232 99.10.13 「天秤座がいっぱい」

 警察署の狭いロビーはたいへん混雑していた。
 警察と私がお互いに歩み寄るとき、ほとんどの場合そこには道路交通法が介在する。道路交通法こそが警察と私との細い絆である。
 一方、誕生日と私がお互いに歩み寄るのは、三年ごとである。三年おきにしかお互いに意味を見出さないのが、誕生日と私との醒めた関係である。
 本年の誕生日はその三年の節目にあたり、私としては警察に出頭せざるをえなかった。即ち、運転免許の更新である。更新は大切である。後進に道を譲るわけにはゆかぬ。更新せねばならぬ。その昔、うっかり失効をやらかしている私である。二の舞は踏むまい。失効してはならぬ。膝行してでも更新せねばならぬ。
 ならぬならぬと呟きながらなんやかんやの手続きを終え、私は空いた椅子に腰掛け、自らの名が呼ばれるのを待っていた。周囲の混雑を眺めているうちに、私は三年ごとにとらわれる思いに、またしてもとらわれるのであった。
 ここにいる方々は、みんな誕生日が近いのだなあ、と。免許の更新は一ヶ月前からだから、このロビーにいる皆さんの誕生日は最大限離れていても一ヶ月以内なのだなあ、と。
 その日、私は自分が更に恐ろしい事態に置かれていることに気づいた。更新当日の日付を考慮し、ロビーにいる皆さんはほとんどが天秤座の星々の下に誕生していることを理解するに至ったのである。
 視力検査で落第しそうになって困じ果てているあのおばちゃんは、天秤座である。住民票も持たずにやって来て住所変更せよと息巻くあのおとうさんも、天秤座である。孫らしき青年の手を借りながら覚束ない足取りで歩くあのおじいちゃんも、天秤座である。写真うつりが悪いから撮り直しさせろとだだをこねるあのおねえちゃんも、天秤座である。みんな、天秤座である。私も、天秤座である。
 風説によると、星座だか宮だかそのような分類によって、なんらかの性格性癖性向などが表されるものであるらしい。浅学非才ゆえによくわからないのだが、その名称から察するに、天秤座とかいったものは、二股膏薬というかどっちつかずというか優柔不断というか表裏比興というか、なんというかそういった申し訳ない性格を象徴しているものと考えられる。己の人物像を考え合わせると、更にその確信は深まる。確信は自信に変わったりもする茨城県警取手警察署午前11時なのではあった。信念の人の場合は自信が確信に変わるらしいのだが、優柔不断な私達の場合、確信を得て初めて自信を抱けるのであった。
 即ち、このロビーにいる老若男女は人としていささかの問題を抱えている、と断じて差し支えないであろう。竹を割ったようなとか、小股の切れ上がったとか、そのようなきっぱりとした表現とは無縁の面々である。ぐにゃぐにゃで、へろへろで、でへでへである。「いやあ」と頭をぽりぽり掻いてその場をやり過ごし続けてきたお歴々である。およそ信念などといった概念の極北に位置する方々である。清濁併せ呑まれて、場当たり的に世渡りをしてきた変節漢の集合体である。
 皆さんは私の分身であり、私は皆さんの分身である。みんな仲間だ。天秤座だ。
 ロビーを眺め渡し、私は呆れた。よくもまあ、そういう人間の屑ばかりが群れ集ったものである。見方によっては、得難い情景である。貴重である。誰かがここで「天秤座のひと、手を挙げて」と言ったら、全員がさっと声の主を振り返り、ぱっと手を挙げちゃうのである。とりあえず世の中の動静に逆らわないのが、天秤座である。
 おばちゃん、視力検査なんかなんとかなると思ってただろ。よくわかるよ、そういう高をくくった態度は。オレもそうだよ。でもね、あんまり警察を甘く見ちゃいけないな。おとうさん、住所証明なんかどうにでもなると舐めてただろ。よくわかるよ、そんな不遜な姿勢は。オレもそうだよ。でもね、あんまりお役所仕事を甘く見ちゃいけないな。おじいちゃん、とりあえず運転免許くらいは更新しとくか程度にしか深く考えてないだろ。よくわかるよ、そういう浅墓な考え方は。でもね、あんまり車の運転を甘く見ちゃいけないな。おねえちゃん、自分はもうちょっと見栄えすると思い違いしてただろ。よくわかるよ、そういう見当違いのナルシシズムは。オレもそうだよ。でもね、あんまり現実を甘く見ちゃいけないな。
 何事も甘く見る性癖が身についた私達である。これまでのジンセイがなんとかなってきたのでこれからもなんとかなっていくのだろう、といった漠然とした行動指針に基づいて生きていく私達こそが天秤座である。なあみんな、そうだろう。と、皆さんに挙手して頂こうかと考える茨城県警取手警察署午前11時04分なのではあった。
 ロビーは相変わらず混雑していた。信念の人ばかりが集まる日もあったろう。猜疑心の強い人達が群れ集った日もあったろう。むやみに朗らかな人々が集結した気味の悪い一日もあったに違いない。
 この日、そこには、ぐにゃぐにゃでへろへろででへでへで、舐めた態度で世渡りしていく人々がいた。
 私の名が呼ばれ、私は新しい運転免許証を入手した。
 私は思った。撮り直してよ、と。

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