「モントリオールの炎」
1982年第1戦、南アフリカGP。デビュー戦。予選不通過。
第2戦、ブラジルGP。予選不通過。
第3戦、アメリカ西GP。予備予選不通過。
リカルド・パレッティの決勝レースは、遠かった。チームメイトでありナンバー1・ドライバーである。ジャン-ピエール・ジャリエは3戦とも決勝進出を果たし、リオデジャネイロでは戦闘力の劣るオゼッラFA1C・コスワースDFVをゴールまで導いていた。
この時、パレッティは23歳。混乱をきわめたこの年、F2からペイイング・ドライバーとしてF1の舞台にステップアップを果たした。度の強い眼鏡をかけた細面のこのイタリアンは、日曜日にステアリングを握れない現状に苛立ちを募らせていた。同期には、ロベルト・ゲレロ、テオ・ファビ、ラウル・ボエセルなどがいた。生きていたなら、パレッティも今頃インディカーを走らせていただろうか。
ナンバー2に与えられるマシンが充分なセッテイングを施されることはなかった。2年前からF1に参戦し始めた弱小コンストラクター、オゼッラに不足しているものは限りなくあった。予算、技術、時間。すべてが枯渇していた。優れたリーダー、優れたエンジニア、そして優れたドライバー。勝利に必要な要素は皆無だった。ただ参戦しているだけのチームだった。もちろん、他の多くの家内工業的なコンストラクター同様、情熱だけはあり余っていた。
当然のことながら、パレッティも滾る情熱を持っていた。持て余していた。ぶつける場がなかった。チームは、ジャリエのことしか頭になかった。パレッティは大した金額を持ち込まなかったくせにドライブしようとする不逞な輩に過ぎない。
ドライバーは、もっとまともな車に乗せてくれればいくらでも速く走ってやる、と考える。チームは、その程度のドライビングしかできない奴にいい車を与える必要はない、と考える。弱小チームの悪循環が、オゼッラとパレッティを縛りつけていた。
彼等は身動きできなかった。
1982年はF1界が迷走した年として知られている。ニキ・ラウダが復帰し、ジル・ビルヌーブが逝った。5人が2勝を挙げ、そしてそれが最多勝だった。チャンピオンは、初優勝のただ1勝しかなかったケケ・ロズベルグの手に落ちた。FOCAとFISAの対立はサンマリノGPで頂点に達し、FOCA系すなわちイギリス系のチームの大量ボイコットという形をとって一気に噴出した。
パレッティの幸運は、その第4戦のサンマリノGPで訪れた。
マクラーレン、ブラバム、ウィリアムズ、ロータスなどがボイコットした結果、出走は14台となった。予選どころではなかった。パレッティは、このイモラ・サーキットでついにスターティング・グリッドに自らのマシンを並べた。ジャリエとは予選タイムにして2秒弱の開きがあったが、カーナンバー32は、ついにこの年初めての出走を記録した。
19周目にサスペンショントラブルでリタイアを余儀なくされたが、リカルド・パレッティはついに記録を残した。1982年第4戦イタリアGP、18周リタイア。
取るに足らないちっぽけな記録だった。
一方、ナンバー1・ドライバーのジャリエは、晴れがましい記録を残していた。35歳の老獪なベテランが、この好機を逃すことはなかった。表彰台の一歩手前までDENIMカラーの運転し難いマシンを運び、オゼッラに創設以来初めてのポイント3をもたらした。
パレッティの鬱屈が氷解することはなかった。
このイモラでは、後にパレッティの人生の最期に関わるドライバーが優勝している。ディディエ・ピローニは、フェラーリのチーム・オーダーを無視して、チームメイトのジル・ビルヌーブから勝利を奪った。ビルヌーブは激怒した。フェラーリのチーム内に深刻な対立が生じたが、すぐにそれは消失した。
次の第5戦のベルギーGP予選で、ビルヌーブはその生涯を終えた。
そのベルギーGP、第6戦モナコGP、第7戦アメリカ東GPと、パレッティは決勝レースを走れなかった。
パレッティの暗鬱な日々は6月初旬まで続いた。
イモラは例外だ。パレッティはそう考えていた。あれはまともなレースじゃない。チームもジャーナリストも、同じように認識していた。
ちゃんとしたレースで、ちゃんと走りたい。出走して競いたい。
パレッティの焦燥は、暴発寸前までに高まっていた。
パレッティは、あの不本意なサンマリノGPを除けば、ただの一度もフィニッシュラインを越えたことがなかった。決勝で、1周もしたことがなかった。0周もしたことがなかった。後方グリッドからスタートして0周目のフィニッシュラインを越えたことすらなかった。
パレッティは、自分の才能を疑いながら、モントリオールへ向かった。
第8戦、カナダGP。ほんの一ヶ月前にゾルダー・サーキットで手の届かない場所へ去ったジル・ビルヌーブの祖国の人々は、様々な思いをこめてそのサーキットをジル・ビルヌーブ・サーキットと名付け、F1サーカスを待ち受けた。
そして、悲劇は繰り返された。
パレッティは、ついに成し遂げた。とうとう、予選を通過した。29台中、23位だった。
専属メカニック達が喜んでいる姿を横目で眺めながら、パレッティは記者のインタビューに応じた。興奮して、なにを喋ったのかわからなかった。
決勝の日曜日が来た。
1982年6月13日。カナダ、モントリオール、ジル・ビルヌーブ・サーキット。
ウォーミングアップ・ランが大過なく終わった。パレッティは、スターティング・グリッドについた。
シグナルが変わり、パレッティはアクセルを踏み締めた。コスワースDFVが咆哮した。
同じ瞬間、ポールポジションのディディエ・ピローニは、恐慌を来していた。彼のフェラーリ・エンジンがストールしたのだ。ピローニは慌てて手を挙げた。やめろ、レースを始めるな。
だが、ピローニのオフィシャルへの合図は遅すぎた。レースは始まってしまった。
ピローニは、身をすくめて待った。もはや、なすすべもない。後方のすべてのマシンが自分のマシンをよけてくれるのを待った。何台もの車がかろうじて彼をかわして、次々と第一コーナーへと殺到していった。
だが、ピローニの僥倖のタネは23位スタートのマシンで底をついた。
ピローニは激しい衝撃を受けた。
よけようがなかった。時速160km、と伝えられている。
パレッティは、そこにいてはならないピローニのフェラーリに激突した。
パレッティのオゼッラFA1Cは、たちまち炎上した。
ピローニは無事だった。次の第9戦オランダGPでは優勝している。
だが、第12戦のドイツGP予選で両脚複雑骨折の重症を負い、F1ドライバー生命を絶たれた。その5年後、パワーボートに転向したピローニは事故死する。死に急いだ、と報道された。
パレッティは、ついにフィニッシュラインすら越えられなかった。ただの1周のタイムさえ、F1の歴史に刻み込むことは叶わなかった。あの不完全なイモラのレースを除けば。
炎に包まれたパレッティには、すぐ目の前にあるフィニッシュラインが見えていたのか。それは、遥かな距離だったのか。
1982年という混乱の年を象徴する出来事に、ことごとくリカルド・パレッティは関わっている。
F1の決勝レース中における死亡事故は、これ以後、ぱったりと途絶える。
1994年のイモラまでは。
炎は、もはやどうしようもない勢いで、マシンを包んでいた。モントリオールの空に、どす黒い煙が立ち登った。
リカルド・パレッティは、そんなふうにして焼死した。
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