『雑文館』:98.02.05から98.05.12までの20本




161 98.02.05 「花の香り」

「フローラルはまずいんじゃないのか」
 風呂から出てきた森崎某は、私に意見するのであった。
 ひとのうちにタダ酒を呑みに来て風呂にまで入りしかも今夜は泊まろうと勝手に決めた男は、その家主が使用しているボディシャンプーに難癖をつけるのであった。
「フローラルは、ちょいと恥しいんじゃないか」
 そのような御主旨である。「植物物語」という製品の、フローラルと名づけられた芳香が漂う代物を、現在私は使用している。べつにこだわりがあるわけではない。たぶんワゴンで安売りをしていたのだろう。
「そもそも浴用石鹸は、牛乳石鹸の固形のものがその白眉とされるが」
 森崎某は滔々と自説を述べるのであった。
「まあ、私もさほど心の狭い人間ではない。柔弱きわまりないボディシャンプーといった新参者を認めないわけではない」
 狭いよなあ、その心。
「さりながら、植物物語とはなんであるか。なにゆえに、貴様はかかる女子供が用いるが如き軟弱な製品を使って恥じないか」
 偏見だなあ。差別感に満ち満ちてるなあ。
「とはいえ、百歩譲って、植物物語は許そう」
 譲ってくれとは言ってないぞオレ。許してくれなくてもいいし。
「しかし、フローラルはだめだ。これはだめだ」
 隠しておいたバーボンを勝手に探し出してその量を半分ほど減らし、そのうえで風呂につかってきた男は、更にそのボトルの中身を自らの胃の腑に移し替えながら、だめだだめだと言い張るのであった。
「だいたい、フローラルとはなんだ」
 森崎某は力みかえった。
 その瞬間、我々は顔を見合わせた。はて? その単語は、いったいどういう意味なのであろうか? この時点でようやく判明したのだが、実は、両者ともに「フローラル」という言葉の意味をよく把握していなかったのであった。
「花に関係あるんじゃないのか」
「花っぽい、ということか」
「なんだそれは」
 ペイジの間から伊藤博文の千円札が発見されるといったささやかなエピソードを折り交ぜつつ、我々は辞書をひもといた。日付も変わって久しい深夜に、いったい何をやっておるのだろう。調査の結果、「floral」とは「花の」という意味の形容詞であることがわかった。
「そのまんま、という感じだな」
「肩透かしを食った気分だな」
「わからないもんだな」
「うむ」
 フローラルとはそういうものであったのか。もっと大層な意味があるのかと思っていたが、恐れるほどのものではなかった。幽霊の正体見たり、といったところか。我々がものを知らないだけだが。
「さて、フローラルがいよいよ恥ずべき代物であることが、これではっきりした」
 森崎某はまたも飛躍するのであった。そのへんが私にはよくわからない。どうも、「花は女のものである」という謎の固定観念があるらしい。「ピンクは女性を表し、青は男性を表す」というような捉え方の敷延らしい。そういう記号論的な見方を、我が家の風呂場に持ち込まれても困る。
「待てよ。たしか、フローラルの香り、と書いてあったはずだな」
 森崎某はいきなり疑念を抱くのであった。
「そうすると、花のの香り、になってしまうな。いかんのではないか」
 どうでもいいじゃねえか、そんなこと。
 だが、私が止める間もなく、森崎某は風呂場に確認しに行ってしまった。そうして、沈痛な面持ちで戻ってきた。
「この議論の前提に、重大な瑕疵が発見された」
 議論ったって、てめえが一方的に偏見を開陳しているだけだろうが。
「議論を初めからやりなおそう」
 何を言いだすのか。
「実は、ボディシャンプーなどではなかったのだ。ボディソープだったのだ」
 森崎某は苦悩に満ちた眼差しで、私に訴えかけるのであった。
「……」
「……」
 やがて、私は言った。「もう寝るわ、オレ」

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162 98.02.06 「乗り越すほど」

 近頃、なんのつもりか電車で通勤している。知り合いに会いそうでなかなか会わないのが電車であると万葉集にも歌われているが、本日は帰途の車中でタヌキちゃんを見かけた。
 うら若き女性に対してタヌキちゃんとは失敬千万とも思えるが、周囲の人々は当り前のように彼女をそう呼ぶし本人も当り前のようにそう呼ばれているので、私も当り前のようにそう呼んでいる。田貫という苗字なのかもしれない。はたちそこそこの快活な女の子だ。タヌキちゃんは私が昼食の際に時折訪れる喫茶店のウェイトレスであるから、「タヌキちゃん、Aランチね」が、基本的な用法だ。応用としてはもちろん、「タヌキちゃん、Bランチね」が挙げられる。
 タヌキちゃんは、なにやら熱心に文庫本を読んでいた。声をかけようかともふと思ったが、当然のことながら読書の邪魔をするのは失礼だ。まさか、ランチをオーダーするわけにもいかない。ランチの時間はとうに終わっている。それに、私は私で、岳宏一郎を読まねばならない。
 タヌキちゃんは、私と同じ駅で降りた。わりと近所に住んでいるのかな。まず、そう考えた。しかし、タヌキちゃんの様子が、どうもおかしい。ホームに佇んだまま、ぼうっとしている。頬が上気して、心ここにあらずといった風情だ。なおも眺めていると、やがてこちらの存在に気づいたらしく、気恥ずかしげにぺこりとお辞儀をした。
 まさか、Aランチね、とは言えない。タヌキちゃんに歩み寄った私は、「どうしたの?」と訊いた。
「乗り越しちゃったんです」
 タヌキちゃんの返事は単純明解であった。
「ふた駅も乗り越しちゃったんです」
 にこにこしながら、タヌキちゃんは言うのであった。
「そりゃまた、どうして。眠ってたわけじゃないだろうに」
 タヌキちゃんはずっと本を読んでいたはずだ。
「本に熱中して、降りるの忘れちゃったんです」
「ははあ。なるほど」
 私も書物に熱中するあまりの乗り越しは時々やらかす。あれは物悲しい失態だ。しかし、活字を所持せずに電車に乗るなどという暴挙は金輪際できない。約束の時間に遅刻してもかまわないから、せめて売店で新聞くらいは求めたい。そういう体質である。なんらかの活字を持っていないと、気が狂いそうになる。かといって、手にした活字を読まないこともある。読もうと思えばいつでも読める、という情況の確保が重要なのだ。老い先短いこの人生、この厄介な体質となんとか折り合いをつけながら、電車に乗っていく他はないだろう。幸い、こういう活字中毒者はかなり多いらしいので、その点での疎外感がないのが救いと言えば言える。
 だが、私は甘かった。私の認識は、実に甘かった。書物に耽溺して乗り越すのは、けして失態ではなかったのだ。
「乗り越したにしては、やけに嬉しそうだね」
 私は、なんの気なしに、訊いた。
 そして、私の問いに対するタヌキちゃんの回答は、完全に私の意表をついた。
「え? 嬉しいと変ですか? 乗り越すほど素敵な本に出逢ったんですよ。嬉しいじゃないですか」
 私は、呆然とした。頬を、思いっ切りひっぱたかれた気がした。私は、ことばを失った。
 そのとき、タヌキちゃんが引き返すべき電車の出発を告げるアナウンスが流れた。タヌキちゃんは、またぺこりとお辞儀をして、車内に駈け込んで行った。
 私は依然として語るべきことばを失ったままで、タヌキちゃんを見送った。
 書物に熱中したあまり乗り越す。それは、大いに喜ぶべきことだったのだ。失態なんかじゃなかった。尊ぶべきことだったのだ。
 私は打ちひしがれた。はたちそこそこの女の子に、こんなにも単純でこんなにも大切なことを教えられている。
 タヌキちゃんを乗せた電車は、あっというまに見えなくなった。
 いったい私は、今までなにを学んできたのだろう。

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163 98.02.07 「何番線やろか」

 JR和歌山線は、和歌山と奈良を結ぶ路線かと思われるが、正確なところは知らない。私はその中ほどの二区間を利用するだけである。また訪れることがあるかどうかもわからない通りすがりの者にすぎない。
 真田庵へは南海高野線の九度山駅経由で辿り着いたのだから、帰途は同様に引き返せばよさそうなものだが、どのみち単独行で明確な行動指針があるわけでもない。真田庵を出た私は、JR高野口駅に向かった。
 どこにでも妙な人物は出現するものだが、昼間は無人駅となるJR高野口駅にも現れた。このおっちゃんは、閑散とした構内に居合わせたすべての人物に同じ問いを発するのであった。
「すんまへん。難波に行くには、橋本駅で何番線に乗ればええんやろか」
 ネイティブスピーカーではないので正確な再現はできないが、だいたいそのような主旨の質問である。難波へ辿り着くには、二駅先のJR橋本駅で南海高野線に乗り換えればよい。
 私は、ささささっとホームへと逃げ込んだ。きっと誰かがおっちゃんに正答を与えるだろう。私もおっちゃんと同じ経路で難波に向かうのだが、おっちゃんの問いには答えられない。そんなことは橋本駅に着けばわかるではないか。何番線かを知る必要もない。案内板に従って進めばよい。
 しかし、おっちゃんには何かよんどころのない事情があるのだろう。やたらと尋ね回るのであった。電車には滅多に乗らないのだろう。「家族に何度も確認して高野口駅までやって来たというのに、なんということだ、橋本駅で何番線に乗り換えるかを失念してしまった。俺はなんという間抜けなのだ。どうすればいいのだ。乗り間違って高野山に行ったらどうするのだ。何番線だ。何番線なのだ。俺の人生は何番線かにかかっている。誰かに訊かねば。訊かねばの娘」そういった成り行きで、おっちゃんは尋ね回っているのでないか。
 構内は人材不足であったらしい。誰もおっちゃんに正しき道を教示できなかったようだ。でなければ、おっちゃんがベンチに座っている私の前に来ることはない。
 何を尋ねられるかを予め知っている場合には、回答を用意しておくのが常識であろう。貴社の先見性、将来性を鑑み、とかなんとか。だが、尋ねてくるとは思いもしなかった人物が目前にやって来て、そのくせ一瞬後に発せられる質問を熟知している、といった情況にはどう対処すればよいのであろうか。
「すんまへん。難波に行くには、橋本駅で何番線に乗ればええんやろか」
「すんまへん。わかりまへんのや」
 あわてふためいて、謎の関西弁を弄する私なのであった。
 どうして、そうなってしまうのだろう。頼むから、誰か答ってやってくれよ、おっちゃんの質問に。
 おっちゃんは、ホームにいたすべての人物に問い掛け始めた。誰も答えられないらしい。考えてみれば、そういうものなのかもしれない。何番線であろうが、その数字を予め知っておく意味はほとんどない。そこに着けば、案内板やアナウンスが懇切丁寧に乗るべき電車を教えてくれる。着けばわかることなのだ。
 だが、おっちゃんは、そうは考えない。自分が辿り着くべきホームの数字は知悉しておくのが、おっちゃんの哲学だ。忘れてしまったのなら誰にでも尋ねるのが、おっちゃんの生き方だ。
 やがてやって来た電車に乗り込んだおっちゃんは、自らの生き方を貫くのであった。さっそく車内を歩き回り、乗客をひとりひとり問い詰め始めた。先ほどからずっと眺めていると、もはや問い詰めると表現した方が適切ではないか、と思えてくるのだ。おっちゃんの魔力である。実際に、ふた駅先が橋本駅であり、おっちゃんは切迫している。次第に余裕がなくなりつつあり、語調もきつくなっている。
 やはり誰も答えられない。尋ねられた中には、何番線かはわかっているひともいたのではないか。「あらためて真っ向から尋ねられると、とたんに自信がなくなってくるな。万が一まちがっていたとしたら、このおっちゃんは苦情を申し立ててくるんじゃないかなあ。だったら、知らないと言っておこうっと。みんなもそう答えてるようだし」そういった思考を辿ったひともいたのではないか。
 ついに、電車は橋本駅に着いた。おっちゃんは、人の流れに乗って南海高野線に乗り込んだ。とくに迷った様子もない。
 な、そうだろ、おっちゃん、着けばわかるんだよ。ひとに訊くことなんかないんだってば。
 だが、おっちゃんはおっちゃんであった。おっちゃん以外のなにものでもなかった。電車を乗り換えたくらいでは、生き方を変えたりしないのであった。
 おっちゃんは、車内の人々に尋ね始めた。
「すんまへん。梅田に行くには、難波駅で何番線に乗ればええんやろか」

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164 98.02.09 「彼等の懐かしき日々」

 ドラクエという単語が鼓膜に響き、私は思わず耳をそばだてた。
 ひとと待ち合わせをしていたのだが、ま、それはどうでもよい。ぼ~っと間の抜けた面を曝して夕闇の雑踏に突っ立っていると、大学生と思われる二人の会話が耳に入ってきた。彼等も誰かを待っているらしいが、とりあえずはドラクエの話題に花を咲かせている。ローラ姫、ラダトーム、シャンパーニの塔、ベホマ、ミミック、はぐれメタル、幸せの靴などといった馴染み深い単語が飛び交うのであった。
 私も一連のドラクエシリーズには寝食を忘れて入れ揚げたクチだが、どうも二人の捉え方はずいぶん私とは違うようだ。二人は「懐かしむ」といった雰囲気を濃厚に漂わせながら、ドラクエを語るのであった。そういう話題の取り扱い方は知っている。私の世代が、たとえばウルトラマンについて語るとき、やはり似たような空気を醸し出す。
 それがなんであれ、懐かしむという行為の背景には、当時の自分と現在の自分との間にはかなりの隔たりがあるとの認識が明白に存在する。ドラクエやウルトラマンを懐かしんではいるのだが、その裏側では、そういうものに耽溺した自分を懐古している。成長か退歩かは知らないが、どちらにしろ変化した自分の確認作業である一面は否定し難い。いまの自分はあの頃とは違うから、懐かしい。見かけ上の対象となっているドラクエやウルトラマンが懐かしいのではない。それは触媒に過ぎない。あんなものに熱中していた自分が懐かしいから、あんなものを懐かしく思い出す。あんなひとに熱中していた自分が懐かしいから、あんなひとを懐かしく思い出す。懐かしいのは、幼かった自分である。戻れない、あるいは戻らないから、安心して懐かしむ。旧懐は、その場所から遠去かってしまった自分を確かめる作業の表層的心情に過ぎない。
 なお、以上の懐古理論は、話の展開の都合上、今とっさにでっちあげた極論なので、鵜呑みにされては困る。いや、ほんとは困らないが、ともかく嘘八百である。
 ドラクエは、私にとっては別に懐かしいゲイムではない。ついこのあいだ耽溺したばかりのゲイムのひとつである。私自身にも私を取り巻く環境にもさしたる変化がないので、そういう見解を抱かざるをえない。そこへはすぐに戻っていける。ファミコンにカセットを差し込み、スイッチを入れるだけの話だ。
 しかし、私の傍らで夢中で語り合う大学生二人が同じ行為をしたとすると、彼等の胸中には感慨が横切るのである。二人にとってのドラクエは、子供の頃にのぼせあがった特別なゲイムなのだ。彼等はあまたの裏技やダンジョンの奥深くで入手できるアイテムを確認し合いながら、異様なテンションで盛り上がっていくのであった。
 初期三部作は特別なものというのが、二人の共通認識であるようだった。四作目以降は、なにか違う別なものであるらしい。そういう差別化はよくわかる。思い入れが甚だしい分だけ、ひとは排他的になる。私にとっても、帰ってきたウルトラマン以降は別なものである。ウルトラセブンまでしか認めない。きわめて狭量なのだが、そういう傍若無人の思い入れなくしては、記憶の中の宝物は保持できないのだから仕方がない。
 そのうちに、二人の一方がカツアゲ体験を白状し始めたので、私はこみあげる笑いを噛み殺すのに往生した。発売日に購入したての下級生を脅してブツを巻き上げるという例のアレだ。
 そうか、君がやっておったのか。社会面に彩りを添えたあの騒ぎを巻き起こしたのは君であったか。そうまでしてドラクエをやりたかったか、あの頃の君は。
 懐かしい日々は、彼等のどこかに引っかかっている。
 私の待ち人より、彼等の待ち人のほうが早く到着した。女の子が二人。どう見ても中学生である。あらまあ。その会話を洩れ承るところによると、その四名の若人はこのあと、ある種の条例を黙殺した所業に及ぶらしい。あらまあ。
 ローラ姫の救出行は、彼等にとっては遥かな日々の夢物語であるらしかった。

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165 98.02.11 「大舞台」

 BSチューナーがとうとうあの世に召されてしまった。昨年末頃より妙に画面が赤っぽくなり、その余命がいくばくもないことを明示していたのだが、このたびついに天寿を全うしてしまった。ソウルオリンピック観たさに購入したのだから、十年弱の天命であった。わりと長生きしたほうかもしれない。って、犬じゃないんだ犬じゃ。
 受験生諸君にとっては今が最も大事な時かもしれないが、私にとっても今が最も大切な時である。冬季オリンピックというものを満足に観られないのだ。受験生諸君には来年があるが、私のオリンピックには来年がないのだ。
 なにゆえに、この時期を狙いすましたかのように、命を絶つか。私がいったいなにをしたというのだ。ちゃんとNHKには年貢を納めてきたではないか。WOWOWに加入しないのを恨んでいたのか。もしそうなら、済まないことをした。映画さえ放送しなければ、加入するにやぶさかではないのだが。
 結局、仕方なく地上波によるオリンピック映像を眺めている。公共民放を問わず地上波の報道姿勢には予想通りうんざりさせられるのだが、そんな繰り言はおいといて、やはり「おおぶたい」が多数派なのであった。これまで六人のアナウンサーが「大舞台」を口にしたのを聞いたが、五人が「おおぶたい」、ひとりが「だいぶたい」であった。まだサンプルが少ないが、だいぶたい派の私の旗色はまだ悪い。アナウンサーの裁量に任されているのではなく、各々の放送局の内部規範によるのかもしれないが、とにかく「だいぶたい」は覇気がない。少数派だ。
 「おおぶたい」は、どうにもむずがゆい。私のねじくれた言語感覚では「大舞台」は「だいぶたい」である。ところが、これは辞書業界からは無視された言い草なのだ。見捨てられた少数意見なのだ。「おおぶたい」が、一般的であり普通であり常識であり普遍的である。
 この件について、かつて言葉の専門家に教えを乞うたことがある。基本的には「だい」は漢語に付着し「おお」は和語にへばりつく、との御教示を賜った。しかるに、「舞台」は漢語である。ここで、「舞台」は漢語的であるか否か、という問題が浮上する。漢語ではあるが、漢語的ではないのではないか、というたいへんわかりにくい疑念が、表面化するのだ。ここまでくると、私にはなにがなんだかわからない。
 原則に従えば、漢語たる「舞台」に「大」という帽子をかぶれば、「だいぶたい」となるはずなのだ。そうはいっても、「おおぶたい」である。なぜならば、「舞台」という言葉を漢語というエリアに取り込ませまいとするチカラを、「舞台」はすでに築いてしまったからだ。原則は原則だから原則なのだ。「舞台」は漢語でありながら、ほとんど和語と化している。だから、「おおぶたい」なのであった。
 というような理論構成は、アタマは納得できるがココロは納得できない。アタマでは非常によくわかる。アタマではすっきり理解できる。
 とはいっても、私のココロは煩悩の虜だからなあ。ま、私の中の軋轢はどうでもよいが。
 和語、漢語、とくれば、外来語はどうなんだ。とも、思う。「大サービス」はなんと読むか。まあ、漢語も外来語も同じようなもんか。
 つまるところは、和語と漢語とで分類する自分が、どうにも間が抜けているとしかいいようがない。そんなこと考えて言葉を使うひとはいないもんなあ。
 もはや、BSチューナーなどという時代錯誤の装置は販売されてはいないだろう。販売していたとしてもそれは高価に違いない。同じ価格でBSチューナー内臓テレビを贖なうことができると思われる。
 惨敗、私はいま人生の大きな大きな舞台に立っている。新しいテレビを、買うべきか買わざるべきか。大舞台である。もちろん、だいぶたい、である。カネは、ない。もちろん、ない。しかし、未来はある。クレジットカードという名の未来は、ある。遥か長い道のりを歩き始めた私に幸せはあるのか。
 どんな道だかよくわかんないけど。

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166 98.02.14 「邂逅の記」

 これまでも赤の他人で、今後もきっと赤の他人だろう。先のことはわからないが、たぶんそうだろう。こちらにしてみればそういう位置付けの人物である。おそらくあちらも御同様だろう。
 一日のうちに同じ人物に何度か出会う。時間をおいて、異なる場所で。出会うというより、見掛け合うといったところか。お互いがお互いの存在を認知する。べつに挨拶を交わすわけではない。あれれ、さっきも会ったな、あのひと、と思う。むこうも、たぶんそう思っている。こちらと同じく、あれれ、という顔をしている。
 気づくのは二回目からだ。仕事先の某市役所で擦れ違った。こちらと同年輩のサラリーマン風。擦れ違ってから気がついた。いまのひとは、今朝、電車の中で隣り合わせたひとじゃなかったかな。歩きながらちらりと後方を振り返ると、彼も同様の行為をしていたので、若干うろたえた。ここまではよくある話である。翌日になれば憶えていない。
 昼食を摂るために初めて訪れた定食屋で出くわしたのが三回目。そっと驚くわけにもいかず、私は思わず立ち止まった。慌てて会釈をしてしまったところ、彼は鶏の唐揚げとおぼしき物体を口にしたまま、がくがくと顔を上下させた。彼の方が慌てたらしい。彼も私も、べつに会釈をする必要はないのである。偶然が重なった結果に過ぎない。似たような立場にある似たような人物が似たような行動様式を辿っただけのことである。よくよく考えれば、不思議でもなんでもない。かつて同じような体験をしたこともあるようにも思える。奇遇というほどのものではない。あってもおかしくない話である。来週になれば忘れている。
 夜になって、帰途書店に立ち寄った私は、またしても彼を見掛けた。偶然という現象について、なにかしら考えざるをえない。四回目である。記録的である。自己新、というようなものだろうか。日本記録や世界記録は何回くらいなのだろう。どこへ行けばその記録がわかるのだろう。国際邂逅委員会は、いったいなにをやっているのか。
 彼はまだ私に気づいていない。これがある種の人物であれば対応は決まっている。「よくお会いしますね、お嬢さん。これもなにかの縁です。どうですか、そこらでモツの煮込みでも」。しかし彼は特に私の興味に訴える人物ではない。見なかったことにして立ち去ろうかと考えたが、購入したい雑誌を手にするためには彼の横を通り過ぎなければならない。
 逡巡していると、彼のほうが私に気づいた。「あ」
 他にどういう態度をとってよいか思いつかず、私はとりあえず会釈した。
「よくお会いしますね」同時に同じ科白を口にしていた。「ええ」
 ふと、妙な間があった。なにか新たなる展開が生じるか、といった微妙な一瞬が、彼と私の間をすり抜けていった。
 そんな展開を期待する理由は、私の裡にはなかった。彼も同じだろう。
「それじゃ」
 もごもごと呟きながら、擦れ違う私達なのであった。

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167 98.02.15 「シャーベットの憂鬱」

 またしても雪。当たり年らしい。
 このたびの降雪量はさほどのものではないらしく、シャーベット状が出馬するかどうかはまだわからない。シャーベット状は今年の当たり語で、関東地方では主にニュースや天気予報を中心に活躍している。実際には、降雪の翌日の路上に活動の場を求める性癖があり、交通事故の原因としてその名を馳せている。
 注意せよ、とマスメディアは語るのであった。危険だぞ、転ぶな滑るな転がるな、と。
 シャーベットにとっては、降って湧いた受難の日々となった。来たるべき夏に備えて鋭気を養っていたところ、いきなりのお召しだ。しかも、慣れない冬の舞台に立ってみれば、状と名乗る得体の知れない輩と強制的にコンビを組まされているのである。シャーベットの胸に兆した名状しがたい不安、推して知るべしであろう。シャーベットにとっては、惨々なオフシーズンである。
 宿命のライバルたるアイスクリームの勝ち誇った表情を思い浮かべながら唇を噛みしめるシャーベットの、ここが切所である。シャーベットは氷菓の一種としてあまたの婦女子の支援を得た他、主にデザート界において数々の成功を収めてきたのだが、その輝かしい経歴に瑕疵が刻まれつつある。由々しき事態と言えよう。
 状である。状のせいだ。状がシャーベットを窮地に追い詰めている。
 立つんだ、状。などと呼ばれて、のこのこ出てきてシャーベットにぴったんことくっついちゃったのだ。
 状も機嫌のいいときは、年賀にくっついて人様の交流のお役に立ったり、告訴にへばりついて正義の何たるかを語ったりしてきたのだが、いまシャーベットにフジツボのように強固に付着してその最も醜悪な一面を露呈しているのである。
 アスファルトの上で固体と液体の境界線をたゆたう、降り積もった雪である。本来、シャーベットにはなんの関わりもなかった。その状態が似ているからといって、似ているからといって、からといって、シャーベット状ときたもんだ。不運なり、シャーベット。
 諸悪の根源は、状だ。状さえ背後に現れなければ、こんな沙汰にはならなかったのだ。状が出現した瞬間から、シャーベットの人生は暗転した。アイスクリームの牙城を崩すことだけを考えていた日々に、突如として冤罪が降りかかってきたのである。
 状という名の疫病神は、シャーベットが築いてきた地道な営為を粉々に打ち砕いてしまったのだ。
 シャーベットは叫びたいだろう。オレは誰も滑らせていない。転ばしてなんかいない。交通事故なんか起こしていない。それは、雪の仕業じゃないか。
 さよう、シャーベット状の雪の仕業に他ならない。シャーベット状の雪には、情状酌量の余地もない。そう、シャーベット状の雪には。
 やがて、春の訪れとともに、状はシャーベットの許を離れていくだろう。そのときにはもはや、シャーベットの名声は地に堕ちている。陽炎の向こうでほくそ笑んでいるだろうアイスクリームの後ろ姿を追いかけながら、シャーベットはまた夏への扉を目指して歩き出さなければならない。遥かな距離を埋めなければならない。失った時間を取り戻さなければならない。
 シャーベットの憂鬱は、終わらない。

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168 98.02.16 「傷ついても独り」

 侮り難し、自動改札機。
 右手親指の腹に痛みを覚え、私は思わず立ち止まった。駅の雑踏でいきなり立ち止まれば、周囲にたいへんな御迷惑をかけてしまう。私はたちまち背後から突き飛ばされ、人の流れから弾き出された。人波から落伍した私は、しげしげと右手親指を見つめた。縦に一センチほどの切り傷。ちょうど血が吹き出したところであった。
 ううむ。イオカードで怪我をするとは、あまり誉められた話ではないのではないか。いや、いっそここはむしろ積極的に、かなりマヌケであると断言してみたい。してみたからといって、どうなるものでもないが。
 どうやら本日の私には油断があったようだ。禁物と語られて久しい油断が、私の心の空隙を見事に衝いたのである。いつも空隙だらけではあるが、それは言いっこなしである。
 イオカードは、自動改札機に吸い込まれる瞬間、私の右手親指の腹に一センチほどの切り傷を残したのだ。困ったことになった。これでは拇印を押すときに示しがつかないではないか。誰に示しをつけようとしているのか、私にもわからないが。
 イオカードとは、JR東日本が発行している自動改札用のプリペイドカードであり、テレホンカードに酷似した人相風体を宿している。バタフライナイフばかりが凶器ではない。近所でも評判のあの真面目でおとなしいイオカードでさえ、ひとたび牙を向けば人を傷つけるのだ。都会の深層に潜む暗黒の亀裂が、その凶暴な牙を閃かせた魔の一瞬だったと言えるのではないか。言えなくてもよいが。
 そのいちばん右側の自動改札機には、かねてより注意していたのである。札付きの問題機であり、しょっちゅう修理だか整備だか調整だかを受けていて、通過不能となっていることが多かった。通行拒否自動、と密かに名付けて悦に入っていた報いであろうか。本日、鮮やかなしっぺ返しを繰り出されてしまった。その意気は買える。敵ながら天晴れだ。
 その問題機にはムラっ気があった。カードの投入から射出までの時間が、他の優良機に比べて心なしか長い。センサーの精度が低いのか、時々扉を閉めて通りゃんせ攻撃を仕掛けてくる。そしてなにより、投入時における引き込む力が異様に強いのであった。特筆すべき吸引力であり、カードから手を離すタイミングに気を使わねばならない。うっかりすると、カードの側部で切り傷をつくられそうなほどだ。
 つくられたわけだが。
 その遠慮を知らない吸引力が瞬間的にカードに与える移動速度は、いったいいかほどのものであろうか。裏ロムが仕込まれているとの嫌疑が拭えない問題機は、暴力的な貪欲さでカードを呑み込み、通り過ぎる人々の指を傷つけているのであった。
 のであった。のであったはずだ。違うのか。
 私は、しばらくの間、問題機を使用する人の流れを観察してみた。
 あれれ。変だな。話が違う。いやはやどうも、誰もがなんてこともなく問題機を通り過ぎていくではないか。誰ひとり、負傷した様子はない。
 オレだけか。オレだけなのか。オレだけが粗忽なのか。ぐすん。私は足許の小石を蹴ろうとした。が、こういうときに限って、足許に小石はないのである。惜しいなあ。こんな場面では、小石を蹴って背中を丸めながらとぼとぼと立ち去るのが、この列島における伝統的な習慣となっているのだが。
 つまんねえなあ。傷ついちゃうよなあ。いや、もう傷ついていたのか。
 それにしても、意外に深いなこの傷は。

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169 98.02.19 「ねえねえ、レジのおねえさん」

「298円、80円値引きです。188円、30円値引きです。244円、50円値引きです」
 ねえねえ、レジのおねえさん、なにもそんなに連呼しなくても。まるで私が値引きのシールが貼られた品ばかりを選りすぐったみたいじゃないですか。
 たまたまなんです。本日は、たまたまですね、値引き品ばかりが集中しちゃっただけなんです。いつもの私は、値引き品なんて見向きもしないんです。い、いや、見向きはします。む。わかりました、本当のことを言います。時々、値引き品を買います。
 ……すいません、懴悔します。私は、値引き品を、頻繁に買います。閉店間際の値引き品なしに、私の食生活は成り立ちません。
 でもね、レジのおねえさん、そればっかり買ってるわけじゃないんだよ。今日はね、たまたま、値引き品の比率が多かっただけなの。ちょっとね。ちょっと多かっただけなのよ。たまたまなの、たまたま。なんだったら見せましょうか、私のたまたま。
「326円、50円値引きです。148円、20円値引きです」
 ねえねえ、レジのおねえさん、だからさ、いちいち確かめなくてもいいんじゃないですか。私はね、わかってるの。かごの中に値引き品が多いことは重々承知してるの。こと細かに確認していただかなくて結構なんです。おねえさん、その顎の線がきれいなんだけど、その職務に律儀な姿勢が惜しいところだなあ。
「238円。184円」
 ね。ね。値引き品じゃないのも買ってるんだよ。その238円の豚コマなんかね、色つやを吟味しちゃったんです。
 こう見えても、ってあなたのつぶらな瞳に私がどう見えているのかはわかりませんが、私は体面を重んずる質なんです。ねえねえ、レジのおねえさん、だからさ、値引きの金額は省いてもいいんじゃないですか。この期に及んで、なにもいちいち読み上げなくてもいいじゃありませんか。いやもちろん、あなた方の行動の規範となっている接客マニュアルというものが存在するのは知っています。レジ係としてはきはきと全てを読み上げるべく、あなた方が日々精進なさっておられるのは存じております。
「84円、20円値引きです。452円、90円値引きです」
 だからって、なにもそんなに職務に忠実にならなくても。杓子定規ばかりじゃこの世はうまく転がっていきませんよ。もっと融通をきかせてみてはいかがなものか、私はかように進言いたしたい。言わぬが花、とも言うじゃないですか。あうんの呼吸で、わかってくださいよ。私とあなたの仲じゃないですか。いや、初めて会ったばかりですが。
 差し出がましいようですが、その冷たい口調はなんとかしたほうがいいんじゃないでしょうか。そりゃあ、あなたも支店対抗レジ大会で好成績を納め、店長から顕彰された輝かしい歴史があるのかもしれません。ミス・レジ娘とちやほやされた甘美な記憶があるのかもしれません。しかしですね、世の中はマニュアル通りではやっていけないんです。世の趨勢は規制緩和です。ねえねえ、レジのおねえさん、あなたにも情があるのなら、弾力的な運用があってもよろしいんじゃないでしょうか。
 もはや私の体面なんか、どうでもいいんです。私はあなたの将来を思って、あえて苦言を呈しているのです。しかし、私の苦衷はあなたに伝わりません。私はそれが哀しい。
「2162円のお買い上げです。ありがとうございました」
 ……ま、値引きの合計金額を言わなかったから許してやるとするか。

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170 98.02.21 「ワカメよ、ネギよ。」

 ワカメを、ネギを、我々の手に取り戻せ。
 と、いうような運びとなった。どうしてそうなるのか全く不明だが、成り行きなので仕方がない。我々三名は意気揚々と、とりあえず手近な立ち食い蕎麦屋を目指すのであった。
 発端はキョウジの嘆きであった。彼が永年のあいだ惜しみなく注ぎ続けた愛が、裏切られたというのである。立ち食い蕎麦屋、常盤軒が、キョウジを裏切った。つい先ごろ常盤軒の経営戦略に極めて甚大な転換が見られた、とキョウジは涙ながらに言い募るのであった。
 聞けば、酷い話である。それまで常盤軒は、具という重大事についてたいへん太っ腹な見解を有していた。ワカメとネギがその傍証である。常盤軒は、その投入量の加減を客の裁量に委ねていたのである。ワカメとネギは、客が入れる。己の嗜好の赴くままに、客が入れる。店のおばちゃんは、いっさい口出ししない。信頼とはかくあるべしという美しい共生である。キョウジはそんな常盤軒をこよなく愛していた。心の安寧を得ていた。しかし、キョウジの人生はいきなり暗転した。
 ああ、常盤軒よ、おまえもか。ある日、常盤軒を訪れたキョウジは、楽園が喪われた事実に直面し、慄然とした。おばちゃんが無造作に入れるワカメ。おばちゃんが無造作に入れるネギ。客の嗜好発露の場は、もはや七味唐辛子にしか残されていなかった。そんなのは常盤軒じゃない。キョウジの自由は、またひとつ剥奪された。常盤軒の天こ盛りのワカメが俺の数少ない贅沢だったのだ、俺達に許されたささやかな自由がどんどん削り取られてゆく、キョウジは唇を噛み締めてつぶやくのであった。
 私は大いに共感した。私もかねがねその点については鬱屈する不満を抑えかねていたのだ。いったいいつの頃から、立ち食い蕎麦屋はワカメやネギの生殺与奪権を客から奪ってしまったのか。貴重な良心と思われた常盤軒も、ついに転向してしまった。立ち食い蕎麦屋のオアシスが消えていく。砂漠化が進んでいく。
 さあ、いくらでも取っていきなさい、たんとお食べなさい。そんなふうに優しく語りかけながら、カウンターに置かれていたワカメ達よ、ネギ達よ。君達が不本意ながらも経営者側の軍門に降って久しい。そろそろ、我々の許に帰ってこないか。
 懐かしがってばかりもいられない。志を同じくすることを確認したワカメ派のキョウジとネギ派の私は、党派を乗り越え、一致団結してコトにあたることを決意した。
 そこへ現れたのが、マミという者である。彼女もまた、近年の立ち食い蕎麦屋のあり方に強い疑念を抱く懊悩の士であった。マミはネギが苦手という決定的な弱点を保持していた。しかるに、昨今の立ち食い蕎麦屋のテイタラクはいったいなんなのよ、入れないでよネギを、入れないでって言ってるでしょ、きーっ、それからワカメもちょっと苦手なのよね。といった苦衷の顛末を経て、立ち食い蕎麦屋の現状を愁えるに至った剛の者である。
 マミのネギは私が請け負うことにしよう。マミのワカメはキョウジの担当だ。利害は一致し、ここに共同戦線は成立した。
 我々は、仮想敵の検証にかかった。まず考えなければならないのは、「ワカメが嫌ならいらないと言えばいいじゃん。ネギをたくさん入れて欲しいのなら素直にそう言えばいいじゃん。言えばその通りにしてくれるよ、立ち食い蕎麦屋のおばちゃんは」などと能天気に語る一派である。デリカシーというものを母親の胎内に置き忘れてきた手合いであり、およそ度し難い。
 そんなことはあらためて指摘されなくてもわかっている。我々は物事の根本を改革しようとしているのである。「おばちゃん、ネギをちょっと多めに入れてよ」そんなたわけた発言を口にできるはずもない。そんなさもしい言辞を弄するほど我々は落ちぶれてはいない。「おばちゃんごめんね、わたし、ネギはいらないの」そんな不遜な物言いができるはずもない。ひとが思いがけないことばで傷つくことを、我々は知っている。
 おばちゃんにはおばちゃんの仕事がある。与えられた仕事がある。我々は、それを侵害したりはしない。自分の些細なわがままでおばちゃんの仕事を増やすには、我々の神経は繊細に過ぎる。ひとに優しい昔の取り放題システムが蘇れば、すべては解決する。システムそれ自体を改変すべく、我々三人は立ち上がったのである。
 こうして、社会に適合できないという共通の特質を抱えた三人は、世直しのために立ち食い蕎麦屋に赴くことになったのであった。
 途上で綿密な作戦会議が催された。各人の意気は高く、次々に魅力的な戦略が立案された。
 戦場に到着した我々は、かけうどんを所望した。ワカメやネギの存在が際立つ選択である。三つのかけうどんを前に、マミの丼からキョウジはワカメを私はネギを、それぞれ救い取って各々の丼に移しかえた。ここで作戦にいささかの齟齬が生じた。この作業はこれみよがしに行われるはずだったのだ。現状のシステムは客の側にこういう余計な作業を強いているという無言のアピールであるから、もちろん店側に伝達されなければならない。これみよがしでなければならなかった。しかし、実際にはなにかしら申し訳なさそうにこそこそと行われてしまった。
 卒然と、我々は気づいた。そうだったのである、実にどうも、我々は気が弱かったのである。
 うっかりしていた。自らの気の弱さを全く考慮せずに戦略を立てていたのだ。我々は気が弱いばかりではなく、粗忽者でもあった。いささか傍若無人な戦略を実行する資質が自らにあるかとの事前検証作業を、完全に失念していた。
 次なる作戦も、当然のことながら破綻した。「なぜ要求もしていないワカメやネギを勝手に投入するのか。親切の押し売りとは、まさにこのことではないか」「全く同感である。誤った民主主義が招いた悪しき平等の典型例といえよう」「いかにもその通りである。個性というものを黙殺する恐るべき所業といっても過言ではない」といったような問題意識に溢れた鼎談が声高に行われるはずだったのである。そういう市井の声を聞かせることで、店側の猛省を促そうという意図だったのだ。店内の雑音に負けないように声高に語られなければならなかった。
 実際には、声高など、どこにもなかった。小声のひそやかな会話、というのが正しいようであった。
「なんで、頼んでもいないのに入れるのかなあ」
「ひとには好き嫌いがあるのになあ」
「なんとかしてほしいなあ」
 我々はお互いに顔を見合わせ、すぐに目を伏せた。
 すべては画餅に終わった。完敗であった。言葉は途切れ、我々は黙々とうどんをすすった。
 店を出た我々は、それぞれの胸の内でなにかと戦った。誰からともなく共同戦線の解消が提案され、すぐに了承された。
 我々は、とぼとぼと歩きだした。歩き慣れた敗残者の道を。

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171 98.03.15 「たかぎー」

 今年のダイナスティ・カップ第三戦は、いい試合だった。個人技のレベルが高いあんないいチームには、やっぱりまだ勝てないよなあ。私はバックスタンドにいたのだが、ゲイムの内容よりも気にかかる子供がいて、実のところあまり真摯な態度で観戦できなかったのであった。
 私の席より三列ほど前にいた彼は、不可思議な声援を放って、微塵も臆するところがないのであった。
「たかぎー、たかぎー、たかぎー」
 高木琢也を呼んでいるのか。今シーズン、サンフレッチェ広島から読売グループ宣伝部スポーツ課サッカー係に移籍した、アジアの大砲、高木琢也のことか。1967年11月12日に生まれて大阪商業大学を卒業しファンバステンに憧れてベンツE320に乗る、あの高木琢也のことか。
「たかぎー、たかぎー、たかぎー」
 なあ、少年よ、この日本代表チームに、高木琢也はおらんのだ。ああ、わかっているとも。そんなことくらい、いくらなんでも君も知っているだろう。君は抗議しているのだな。この危機を救うのは、高木琢也を措いて他に誰がいるのであろうか、そのように考える君の見解もわからないではない。しかし、それは幻想なのだ。中田を中盤に起用する以上、高木はいらない。カズもいらない。よおく見ておこうな。代表のユニフォームを着るカズを見るのも今日が最後だ。監督が代わるなり、中田が大怪我をするか極度の不振に陥るなりすれば、また復活の機会もあるだろうが、初めに戦術ありきで駒として選手は選ばれるのだから仕方がない。岡田監督の理想の絵が先にあって、代表選手はジグソーパズルのように集められるのだ。高木琢也のポストプレイがいかに優れていたとしても、監督がポストプレイは俺の戦術には馴染まないと考えれば、それまでだ。現在の日本代表のフォワードに求められているのは、中田という一個人の心を読んで的確に対応できる能力、ただそれだけなのだ。そういうものなのだよ、少年。
「たかぎー、たかぎー、たかぎー」
 それにつけても、少年の保護者は、彼の場違いな発言をなぜ止めようとしないのか。なぜ看過するのか。ひょっとして、保護者自身も高木琢也がこのフィールドに存在しないことに不満を抱いているのであろうか。そういう教育をしてきたのであろうか。あまつさえ、高木と連呼せよと予め言い含めておいたのではないか。いやいや、見ず知らずのひとに、そのような嫌疑を抱くものではない。ここはひとつ、少年の理想の発露として、彼の発言を捉えてみたい。
「たかぎー、たかぎー、たかぎー」
 少年は、大きくなったら高木になりたいのだ。大きくなったら高木琢也のように大きくなれるとは限らないのだが、そこは子供の浅墓さである。私が柴田勲に憧れたように、君も高木琢也に憧れるのであろう。その気持は、こう見えてもかつて少年だった私にもわかる。私は読売グループ宣伝部スポーツ課プロヤキュウ係の一番打者にはなれなかったが、そのかわり賭博で捕まったりはしていない。君も日本代表のフォワードにはなれないだろうが、悲観してはいかんぞ。
「たかぎー、たかぎー、たかぎー」
 そういうことではないのか。君はなにか他のことを主張しているのか。君が呼ぶ高木とは、もしかして琢也ではないのか。ブーか。高木ブーか。まさか君は、渡辺美里が君が代を斉唱したことに異議を唱えているのではあるまいな。君は、なにか。よもや、ウクレレを抱えた高木ブーに君が代を歌わせろ、などといった考えを持っているのではないだろうな。それは、ちょっとアレだぞ。いや、それは私もぜひ聞いてみたいが、それはちょっと、アレだ。いやいや、君が彼の楽曲にいかような見解を抱こうが、私の立ち入るべき問題ではない。それは重々承知している。しかしやっぱり、それはちょっとアレだぞ、少年よ。
「たかぎー、たかぎー、たかぎー」
 まだ言うか。いいかげんにしろ。こちらはちっともゲイムに集中できないではないか。
 彼はいったい何を世に訴えようとしているのか。考えているうちにゲイムは終わり、中国が勝利を得た。少年よ、チケット代、六千円を返せ。そう叫びたい気持でいっぱいである。


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172 98.03.16 「そこのけそこのけ」

「ニンニン」
 歩道を歩いていたところ、背後からそのような声が聞こえた。ハットリ君じゃないことは確かだが、かといってケムマキ君でもないだろう。とりあえず私には関わりのないことのように思われたので、さして気にも留めずそのまま歩き続けた。
 しかし、それは私の背中に向かって掛けられた声だったのである。
「ニンニン」
 今度は明らかに苛立ちを滲ませている。しかも私のすぐ背後から発せられている。気配を探ると、どうやら自転車に乗っているらしい。私を追い抜きたいようだが、それがままならず、いささかお怒りの御様子である。その自転車のベルは壊れているのだろう。ライダーは仕方なく自らの声帯を駆使することで、ベルの代用としているもののようだ。私の耳には「ニンニン」としか聞こえないが、おそらく「リンリン」と言っているのだろう。
 ちょうど、看板やら放置自転車やらが錯綜している箇所で、ひとが通り得るスペースはたいへん狭くなっている。私は足を速め、急いでその隘路を通り過ぎることに活路を見出そうとした。公道コースは抜きどころが問題だ。彼には束の間我慢してもらい、一刻も早く広いスペースに出たあとで、彼には存分に追い越して頂こうとする狙いである。
 しかし、私のそういう姑息な対処は、彼のお気には召さないようであった。全くもって、召さないのであった。どけどけ、すぐさま、脇にどけ、どけって言ってんだろ、といったところが彼の見解なのであった。
「ニンッ、ニンッ」
 怒っている。
 なにかしら妙なアクセントが気になるが、「おらおら、さっさとどかんかい、われ」といった切迫した主張が言外に明白に感じられる。キレたりされると困ったことになるので、私は仕方なく路肩の看板と放置自転車との隙間に身をよじ入れた。
 やれやれ。なにをそんなに焦っているのだろう、とも思うが、彼には彼の事情があるのだろう。さあ、オレはよけたぞ。あんたの道をつくったぞ。勝手に行ってくれ。
「あ」
 目前を通り過ぎる彼の姿を見て、私はいささか意表をつかれた。
 彼は若い黒人なのであった。驚く必然性はまるでないのだが、驚いてしまう私なのであった。人口十万人に満たない地方都市である。あまり黒人は見掛けない。そういうところで黒人に後ろから煽られるというのは、滅多にない体験なのではないか。
 してみると、彼は駅前に林立する英会話教室の講師で、講義の時間に遅刻しそうで慌てていたのだろうか。はたまた、この近くには陸上それも長距離に力を入れている企業があるが、彼はそこで次代のワキウリとなるべく研鑽を積んでいるのではないか。練習の時間に遅れそうだったのかも知れないが、自転車に頼るようでは遥々ニッポンまで来た意味がないのではないかと思う。
 彼の素性はどうでもよいが、「ニンニン」である。やはり「ニンニン」だったのか。誰か親切なニッポンジンが、彼に「この自転車のベルは壊れてるから、ベルを鳴らす必要があるときはリンリンと言うんだよ」と教えたのだが、彼の耳には「ニンニン」と聞こえ、彼はそう憶えてしまった。そんな経緯があったのかもしれない。
 一方で、あれは彼の母国語だったのではないか、という気もする。彼を育んだ土地では「どけ」という意味で「ニン」という言葉が使われるのかもしれない。
 私がなにやら感慨に耽っていると、歩道の先の方から、彼の「ニンニン」が聞こえてきた。あらあら。いつも同じように道行く人を蹴散らせるわけじゃないぞ。
 案の定、彼はどかそうとしたおにいちゃんに小突かれてしまい、「スミマセンスミマセン」と謝る羽目に陥った。しょうがねえなあ。私はウサギとカメの逸話を思い起こしながら、悶着を起こしている彼らの傍らをゆっくり歩き過ぎていくのであった。ニンニン。

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173 98.03.17 「御覧のスポンサー」

「この番組は御覧のスポンサーがお送りしました」
 と、発言したのは、日本テレビの女性アナウンサーである。彼女は彼女の業務を全うしたに過ぎない。どのみち録音であろう。
 日曜日の深夜である。正確には月曜日である。そろそろ寝なくちゃなあ、などと漠然とした義務感を脳裏によぎらせながら何気なくテレビの画面に目をやった私は、硬直した。
「ややややや」
 プロミス、アイフル、武富士。以上三社が「御覧のスポンサー」なのであった。他にはない。この三社だけが「全日本プロレス中継」のスポンサーなのであった。
「いつのまに、世の中はこのようになっていたのだ」
 私はとりあえず、目を丸くしてみた。丸くなっていたかどうかはわからないが、どうしていいかわからなかったので、してみた。何事も挑戦する姿勢が大切だ。
 ここまでこうなっていたとは知らなかった。ことここに至るまで、こうもこのようになっていたとは思わなかった。ここまで来たか消費者金融。ここまでやるか貸金業界。
 たしかに私の部屋のテレビ受像機は「全日本プロレス中継」を受信していた。しかし電気料金が無駄に消費されていただけのことで、私がその内容に興味を持つことはなかった。たまたま日本テレビが選択されていたに過ぎない。全日本プロレスの面々がなにやら苦闘していたが、それは彼等が好きでやっていることであって、私には私の生活がある。明日はシゴトかあ、やだなあ、早く寝ないとなあ、でも昼頃まで惰眠をむさぼってたからあんまり眠くないんだよなあ、といったような、ありきたりの生活である。
 ここ三十分ほどの記憶を遡ると、たしかに消費者金融のCMばかりだったように思える。さして気にも留めてはいなかったが、確かにスポンサーは「カネ借りなよ」と連呼していた。「カネなら貸すぜ」と喧伝していた。
 とはいっても、とうに夜半を過ぎれば、テレビのCM枠は貸金業界の楽園である。特に気になることはなかった。貸金業者だけがそれも競合する三社が共同して提供している番組が存在することを知るまでは。
 たとえばプロミス独占提供2時間スペシャルというのなら、わからないではない。昨今の貸金業はやたらに威勢がいい。ダイエーがホークスを売りに出したら、貸金業者が買い受けるに違いない。ナビスコ・カップがアイフル・カップになっても驚かないし、東レ・パンパシフィック・オープンが武富士・パンパシフィック・オープンとなってもうっかり見過ごしてしまうだろう。
 だが、三社共同である。これは新鮮であった。たとえば、トヨタ・ニッサン・ホンダがそんなことをするだろうか。キリン・アサヒ・サッポロがいったいそうした冒険をおかすだろうか。
 この貸金業三社は持たざる者の強みなのか、もうそんなふうに旧態依然としてちゃいかんよ、と言っているのである。政党を見よ、共同戦線の時代だ、と宣言しているのである。企業の独自性なんか幻想なんだもんね、と断言しているのである。一致結束して市場の底上げを図ろうぜ、と主張しているのである。
 か、どうかは、知ったこっちゃありませんが。
 むしろ、なぜこの三社が、といったあたりに興味を覚える。アコムはラララと歌っている場合なのか。レイクはほのぼのしていてそれでいいのか。日テレの営業部は、いったいどういう営業活動をしたのであろう。どちらから持ちかけた話なのか。なんだかどろどろした裏話が背後にうごめいていそうで、たまらない。
 競合他社との呉越同舟は、禁忌でもなんでもなかった。実にどうも、なんでもなかったのである。いっそ、広告活動の原点に立ち返ったすがすがしい競争であるとさえ言える。同じ土俵で勝敗を決しようではないか、と言っているのである。私はしばし、感動した。
 それにつけても、消費者金融に手を出しやすいと決めつけられてしまった「全日本プロレス中継」視聴者層の立場は、今後いったいどうなってしまうのだろうか。

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174 98.03.24 「歩行者グランプリ」

 私の前に道はある。市の道路課か街路課の皆さんがつくったのであろう。私の後ろにも道は出来ている。当たり前だ。ああ、自然よ。父よ。って、もういいか、そんなこた。
 私の往く道は、駅へと続いていた。駅に向かっていたので、当然である。駅に向かっていたのに馭に辿り着いたら、それはあまりに情けない。これまでの人生はいったいなんであったかと問い直さねばならなくなる。問い直せば収拾がつかなくなるに決まっている。そういうわけで、駅へ向かっているのなら、駅に辿り着くしかないのであった。哀しい話ではないか。
 あ、いや、べつに哀しくもなんともないな。
 で、馭というのは、いったいなんであろうか。はて。
 まあ、わからないことはわからいままにしておくのが、庶民の知恵というものであろう。私は、駅へと至る道をごく普通の速度で歩いていたのである。私の普通と世間の普通との間には往々にして著しい落差が認められるが、いまはそうした寂しい現実には目を背けたい。
 背けていたところ、いきなり両側から私は追い抜かれた。私は普通の速度で歩いていたのだから、両側から私を追い抜いた二人は異常な速度と断ぜざるをえない。二人とも歩いてはいるが、それはほとんど競歩の世界なのであった。
 なんだなんだ、いったいなにが起こったのだ。私は、びっくりしたり驚いたりしてみたが、いや、それはあんまり変わらんな。とにもかくにも、驚愕したのであった。
 右側から私を追い抜いたのは学生風のおにーちゃんであった。若さに任せた大股でぐいぐいと進んで行く。とりあえずセナとしておこう。左側から私を追い抜いたのは会社員風のおとーさんであった。プロストとはまったく似ても似つかないが、便宜上そう呼んでおこう。
 二人は、無言で張り合っているようであった。追い抜き、追い抜かれ、並び、また追い抜いては追い越されているらしかった。なにかちょっとしたボタンの掛け違いのような些細な発端があったのだろう。行き掛かり上、張り合わなければならなくなったようであった。くだらない意地に支配された二人なのであった。
 意地はたいていくだらないが、ひとたびこやつに取り憑かれたら、これはもう、貫くしかない。貫かねば、自分が崩壊するのだ。私も、足を速めた。この勝負の行方はぜひとも見届けねばならない。二人との間隔はなかなか縮まらなかったが、私にも野次馬としての意地がある。ちっぽけな意地だが、それは貫かれられなければならない。意外なことに、私にもアイデンティティというものはある。私は野次馬としてこの世に生を享け、野次馬として死んでいく運命にある。私は歯を食いしばって、二人の背を追いかけた。
 フィニッシュラインは駅にあるのだろう。二人の胸の裡に翻っているであろうチェッカードフラッグは、いったいどちらに振られるのか。
 二人は道路の右側の歩道を歩いている。即ち、次の右コーナーはセナがインをとる。金物屋コーナーと、のちに私に命名されることになる直角の右カーブに、セナは猛進して突入した。
 若さがセナのアキレス腱だった。いささか速度が超過していた。老練なプロストがその隙を見逃すはずはなかった。セオリー通りにアウトインアウトの軌跡を描いたプロストは、クリッピングポイントでインを差し、オーバーランしたセナを鮮やかに抜き去った。だてにシャカイの荒波を泳いできたわけではない。歩幅は小さくとも、合理的なライン取り。練達の会社員プロストには、その点に一日の長があった。
 一方、学生セナにも武器はあった。アキレス腱となった若さこそが、彼の切り札だった。その脚力もまた賛えられてしかるべきであろう。道は短いストレート。セナはプロストのスリップストリームに入り、ストレートエンドの手前で一度右サイドにモーションをかけたあと、鋭くプロストの左サイドに切り込んだ。お手本通りの戦術であるが、セナの脚力が勝り、二人はサイドバイサイドで次の左コーナーに進入した。セナの思惑通りの展開である。あっけなくプロストを追い抜いた。
 道は左へと緩やかなカーブを描いている。幾多の歩行者をたじろがせてきた高速コーナーであり、斯界では旭町の130Rとして名高い。前に立ったセナは、セオリー通りにインをきっちりと守った。縁石、正確には歩車道境界ブロックぎりぎりを、舐めるようにインベタで攻めていく。遠心力をこらえながら、最短距離を歩み続ける。歩速は落ちない。テクニックとパワーが高度な次元で結び付いた芸術的な歩きだ。
 さしものプロストも、付け入る隙を見出せない。それどころか、セナに置いていかれまいと精一杯の歩行であるようにも見受けられる。プロスト、ここは踏んばり所だろう。このコーナーを乗り切りさえすれば、まだチャンスはふんだんにある。これまでの半生で積み上げてきた老練なテクニックを活かすポイントは、まだまだ行く手に控えている。プロストもここはじっと堪えて次の機会を伺うべきと判断したのか、セナとの離間を最小限に食い止めることに専念するつもりのようだ。
 とはいえ、高速歩行に変りはない。私としては辛い展開となった。時おり小走りにならないと、二人についていけない。あくまで歩行のストイシズムに徹する二人には申し訳ないが、ここはひとつ、報道の立場ということで勘弁してもらおう。って、いつから報道関係者になったのか、たかだか野次馬のくせに、猪口才な野郎だな。すまん、オレが増長していた、許してくれ。いやいや、わかればいいんだわかれば。などと、内心でもうひとりの自分と不毛な論争をしているうちに私も130Rを通過した。
 予期せぬ出来事が勃発した。プロストが一気にセナの背に迫り、その距離は瞬く間に急接近した。二人の前方に、横道から不意に障害物が出現したのだ。歩道いっぱいに広がって歩く三人組の女子高生というものであり、自らの存在がいかに世間に迷惑を及ぼしているかといった類の疑念をけして抱くことのない集団だ。セナが真っ先に被害を蒙った。快調に飛ばしてきたセナが一気にスローダウンした。このセナは、周回遅れの処理が苦手らしい。女子高生に青旗を振るオフィシャルがいないのも不運だった。
 その反面、プロストは果断だった。眼前の状況を見て取るや否や、いきなりエスケープゾーンに出た。即ち、車の通行が途絶えた一瞬を見計らって車道に降りたかと思うまもなく、一挙にセナと女子高生を抜き去り、素早く歩道に戻った。好機を逃さない鋭い観察力が功を奏したといえよう。己の判断に対する満々たる自信に裏打ちされた敏捷な動きもまた、素晴らしい。円熟の歩きである。
 セナは焦った。プロストに続こうとしたものの、車道は再び車に満ちている。その間にもプロストの背は刻一刻と遠ざかっていく。セナは強引に女子高生の間に割り込んだ。暴挙である。たちまち、彼女達は悲鳴をあげた。しかし精神的に追い詰められたセナに、彼女達を気遣うゆとりはなかった。「このスケベオヤジ」などといった彼女達の罵声を背に受けながら、余裕を喪失したセナはがむしゃらにプロストを追った。
 セナのすぐ背後まで迫っていた私も、セナに続いて彼女達を追い抜いた。中腰になり、前方に差し伸べた右手をひらひらさせながら、「どうもどうも、お嬢さん方、ごめんなすって」といった態度を滲ませたのがよかったのかもしれない。セナに続く私を、女子高生達は咎めなかった。彼女達も、他者の通行を妨害していた己の誤謬にようやく気づいたらしい。それ以上セナを責めたてることもなかった。
 サーキット上で起こったすべての事象を巧みに利用するプロストは、この機に悠々とリードを築いていた。セナも徐々にその距離を縮めつつあったが、駅はもう近い。右手のワンブロックを占めるデパートを過ぎれば、駅前のペデストリアンデッキへ続く昇り階段がある。その階段を昇り切れば、駅は目前だ。セナに残された時間はあまりなかった。しかも悪いことに、これから階段に至る歩道は、放置自転車の巣窟でもあった。自転車シケインとも呼び習わされるこのコース最大の難所を、セナは克服できるのか。
 セナにも、まだチャンスがあるだろう。現在のビハインドを保持できるのなら、望みはある。階段、そしてそれに続く周囲に制約のないペデストリアンデッキ。セナの得意な区間と看て間違いはない。勝敗の行方は、最後の最後までわからないようであった。
 プロストの歩きは冴え渡っていた。小刻みな歩調で軽やかに放置自転車を躱していく。華麗な歩きだ。いささかテクニックに難のあるセナは、その驚異的な脚力で劣勢を挽回せんと試みるが、なかなか思い通りにはいかないようだ。私は、二度ほど自転車を倒しては立て直し、大いに遅れを取った。おまけに膝に打撲を負った。ちょっと、痛い。ほんとは、とても痛い。報道者生命の危機である。もはやレポートできないのか。私は暗澹たる思いを抱えて、遠ざかりつつある二人の姿を目で追った。
 そのとき、レースは唐突に終了した。
 プロストが傍らのデパートに入ってしまったのだ。茫然とした様子でしばらく立ち止まっていたセナだったが、やがてとぼとぼと歩きだした。私も心持ち片足を引きずりながら、彼のあとに続いた。
 負けだ。セナの負けだ。プロストが本当にデパートに用があったかどうかには、いささか疑義が残る。優位を保った状態で勝ち逃げの挙に出たのかもしれない。しかしそれでも、勝ったのはプロストであり、負けたのはセナだ。なにより、屈辱に堪えているかのようなセナの肩の震えが、それを雄弁に物語っている。セナが、負けた。
 だが、実は、負けたと思い込まされているだけなのであった。
 ゆっくりと階段を昇り切ったセナは、そこで立ち止まった。握った拳がわなわなと震えている。ひと呼吸遅れて、私もセナと同じ人物を目撃した。今まさに駅の構内に吸い込まれていくその人物こそは、プロストのおとーさんに他ならなかった。
 一階からデパートへ入ったプロストは、二階からペデストリアンデッキに出て、栄光のチェッカードフラッグを、今、受けたのだ。鮮やかな作戦勝ちであった。プロストはおそらく、自らの脚力を鑑みてこのリードをゴールまで保つことはできないと賢明にも悟り、一見無謀とも思える大胆なショートカットを敢行したのだろう。その策略たるや、やはり歴戦の強者ならではの見事な勝負勘の賜物であろう。
 おとーさんの勝ちだ。完勝だ。おにーちゃんの負けだ。完敗だ。
 いいレースを観させて頂いた。野次馬冥利に尽きる貴重な体験であった。ただただ満足である。
 脱力しているセナのおにーちゃんよ、まあ、しょうがない。次こそは、勝とうな。先ほどの女子高生が君を不快げに見やりながら追い抜いていくが、そんなことは気にするな。さあ、駅まで歩いていこうじゃないか。とにかく、歩いていこうじゃないか。
 この遠い道程のため。って、もういいんだったな、そんなこた。

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175 98.04.01 「トイ芯物語」

 9821C714807が、彼の背番号であった。
 たかだかトイレットペーパーの芯である。単なる紙の筒である。
 白い衣をすっかり剥ぎ取られ、心細げに佇む一個の紙の筒である。
 右手にあてがって左目をつむり掌を筒の脇に添えれば、ああら不思議、掌に穴が! といった用途には使えるだろう。そうやって、幼少の頃の理科の時間を懐かしむことはできる。更には、たくさん集めてボンドやカッターなどを持ち出し何らかの工作物を製作するといった壮挙にうって出るのも一興である。そうやって、遥かな日々の図工の時間の記憶を蘇らせることはできる。
 過去を振り返る趣味がないのなら、空洞の存在について思索してみるのもいい。ドーナツの穴はいかにして存在し得るかという古来より繰り返し論議されてきたアレだ。筒の中には何もないのか、空洞があるのか。そんな益体もない主題を脳裡で遊ばせてみるのもたまにはいいだろう。そんなことじゃなく、限られた生を生産的に過ごしたいといった向きには、紙筒健康法なる詐術を編み出してその書を世に問うといった挑戦がお勧めだ。世の中、何が当たるかわからない。印税生活を謳歌するのもまた愉しからず哉である。
 こうして具体例を挙げると、所詮はトイレットペーパーの芯のくせして意外に使える奴じゃん、などと思わず錯覚してしまうが、実際には誰もが忙しい。電話をかけなければならないし、酒を飲まなければならないし、テレビを見なければならない。トイ芯ごときにかかずりあっている暇はない。結局、トイ芯有効活用の道はあえなく閉ざされ、哀れなり次の燃えるゴミの日までの命かな、といったような顛末を辿ることになるのである。
 やっぱり使えない奴だったのだ。
 しかし、そんなトイ芯にもアイデンティティがあるらしい。9821C714807という製造番号らしきものがそれだ。大王製紙株式会社が生産販売しているエリエールという商品のトイ芯なのだが、その胴体に一連の番号が印刷されているのである。管理社会の精粋は、けして日の目を見ることのないこうした末端にまで浸透しているのであった。
 たとえば、同社のお客様相談室に電話をかける。
「あ~、おたくのトイ芯、うん、トイレットペーパーの芯だがね、少し歪んでおるのではないかね。私はたいへんな不快感を蒙ったのだが、なんとかならんものかね。9821C714807だ。至急調査の上、誠実な回答を待っておるよ、わはははは」
 などと、ふんぞりかえって苦情を申し立てようものなら、ただちに明解な返答がなされる仕組みになっているのだろう。なにも高笑いすることはないが。
「先ほどのお尋ねの件でございますが、これは弊社の○○工場で本年二月に製造されたものでございます。製品の管理には充分気をつけておりますが、万が一のことがございましたら、誠に遺憾に存じます。つきましては、その品を料金着払いにて御送付頂けませんでしょうか」
 たぶん、そんな展開になるのだろう。管理されているのである。
 更に深く突っ込んで尋ねれば、9821C714807を背負ったこのトイ芯が、いかなる経路を辿ってこの辺境の部屋に漂着したかがすべて判明してしまうのかもしれない。最終経路は既にわかっている。カスミストア取手店からこの部屋だ。運搬したのは私である。
 十二ロール詰めのトイレットペーパーであった。してみると、同包されていた別のロールには、また別の番号が付されているのであろうか。疑問は解決されなければならない。私は交換したばかりのロールをトイレから持ち出してきた。
 こんなことをしていいのだろうか。枯渇しつつある森林資源を無駄に廃棄して、いったい許されるだろうか。私には良心はないのか。
 などと自分を責めているうちに、あっというまに未使用のロールから新たなトイ芯が取り出された。足元は白山の紙だかりである。ついにこんなことをするようにまでなってしまったか。
 とはいっても、9821C714802なのであった。なんだか嬉しい。違うのだ。下一桁だけが、違うのであった。一本一本に固有の番号が振られているのだ。どうでもいいことに決まっているのだが、私の胸中には新鮮な驚きが満ちるのであった。
 いろいろと考えさせられるトイ芯であった。明後日の燃えるゴミの日に、そのささやかなジンセイを閉じる運命のトイ芯である。一期一会、といった馴染みのない言葉が脳裡を横切る。9821C714806号でも9821C714808号でもなかった9821C714807号のトイ芯に対して、私はいま、深い感謝を捧げたい。ありがとう、9821C714807号。
 9821C714802号も、よくやった。

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176 98.04.07 「ビニール傘がない」

 テレビのニュースで、男性記者がレポートをしている。生中継だ。なにかの裁判の現場となった場所で、右手にマイクを握っている。
 さすれば、左手は何をしているか。これがまた、傘を握っている。雨が降っているからだ。雨が降っているならば、傘をさす。私もそうするし、あなたもそうするし、件の記者もそうする。濡れるのが嫌だとか、単なる習慣だとか、好きだったおばあちゃんの遺言だとか、その理由は様々だろう。どんな動機であれ、雨が降れば私達は傘をさす。あるいは、なんの動機もいらない。そういうことになっている。
 かっぱを着用することもあるだろうし、ただずぶ濡れになっていたいときもあるだろうが、多くの場合、私達は傘によって雨をしのぐ。
 件の記者の事情も変わらない。都会では自殺する若者が増えているというのなら、その現場に赴き、なんらかのレポートをなさねばならない。傘がない、などと甘ったれたことをほざいている状況ではない。ビニール傘をさして、現場の臨場感を電波に乗せなければならない。それが、彼の使命である。仕事である。彼が選んだ道である。
 ビニール傘である。降雨となれば、駅の売店やコンビニエンスストアの店頭を飾るあの安っぽい傘である。安っぽい上に実際に安い例のあの傘である。
 テレビの画面に登場する記者は、ほとんどすべてビニール傘を携えている。イブ・サン・ローランやミチコ・ロンドンやウンガロの傘をさしては出てこない。彼の経済状況や趣味嗜好を想像すれば、そういったブランド物の傘を持って現れるのがいかにも自然であるように思えるが、実際にはそうではない。
 ビニール傘である。ビニール傘をさして、彼は登場する。生地は透明だ。把っ手の部分は、必ずと言っていいほど白と相場は決まっている。王道を往くビニール傘を持って、彼は視聴者の前に姿を見せる。まず例外はない。現場の記者は透明なビニール傘を携えて出現する。
 見栄え、特に照明に起因する事情で、透明が尊ばれるのであろう。それは、わかる。
 が、はたしてそれだけの理由か。彼等は、それ以外の傘を不謹慎と決めつけてはいないか。雨を避ける道具ではなく、演出上の小道具としてビニール傘を採用してはいないか。わずらわしい非難を避ける、ただそれだけのためにわざわざ安価なビニール傘を調達しているんじゃないのか。
 かねてよりそうした疑問を抱いていたところ、私はさきほどついに現場を押さえるに至った。裁判の報道は終わり、交通事故のニュースとなった。新たなる現場に、また別の記者が派遣されていた。段取りに不都合が生じたのであろう。いきなり画面が切り替わり、現場のディレクターとおぼしき人物と打ち合わせ中の記者が登場した。明らかにうろたえている。
 その手には派手派手しい傘が握られていた。ベネトンに他ならない色使いであった。
「見ーっけっ」
 私は大喜びで、ブラウン管を指さした。
 気を取り直した記者は、悔しそうにレポートを伝え始めた。横合いから差し出された透明なビニール傘を邪険に振り払う仕草が、キュートである。もはや、遅いのだ。取り繕うことはできない。さぞかし辛かろう、無念だろう。普段着を視聴者の前に曝さねばならないのである。正装たる透明な傘を身につけずに、私物のベネトン傘をさして、とある事故現場からレポートを伝えなければならないのである。彼の職業倫理はずたずたである。心なしか震える声の裏側に、私は彼の激しい動揺を嗅ぎ取った。
 それにつけても、スタジオで安閑としているキャスターよ、マイクを引き取るや否や開口一番に「失礼いたしました」は、なかろう。ベネトン傘を握り締めて悔恨に打ち震えている記者の立場は、いったいどうなるのか。
 どうなるのかって、上司に怒られちゃうんだろうけど。

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177 98.05.01 「突然のレモンバーム」

 たとえば、愛媛県は伊予市内で飼われている犬の名前で最も多いのは何か。
 といった事柄と同様に、私にはまったく興味がないのである。
 興味はないのだが、手にしている。レモンバームとかいう植物の種だ。この小さな紙袋に何十粒かが納められているようだ。理性的に考えると、そうなる。
 狐につままれたことはまだないし今後もなかろうかと思うが、とりあえずそんな気分だ。茫然となった。
 昨日まで、私とレモンバームの間には、なんらの接点もなかった。お互いがお互いのつつましやかな生活を、それぞれに営んでいたのである。レモンバームのほうはどうか知らないが、取るに足らない営為ではあっても、私は私でそこそこの幸福を享受していたのである。
 そこへ突然のレモンバームだ。
 私は混乱するばかりである。
 突然のレディーボーデンとか突然のバニーガールといったものであったなら、なんらかの対応は可能だろう。むさぼり食うなり押し倒すなり、誰の目にもわかりやすい反応はできる。欲を喚起する反応ならば、たやすい。
 しかるに、レモンバームである。どうしてよいかわからない。欲しいかどうかという以前に、まるで興味がない。正確にいえば、レモンバームに興味がない自分を初めて見出したのである。植えろ、と、いうのか。植えろっと言われてもっ今では遅すぎたっ。などとヒデキの替え歌を口ずさむのが精一杯である。それにつけても、私の精一杯は、かなり物哀しい。
 シューキョーのひとが無理やりに私の手に押しつけていったのである。宗教のひとである。ホドコシの一環であろうか。呼び鈴に促されてドアを開けると、いきなりなんやかんやとしゃべり出した。毎度お馴染の焦点の合わない瞳と心がこもっていない流暢な口調だ。こちらに口を差し挟むいとまを与えてくれない。三ヶ月ならとってもいいよ、でも洗剤はもう一箱オマケしてよ、などと軽口を叩く余裕をいっさい与えてくれない。で、挙げ句の果てにレモンバームの種だ。
 駅前でポケットティシューを配った体験があるのだろうか。並々ならぬ鮮やかな手際で、素早く差し出すのであった。絶妙の呼吸であり、私はついつい受け取ってしまった。
 なぜ、種なのか。なぜ、レモンバームなのか。シューキョーのひとの発想は、突飛である。凡人には想像もつかない。
 ハーブの一種だろう。そのくらいは想像がつく。しかし、なぜ、ハーブなのか。こともあろうに、なぜ、レモンバームなのか。シューキョーのひとよ、私はあなたがわからない。
 将棋の羽生さんや沖縄のハブさんなどと私との関係は希薄である。バーブ佐竹さんとも、とりあえず関わりがない。しかし、ハーブたるところのレモンバームさんとついつい関係を持つに至ってしまったのである。宿酔いを抱えてふと目覚めると傍らにうら若き女性の裸形があった、といった体験はまだないが、そういったところであろうか。
 しばらく狼狽は続き、私はようやく我に返った。
 返さねばならぬ。なんとしても、返さねばならぬ。
 幸いなことにシューキョーのひとの布教活動は隣室で留まっており、私はいささか友好的とは言いかねる押し問答の末、返却に成功した。
 あぶないところだった。耐え難い重荷を背負うところだった。くわばらくわばら。油断も隙もないな。おそるべきは、シューキョーのひと也。
 さて、相変わらずまるっきり興味はないのだが、愛媛県は伊予市内で飼われている犬の名前で最も多いのは、やっぱりオーソドックスに「シロ」だと思う。
 いや、ぜんぜん興味はないんだよ、ほんとほんと。

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178 98.05.02 「ありがとう山本君」

 尾行されている。最初は気のせいかと思ったが、どうやら思い過ごしではないらしい。
 怖い。いやその、実に怖い。
 帰途の夜道である。あたりに人影はない。
 駈けだしたくなる心情をぐっとこらえ、とりあえず足を速めると、尾行者も一定の距離を保ってついてくる。歩速を緩めても同様の対応だ。明らかに尾行されている。
 近年世間で喧伝されているストーカーというものであろうか。いやいや、そんなことはなかろう。いったい、私がストーキングの対象となりうるタマであろうか。それはありえない。自慢じゃないが、私はそれほど魅力のある人相風体を有してはいない。欺瞞じゃないが、本当だ。
 きっと私は、自らが勝手に描いた幻想を怖がっているだけなのだ。勘違いなのだ。振り向けば「なんだ。ストーカーじゃなくて須藤か。脅かすなよ~」といった展開になるのだ。なんちて。などと、上滑り気味の駄洒落で自分を落ち着かせようとするが、すぐに須藤という友人はいなかったことに思い当たり、恐怖はますます募っていくのであった。今ならもれなく私の友達になれます須藤さん。助けてください、全国の心ある須藤さんっ。
 そもそも駄洒落で心を落ち着かせようというのは、なにか人の道に背く行為ではなかったか。一方では、そんな場違いな反省も芽生え、いよいよもって惑乱は深まっていくのであった。
 ストーカーでなければ、私は殺されるのかもしれない。尾行者は私を殺そうとしているのだ。自分の知らない間に他人から深い恨みを買っていることがあっても、とりたてておかしくはないだろう。だいたい人は、誰かから恨まれているものである。気づかないだけだ。まあ、いちいち気づいていたらジンセイやってられない。
 たとえば某月某日、私がとあるスーパーで辛子明太子一パックを購入したとしよう。それは最後の一パックだった。ほんの数秒遅れて辛子明太子を入手できなかった前田吟(仮名)は、妻の厳命を全うすることができなかった。彼はその後、「満足に辛子明太子も買って来れない愚かな男」として、妻から激しい叱責を受けた。屈辱であった。そんな前田が私を逆恨みしたとしても、致し方ないところであろう。ある日、とはつまり本日のことだが、鬱屈を抱えた前田は彼の目前から辛子明太子を奪った男を発見した。殺してやる、と前田は咄嗟に決意し、今まさにそれを実行せんとしておるのだ。
 ひええ。と、私はすくみ上がった。落ち着け前田。もっと自分を大切にしてはどうか。まだ遅くはないぞ前田。好物が辛子明太子ではない女性と、新たなジンセイをやり直してみてはどうだろうか。
「ライター」
 と、前田は言った。
 うひゃあ。私は飛び上がった。
 ライターとはなんだ、私を火だるまにしようというのか前田。早まるな、落ち着いて話し合おうじゃないか前田。
 もちろん、尾行者は前田吟(仮名)などではなかった。恐怖に駆られて振り向いた私の目に映ったのは、ランドセルをしょった少年であった。低学年とおぼしい。
「落としたよ、ライター。駅で」
 少年は、ライターを差し出した。私のものである。
「君の苗字は、前田じゃないよね。もちろん、須藤でも」
 なにが、もちろんなのか。激しく取り乱した私は、およそ見当違いな質問を彼に浴びせかけるのであった。
 当然のことながら、少年はきょとんとした。
「山本、だけど」
 どっと安堵が押し寄せ、私はへなへなとその場にしゃがみこんだ。腰がくだけつつも、目線を君の高さと合わせるためにしゃがみこんだんだよ、といった演技を振りまくのも忘れない。遅すぎる虚勢、といったものであろうか。
「そ、そうか、山本君か。あ、ありがとう」
 私は、山本君からライターを受け取った。
「ありがとうありがとう。そうかそうか、駅で落としちゃったのか」
 ここまで、かなりの距離がある。声を掛けそびれているうちに、私が不必要に身構えてしまい、余計に声を掛けにくくなってしまったらしい。すまなかった山本君。私が愚かであった。自らが産み出した妄想に苛まれていた私が馬鹿だった。反省している。許してくれ山本君。二度とこんなことはしないと誓うよ山本君。
 私が内心で固く誓っていると、山本君はあたりを見回した。
「ここはどこ」
 私の背中ばかりを見つめていた山本君は、迷子になってしまったのであった。申し訳ない山本君。
 結局、駅まで山本君を送り届けた。反対方向に遠去かっていく山本君の背中を見送りながら、私は煙草をくわえた。問題のライターで火をつける。
 山本君の親切が身に染みる一服であった。ありがとう山本君。
 さて、帰るか。言っておくが前田吟(仮名)、もうあんたの幻影に怯えるさっきまでの愚かな私ではないぞ。

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179 98.05.07 「めくるめくほどめくる」

 妙なことにこだわり続けるうちに変な習慣が身についてしまったひとはいるもので、就寝前に必ずコサックダンスを三分間踊らないと落ち着いて眠れない輩や居酒屋ではまず最初に鮭茶漬をたいらげてからでないと気持ちよく飲酒に突入できない人物などが、私の周囲ではよく知られている。ずいぶんヤな周囲に取り込まれたものだが、なんにせよ彼等はそうしないと落ち着かないし気持ちが悪いのだから、仕方がない。自らに染みついた習慣を遂行せねば居ても立ってもいられないというのだから、勝手にそうしてもらうしかない。
 そういうひとはどこにでもいるのだろう。
 たとえばこのおとうさんの場合は、月の変わり目にカレンダーを切り取るまさにその時刻に並々ならぬこだわりを持っているらしい。その述懐を聞くともなしに耳にした限りでは、その執着ぶりにはもはや病的な気配が漂っていることは否定しがたい。
 本人もいささか後ろめたいのか、相棒のおとうさんに縋るのであった。
「いや、どうにも気になって気になってしょうがないんだよ。キノシタさんは、そういうことない?」
「ないよ、そんな。ヤノさん、それ、ちょっとおかしいよ」
 キノシタさんは冷淡に言い放つのであった。
 私もキノシタさんの見解にまったく同感である。ヤノさん、それ、ちょっとおかしいよ。
 電車の中でたたたま隣り合わせただけの見ず知らずのおとうさん達だが、もしどちらかに同心せざるを得ないのならば、私は迷わずキノシタさんに与したい。キノシタ派の走狗と呼ばれて結構だ。ヤノ派の黒幕の座が用意されていたとしても御免蒙りたい。
 つらつら聞いてきたが、ヤノさんの性癖は異常である。いや、だったらいったいなにが正常なのかと問い詰められても困ってしまうのだが、少なくともヤノさんと共に生活するのだけはなんとしても避けたいと強く願わずにはいられない。
 毎月一日午前零時零分にカレンダーを切り取らないと気持ちが悪い、というのがヤノさんが抱えた習癖であった。午前零時零分零秒に近ければ近いほど絶頂感は高まる。たいていの場合、終わろうとしている今月分の一枚を半分ほどめくりながら、時報を待っている。時報が鳴り新たな月が訪れた瞬間、ヤノさんはびりびりと先月分になりたてほやほやの一枚を一気にめくって引き破る。
「いやあ、それがめくるめく快感でねえ」
 とは、ヤノさんの言である。駄洒落のつもりであろうか。
 その後のヤノさんは忙しい。当然のことながら、カレンダーは家中に存在する。各部屋を遍歴し、すべてのカレンダーを新たな月に衣更えさせなければならない。ヤノさんは喜々として家中を練り歩く。しかも、通常の家庭の倍の量のカレンダーである。月に一度の愉しみを増幅させるための努力を、ヤノさんは怠りはしない。
「それに、二ヶ月単位のカレンダーは飾ってないんだ」
 ヤノさん、自慢げである。
「あんなのは、邪道だよ」
 邪道か。邪道だったのか。ヤノさん、あなたの行く道は私には邪に見えるが、私の気のせいなのであろうか。
 しかし、それでも理性は残されているらしい。月に一度の愉しみだからこそ感動が高まるのだと、ヤノさんは主張するのであった。
「だから、日めくりカレンダーは我が家にはおかないんだ」
 なにが「だから」なのかがそもそも不可解だが、それは確かにそうだろう。
 キノシタさんは、うなずきながら聞いていた。一言も発しない。ようやく発したかと思えば、件の冷淡な発言である。私も唱和したい。ヤノさん、それ、ちょっとおかしいよ。
 目下のヤノさんの悩みは、この春から高校生になった長女の態度なのだそうである。もちろんヤノさんは、毎月一日の午前零時三分頃に長女の部屋に乱入する。そこにも当然カレンダーは存在する。私は、ヤノさんの長女に同情を覚えた。幼少期からの習慣で父親の奇癖には慣れっことなっていた長女だが、予めわかっているとはいえ、さすがにそんな深夜に自室にやって来られるのはたまったものではなかろう。彼女の生活は家庭というものから離れつつあるのだ。
「最近、ナツミの奴、露骨に嫌な顔するんだよ」
 ヤノさんは弱々しくこぼすのであった。
 そりゃあ、ヤだよな、ヤノナツミちゃんよ。

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180 98.05.12 「幸せはきっとまた」

 遥かな記憶を遡れば、物質の三態とは、気体、液体、個体、の三つであった事実に巡り会うことができる。たしか、教科書、理科の教師、五年二組の学級委員であった河田さんなどが、そう語っていたはずだ。
 身近な記憶を遡れば、人間の三態とは、幸せ、幸せでも不幸せでもない、不幸せ、の三つであった真実に思い当たる。パチンコ屋における悲喜劇、雑誌の星座占い、保険勧誘員の中村さんなどが、そう語っていたように思う。私の思い違いかもしれない。
 多くの人々の常態は幸せでも不幸せでもないらしい。私の常態は、たいがい幸せである。能天気なこれまでの人生を思い返せば、幸せになるのは意外に簡単であることを、私は知っている。どうしたものか、世間の人々はすぐそこに転がっている幸せに気づかない。誰も拾わないのなら、私が頂くしかない。
 今回の幸せは、「バヤリース さらさら野菜〈スープ仕立て〉」である。
 いま私の中では、さらさら野菜の話題でもちきりなのであった。私の裡に潜むあまたの人格すべてが、さらさら野菜を賞賛してやまないのであった。こぞって、さらさら野菜に歓迎の意を表しているのであった。
 缶入りで、いかにも清涼飲料水の風を装っているが、野菜スープである。コンソメ風味のコールドスープとも言える。野菜ジュースとコンスメスープがブレンドされたもの、といったところか。
 アサヒ飲料株式会社が販売している。私はテレビコマーシャルでその存在を知り、スーパーなどを訪れた際に探索の手を広げていたのだが、さらさら野菜の幻影は逃げ水のように私をせせら笑うばかりで、いっこうにその姿を現さないのであった。うまいに違いないのである。憧憬ばかりが徒に増幅していく日々が続いた。私が気に入ったのだから、ほどなくして市場から消え去るのは明らかだ。早く見つけなければ、一生巡り逢うことなく終わってしまう。私は、焦燥に追われていた。
 そうして、ついに私の儚い思いが天に届く日が来た。駅前にあるアサヒの自動販売機が、さらさら野菜を商っていたのだ。かねてチェック済みの販売機であるから、最近取り扱うようになったのであろう。ずるいではないか。導入したのなら、なぜ真っ先に私に電話を寄越さないか。いったい私をなんだと思っているのか。
 なんとも思っていないわけで、ぽんと投げ出すように「買えるもんなら買えばよいであろう」とでも言いたげにサンプルの缶が提示されているのであった。
 いそいそと買いましたよ、私は。
 これが実にどうもうまい。
 いやはや、うまかった。あっという間に飲み干して、空き缶を携えながら帰途に就いたのであった。
 その後も、感動が去っていかない。頭の片隅から離れない。そうしてついに、湯船につかりながら、私は或る着想を得るに至った。
「エウレカ!」
 古式に則って、私はそうつぶやいた。伝統は大切にしなければならない。
 風呂を出て、着替え、私はまた駅前に赴いた。今にして思えば、これが原因で風邪をひいたのだと思われる。が、そのときはなにも気にならない。自らの卓越した着想に心を奪われ、ただただ新たなさらさら野菜を求めることに専心するのみであった。
 なにも十本も買うことはないのだが、買った。私はこういうときに歯止めが効かない。ひとり殺してしまったのなら、あとは何人殺そうが同じだ、といった危険な領域に足を踏み入れている。
 ポリ袋に黙々と缶を詰め込む男の後ろ姿に鬼気迫るものを感じ、オー・プラスを買うことができなかった。思い出すのもおぞましい、といった口調でそう語る主婦田中道子さんなのであった。
 誰だよそれは。
 部屋に戻った私はさっそくカクテルをつくった。このとき使用したウォッカはだいぶ前に開封したもので、今にして思えばいささか変質していたように思われるのだが、このときはわからない。浮き浮きした気分で、にわかバーテンダーと化した。
 ブラディメアリはトマトジュースを使う。派生して野菜ジュースで代用したことはある。しつこいが、意外にいける。一方で、ブルショットというカクテルが存在する。ビーフブイヨンとウォッカが巡り逢うと、ブルショットは誕生する。
 そういった歴史を背景に、ウォッカとさらさら野菜が電撃的な邂逅を遂げたのである。命名しなければならない。にわかバーテンダー冥利に尽きる一瞬である。エウレカしかないだろう、と決めつけた。
 私は、幸せとエウレカを享受した。予想にたがわぬ味であり、無上の時間が私を柔らかく包み込んだ。幸せになるのは簡単だ。私はエウレカを堪能しながら、エウレカの更なる向上について思いを巡らせた。今回は準備不足でブラックペッパーしか用意できなかったが、次回はレモンなどを絞り込んでみよう、リー&ペリン・ソースも欠かせまい、スノースタイルはぜひ盛り込むべきだし、セロリスティックをマドラーに起用しなければならないだろう。この胸のときめきを、いったいどう表現すればよいだろう。こうして幸せに浸りながら、私は眠りに落ちた。
 朝と共に、不幸せが訪れた。中間がなかった。幸せは、一気に不幸せに昇華していた。
 宿酔いなのだろうか。この胸のむかつきを、いったいどう表現すればよいだろう。宿酔いの経験は少なからずあるが、これほど消化器官がむかつくのは初めてだ。
 やはり無理な出逢いだったのか。失敗だったのか、エウレカは。
 いやいや、そんなことはない。私は、他の可能性を考えた。まずウォッカが怪しい。新品を買ってきてもう一度試すべきではないか。風邪の気配もある。体調が万全になったら、あらめて挑戦してみる価値はあるはずだ。
 そんなわけで、さして重くはない風邪だが、私は快癒のときをじっと待っている。ウォッカも購入済みだ。さらさら野菜はまだ六本も冷蔵庫で眠っている。
 今はまだ不幸せだが、幸せはきっとまた訪れるはずだ。私は待っている。幸せを見つける私の目が節穴ではなかったことを証明してやるのだ。
 とかなんとかいいながら、能天気にビールを呑んでいては風邪はなおらないだろうか、やはり。

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