだ。
きっ。
と、音を立てて私を睨んだ。幻聴だが。
知らないもんね。見えちゃっただけだもんね。無防備なあんたがいけないんだもんね。と、自己弁護をしてみたが、牛山の目つきはコワイのである。とってもとってもコワイのである。
なんだよう、うしやまあ。睨むなよう。三爆女のくせにい。
たじたじ、と効果音を立てながら後ずさりするばかりの私なのであった。助けてくれよ横田くん。あ、いや、君は頼りにならんな。
そのうちに電車はどこぞの駅に停車し、もともと降りる駅だったのか車両を換えるんだかわからないが、牛山美奈は去っていった。ああ、こわかった。
横田くんよ、卒業してよかったな、ああいう怖いセンパイは。あ、いや、君はそんなことを気にするほど繊細な奴ではなかったな。
それにしても、トリのからあげはいただけなかったな、横田くんよ。
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かねてよりアスピリンとはいつかは対峙せねばならぬと考えていたのである。妙に気になる存在であった。たとえば翻訳物の探偵小説において、アスピリンはその実在性を誇示する。
酷い宿酔いに苛まれながら目覚めたアル中の探偵は、決まってアスピリンを服用するのである。それも二錠だ。なにがどうなっているのか、とにもかくにも「アスピリンを二錠」だ。鎮痛剤とおぼしきアスピリンの適量は、大人の場合二錠なのであろう。いや、本来は一錠で充分なのだが、倍の量を要するほど酷い頭痛なのだという意味合いの常套句なのかもしれぬ。いやいや、もはや既に慣用句と化しているのであって、「アスピリンを二錠のむ」との表現は単に「宿酔いになった」と言っているだけなのかもしれぬ。
そのへんが、かねがね気になっていたのである。アスピリン。明日のピリンである。ピリンってなんだ。アスピリン。アスピの燐である。アスピってなんだ。アスピリン。いったいおまえは何者か。
学名アセチルサリチル酸の商品名、だったのである。一冊の国語辞典がそのように語っている。ううむ、商品名であったのか。するってえと、本邦の探偵が「覚醒は、その親友である宿酔いと共に訪れた。ノーシンを二錠のんだ。頭痛にはやっぱりノーシンだ」などと言っているようなものか。いや、そんなことをほざく探偵が創造されていたかどうかは知らないが。
学名もなかなか味わい深い。チルチルミチル酸の仲間なのか、アセチルサリチル酸である。汗が散って去り散る、というのである。どんな宿酔いにだってボクは当たって砕け散るんだぞ、といった気概が窺える頼もしい名称である。この頭痛のことは君に任せたとすべてを委ねて、ずずずずずと焙じ茶などを啜って悔いのない天晴れな御尊名である。宿酔いなどはどうせ時間にしか解消できないのだ。その毒牙にかかった者は、治る前に再び呑み始めるかどうかしか選択できない。ならば、一時の気休めをアセチルサリチル酸に求めて、なんの不都合があろう。
アスピリンよ、幾億の酔いどれに代わって、私は礼を述べたい。幾億もの気休めを、ありがとう。私は君の恩恵を蒙ったことはないが。
しかし、君の素顔は気になるところである。にわか探偵と化した私は、更なる調査を試みた。ウェブブラウザを立ち上げてマウスを何度かクリックしただけだが。
すると、バイエル薬品株式会社が立派な態度を示していることがわかった。
「母なる自然の助け アスピリン100年 アスピリンは、こうして生まれた」などというタイムリーな企画を白日の下に曝して恬淡としているのであった。なんだかよくわからないが、えらいぞバイエル薬品株式会社。
なんでも、本年3月6日がアスピリン生誕百周年なのだそうである。節目の年だったのである。ノストラダムスさんばかりがもてはやされるのはいかがなものかと、フェリックス・ホフマン博士は、伏し目がちに主張しているのであった。ドイツ・バイエル社のフェリックス・ホフマン博士が「純粋で安定なアスピリン(アセチルサリチル酸)の合成に成功」したのが1897年であり、その二年後にアスピリンが発売されたのであった。フェリックス、私はあんたは今になにか途方もないことをやらかすんじゃないかと思っていたよ。フェリックス、君は多くの探偵達を救っているよ。たった二錠で。あるいは、貴重な二錠で。
百周年である。その劇的な日から百年の時が過ぎた。
数々の百周年を見聞してきたが、これはまたなんともはや地味な中にも静かな凄みを感じさせる百周年ではあった。アスピリン生誕百年。一世紀が過ぎた。
バイエル薬品株式会社は、バイエルアスピリンは90ヶ国以上で販売されているなどとと誇らしげで、アスピリンが登場した文学作品などを掲げて御満悦である。フォーサイス「ジャッカルの日」、チャンドラー「さらば愛しき女よ」、ダール「キス・キス」など。どれも読んだはずだが、どの場面で登場したのかまるっきり憶えていない。当たり前だが。実のところ、欧米の小説にアスピリンは登場しすぎる。スカダーもよくアスピリンのお世話になっておったな。ま、あいつはもう酒を呑んじゃいないが。
探偵は途切れることなく出現し、その何割かが宿酔いがもたらす頭痛を解消するためにアスピリンのお世話になっている。私はバファリンがせいぜいだ。セデスやノーシンに転向してもかまわない。アスピリンを服用できないのなら、なんだって同じだ。
アスピリン。その二錠を服用するには、どこへ行ってどうすればいいのだ。薬局へ行けばいいのだろう。探索を進めるうちに、本邦でもバイエルアスピリンは販売されている事実が判明したのである。非ピリン系だというややこしいアスピリンは、バイエル薬品株式会社がしっかりと販売しているのであった。「有効成分アセチルサリチル酸(アスピリン)が、体内で痛みや熱に関与するプロスタグランジンの合成を抑制し、1回1錠(500mg)で優れた鎮痛効果を発揮します」というのであった。バイエル薬品株式会社はそのように主張してはばからないのであった。
むむむむ。一回一錠か。どうなっておるのだ。やっぱり探偵連中は己のタフネスを誇示するのが習い性になっている、ということか。二錠のまなきゃ俺には効かないぜ、と言っているのか。それとも民族的特質の問題なのか。コーカソイドは二錠を必要とするがモンゴロイドは一錠で充分、ということなのか。単に、錠剤の大きさが異なるのか。どうもよくわからない。
よくわからないが、百周年である。宿酔いが頭痛をもたらす限り、アスピリンの未来は安泰である。飲酒が宿酔いをもたらす限り、アスピリンの未来は安泰である。そこに酒がある限り、アスピリンの未来は安泰なのであった。
いや、よくわからないが。
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昨今の花見の縄張りはレジャーシートで確保される習わしとなっており、その奥座敷に相当する位置でそやつは眠りこけていたのである。この男を仮に耶律楚材としておくが、こやつは呑み疲れたのか睡眠不足か定かではないが、車座から離れ、身体を「そ」の字に横たえて寝入っていたのである。
私を含めたその他の面々は、脱落者については即ち自分の呑み分が増えたとの認識を新たにする奴ばらであった。耶律楚材の存在は早々と念頭を去り、飲酒と馬鹿話にうつつを抜かすことに余念がないのであった。そういうことに余念がないというのもいかがなものか。たとえば、そんな健全で真っ当で反論の余地もない御意見もあるだろう。あるのだろう。あるんだよね、きっと。ぐすん。いや、なにも私が涙を浮かべることはないが。
ぐゎたん。唐突に、奥座敷から異音が響いた。
ぐゎしゃん。続いて、異音第二号。
振り返った一同は、あるひとつの光景を目にすることとなった。寝ぼけ眼で半身を起こした耶律楚材。耶律楚材の足許には彼が蹴倒したらしい空の一升瓶、粉々篇。
束の間、静寂があり、ややあって耶律楚材の間の抜けた声が流れた。
「いやあ、こりゃすまんすまん。今のは震度4くらいだったからさあ」
?
花曇りの下、一同は耶律楚材の発言を理解できず、きょとんとするのであった。震度4。なんだそれは。地震なんか、なかったぞ。自信はないが、地震はなかった。などと情けない駄洒落がついうっかり脳裡をよぎるほど、きょとんとしてしまうのであった。
きょとん一同の混迷を察したのか、耶律楚材は釈明を試みるのであった。
「いやいや、地震なんかなかったよ。地震があったのは俺の身体だ。俺の筋肉がね、からだ地震を起こしたの。んで、一升瓶を蹴っ飛ばしちゃった、と。そういうことなんだよ」
?
一同の混迷はますます深まっていくのであった。どういうことだ。からだ地震。なんだ、それは。耶律楚材、オレ達にはあんたの発言が理解できんぞ。
「あ。わからない? 俺の言ってること」耶律楚材は割れた一升瓶のかけらを拾い集めつつ、更なる弁明をなすのであった。「そりゃ、わからんか。からだ地震は俺語だからな。んとさ、こんなふうにちょいと寒いとこでうたた寝してるとさ、いきなり身体がびくんと震えて目が覚めちゃうことがあるじゃん。あれよ、あれ。俺はそれをね、からだ地震って呼んでるの。さっきは、それが起こったのよ。びくん、となって脚の先にあった一升瓶を蹴っ飛ばしちゃって、こうなっちゃわけよ。震度4だったなあ、あれは」
納得、という概念が、桜の花びらと共にひらひらと、きょとん一同の肩に舞い降りてきた。なるほど、そうであったか。あれか。あの、びくん、か。
しかし、そのびくんを、なにゆえに「からだ地震」と呼ぶのか、耶律楚材よ。当然兆した一同の疑念をすかさず感じとった耶律楚材は、まあ聞けとばかりに解説を加えるのであった。
「そもそもヒトの筋肉というものは、体温調整のためになにかとなにかをするものであって、たとえば寒いときに震えるという行動は、熱を産生しようとしているのである。筋肉を動かすと、熱が生じるのである。寒いときに筋肉が動くのは、きわめて合理的な体温調節機能のなせるわざである。しかし、その主体が寝入っている場合には、なかなかそうもいかない。寒いからといって自主的に筋肉を動かすといった展開にはならない。本人が眠っているからである。しかし本人の意思がどうであろうと、しょせんは単なる動物であるから、肉体的な反応が生じる。体温が低下したのならば、それを上昇させなければならない。筋肉が勝手に動くのである。体温を保たねばならないのである。びくん、である。それは単なる反応である。これ以上体温が低下しちゃちょいとまずいんじゃないか、というときに、筋肉はえいやっとばかりに一気にそれを取り戻そうとする。それが、あの馴染み深いびくんである。たまりにたまったひずみを一息に解放し、喪われた体温を一挙に回復しようとする筋肉の自主的な試みが、あのびくんである。地震に似ているだろう。即ち、からだ地震である」
「おお」
一同は感心をあらわにした。正しいかどうかはわからないが、御立派な御説明である。一同は「人体のふしぎ」といった分野にきわめて疎いので、耶律楚材の主張にすべからく納得してしまうのであった。
そうか。そうであったか。あのびくんは、そういうものであったか。
しかし、冷静な奴はどこにでもいるのであって、一同の中にもいた。
「からだ地震のいわれはよくわかった。しかし、その現象の本当の名前はなんていうんだろう。きっと、ふたつあると思う。一般名詞と医学的な専門用語だ。どちらでもいい。誰か知らないか」
誰も知らないのであった。耶律楚材に至っては、「知らないから、自分勝手に命名してるんだろうが」との御意見である。
もっともである。私もまったく同意見である。呼び名がないのなら、自分で命名するしかないではないか。
「変じゃないか」と、冷静男は疑義を呈するのであった。「誰もが実体験している現象に名称がないのは、変じゃないか」
変ではあろう。医学的専門用語に関しては、この場にいる誰もが門外漢なので、知らないのはこれは仕方がない。彼等は名付けているのだろうが、我々がそれを知らないだけである。
一般名詞はどうか。なぜ、その名がないのか。あるのに、我々が知らないだけなのか。頻繁とはけしていえないが、さほど珍しい現象ではない。しかも、体験している者はきわめて多い。それなのになぜ、名がないか。やはりあるのか。あるのに、我々が知らないだけなのか。
ひとしきり論争が沸き起こったが、結論が出る類の話ではない。
「とりあえず、からだ地震ということにしておこう。今後、我々の間ではあのびくんはからだ地震と呼ぼうじゃないか」
べつに結論を出す必要があるとも思われないが、そういう結論になった。耶律楚材は御満悦である。
御満悦になれない奴が少なくともひとりいた。私である。オレ、急びっくん、って呼んでるんだけどな。急にびっくん、きゅうびっくん。きゅうびっ君。なんだか恥ずかしくて言い出せなかったんだけどさ。そう呼んでるんだよ。
きゅうびっくん。ううん、やっぱり胸の中にそっとしまっておこうっと。
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