202 98.10.27 「無作為に抽出されて」

 10月29日が誕生日という人々は少なくないだろう。結婚記念日という人々もけして少なくはなかろう。少なかろうが、初めて殺人を犯した記念日としている人もまたいるだろう。稀有であろうが、初めて地球外の生命体と愛をかわした日であると主張してやまない人もいるに違いない。悲喜こもごもなのが10月29日である。
 そんな10月29日であるが、東京都市圏交通実態調査というものの実施日であったりもするのだから、なかなかどうして10月29日は侮れない。10月29日の面目躍如といったところであろうか。これだから10月29日ファンはやめられない。
 ある日、私は「住民基本台帳から無作為に抽出」されてしまったのであった。なんということをされるのだ。抽出してしまったのは、茨城県の東京都市圏交通実態調査実施本部である。なんということをするのだ。宝くじには当たらないが、こういったどうでもいい調査の対象には選ばれてしまう不遇な私なのではあった。
 実施本部は「将来の総合的な交通計画を策定するため」「東京都市圏」「の各都県市と協力して」「人の動きの実態について調査することにな」ったと申し述べている。いかにも本部らしさを漂わせる文言である。本部に対する期待に背かない立派な本部であるといえよう。本部とはかくありたいものである。ちなみに、「ほんぶ」である。本部耕平は「もとべこうへい」といって私の高校時代の級友であるが、この「もとべ」の話ではない。ほんぶである。茨城県の東京都市圏交通実態調査実施本部なのである。この本部が「人の動きの実態」を調査する、といってきかないのである。総務庁から承認番号21220を取っちゃったんだからお願いだよ、といってきかないのである。
 わかったわかった。しょうがねえなあ。もう、予算組んじゃったんだろ。調査して消化しないと来年度の予算がつかないんだろ。わかったわかった。協力するよ。こう見えても、私は情に訴えられると嫌とは言えんのだ。
 「人の動きの実態」とはいえ、「政府の転覆を企む不穏な動き」といったものではない。「みなさまが日頃の生活の中で、鉄道・バス・自動車などをどのように使われておられるか、また徒歩の状況がどうかなど」を調査したい、そのように本部は語るのであった。交通の観点から市井のひとびとの日常を暴きたい、と、このように申し述べているのであった。
 「徒歩の状況」である。本部の言語感覚は、そういう物凄いことになっている。「遅刻しそうでいつも走っている、これを徒歩と呼んで差し支えないか」とか「毎朝一時間ほど散歩をする習慣があるのだが、この移動は交通調査に加味すべきものであるか」とか「木曜日は病院の日でねえ。一キロほどを一時間もかけてゆっくり歩いていくんだけどねえ、これも正直に答えなきゃいかんかねえ、由紀子さんや」「そうですねえ、どうしましょうかねえ、お義母さん」などと、本部は人心を不安に陥れてやまないのであった。
 私も不安に陥れられた一派である。私の前に、二枚の調査票がある。いったい、私はこの調査票にちゃんと答えられるだろうか。不安である。あの煩雑な国勢調査のほうがまだしも簡単である。なにをどう答えたらよいのか、そこに辿り着くまでに異様に理解力を求める調査票なのであった。不安である。本部の期待通りに答えられる世帯はどれほどあるのだろう。きっと、私はまともに答えられないだろう。だめだ。自信がない。もう、おれはだめだ。何を訊かれているのか、さっぱりわからない。集計しやすいようにという着想に引きずられるばかりで、答えやすいようにという視点が見事に欠落しているのではないか。そうした邪推を、ついつい抱いてしまいそうになる。いかんいかん、本部を信じるんだ。って、無駄な葛藤を弄んでいる場合ではなかった。
 「施設の場所は」って、いきなり問い掛けられて戸惑わないひとはいるのだろうか。この設問はひっきりなしに続くのだが、その最初の設問の場合、ほとんどすべてのひとがなすべき回答は「自宅」なのである。本部本部、応答せよ。「自宅」を「施設」と考えるひとはいないんじゃないか本部。
 そしてまた、「施設」から「施設」まで移動する過程を、本部は「トリップ」と呼ぶのであった。ある種のオクスリを服用した結果ある一線を越えるのがトリップであるかとも思えるが、本部はそうは考えていないのであった。ある地点からある地点への移動こそが本部が考える「トリップ」である。単に「移動過程」でいいんじゃないかとも思えるが、本部は「トリップ」に固執してやまないのであった。どうもそのあたりの執拗なこだわりが腑に落ちないが、本部には本部なりの深謀遠慮があるのだろう。よくわからないが、がんばれ本部。
 私もがんばらねばならない。10月29日全日の移動の経過を克明に本部に報告せねばならないのである。とある一日における調査対象のサンプルを、本部は所望しているのであった。私の場合は、10月29日こそがそのDデイというかXデイというかテヤンデイなのであったべらぼうめ。
 調査票を携えて我が庵を訪うた調査員は、「10月29日の行動をその調査票に記せ」といった趣旨の発言をなすのであった。
「あ~、その日はね、シャヨ~で新潟に行ってるの、前の晩から」
 突発的社用によって、新潟方面で観光まがいの所業を致す予定の私なのであった。非常にイレギュラーなシゴトである。
「はあ」
「それじゃ、目的のサンプルにならないでしょ」
「そうですね~」
「どうしましょ」
「困りましたね~」
「翌日の30日は、日常的というかごくごく当たり前の一日を過ごすんだけど」
 一日くらいずれたってどうってことないよね、と言ったつもりである。調査員はすかさず乗ってきた。
「あ、それで手を打ちましょう」
「打ちますか」
「打ちましょう」
 麗しきかなオトナの知恵。無作為の抽出に甘んじているばかりの私ではないのだ。無作為に抽出された者には無作為に抽出された者なりの意地があるのだぞ本部。
 しかししょせんは猿知恵であって、いくら読んでも記入の仕方を理解できない私なのであった。10月31日には回収に来るというのだが、それまでになんとかなるものであろうか。いっそ「わかりませんでした(号泣)」と大書きして返却してやろうかとも思うが、それも悔しい。
 今のところ、シゴトを休んで一歩も外へ出ないという案が有力な対応策となっている。やっぱりこれしかないだろう。
 それにつけても、本部耕平は元気だろうか。

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