199 98.08.31 「チョキ男の悩み」

 そんな私にだって悩みはある。
 昨日は、昼食のメニューに悩んでいた。カツ丼とひとしきりの悦楽に身を任せるか、親子丼と束の間の穏やかな時間を過ごすか。私は岐路に立っていた。結局私はカツ丼を選択したのだが、定食屋のおばちゃんの「ごめんなさいね~、カツ終わっちゃったの~」との無責任な発言により、急転直下、一時は背を向けた親子丼様の御慈悲に縋ることになった。かくしてこの問題は、「迷ったときには親子丼」という教訓を残して終息した。
 悩みというものは、尽きない泉からこんこんと湧いてくるものである。
 本日の悩みはまだ解決していない。
 あの遊びはなんというのだったろう。その呼び名がわからない。幼い頃によく興じていたのだが、あの遊戯の名称はいったいなんといったのか。
 悩んでいる。思い出せない。深刻な雰囲気を高めるために、眉間に皺を寄せようとしてみた。鏡に向かって、顎に手を当てるといったポーズを取りながらしかめっ面をつくってみたが、どうもうまくできない。天知茂への道は険しい。難しいものである。私の眉間には皺が宿らないようであった。皺に不自由な眉間なのであった。
 しかし、眉間に皺を刻まずとも、悩むことは可能なのである。現に、私は悩んでいる。このとき、私が人でなしであることは考慮してはならない。ここだけの話だが、それだけは内密にしておいて頂きたい。なお、周知のとおり、「ここだけの話」とは、「あなただけが知らない話」と同義である。
 ジャンケンをする。勝った方が何歩か進める。グーで勝つと三歩、チョキ並びにパーで勝ったときには六歩、それぞれ先に進むことができる。そうしてジャンケンを繰り返しながら、どちらが先に目的地に達するかを競う。単純な遊びである。その名が思い出せず、私の悩みは深まっているのであった。
 勝敗の決し方には、コールドゲイムもあった。一方がジャンケンに連勝を重ねていくと、双方の距離は開いていく。そのうちにお互いの手が見えなくなるほど遠去かってしまい、今日も私は負けるのであった。
 さよう、私は往時よりジャンケンには弱い。なぜなら、チョキを出すのが習い性となっているからである。どういうものか、チョキを出してしまう。好きとか嫌いとか理論的にどうこうとかいった問題ではない。出してみると、指はチョキをつくっているのである。そんなになにかを切りたいのであろうか。現代心理学ではバルタン星人願望と呼ばれる深層心理の発露であろうか。いや今のは例によってキイから出任せだが、なぜか私はチョキを出してしまうのである。そうして、堅実にグーを繰り出してくる地に足の着いた人物に敗退するのである。三歩でもいいから確実に勝ちを拾っていこう、少しずつでもいいから前に進んで行こう。そのように考える人物に破れ去るのであった。
 グー、恐るべし。三歩の根拠はグリコである。グ・リ・コ、と三音節だから三歩である。「グ・リ・コ」と大きな声を出しながら、三歩をあるく。しかるに、なぜグリコなのか。子供に親しまれているとはいえ、なにゆえに一私企業が、そうしたほのぼのとした局面に顔を出したのか。謎である。NHKで放映されたときは、なんと言い換えたのであろう。緑の中を走り抜けてく真っ赤なグリコ、は、やっぱりちとまずかろう。いや、そういうことじゃなく。
 やはり、グリコが流行らせた遊びというのが妥当な線か。グリコ提供の子供番組から誕生したのではないか。定かではないが、そう思えてならない。
 なんとなれば、チョキの言い換えである。チョコレートなのである。グリコ陰謀説、あながち的外れともいえまい。チョコレート、それはそれでいいだろう。しかし、なぜ六歩なのか。「チ・ヨ・コ・レ・イ・ト」あるいは「チ・ヨ・コ・レ・エ・ト」で六歩になるのである。間違っているのではないか。「かいじん20面そう」は、ここのところが気にくわなかったのではないか。そういう原体験が彼あるいは彼等をして、非道へ赴かせたのではないか。
 まず、長音「ー」である。長音は単独では機能しないことでその孤高の地位を築いてきたわけだが、どうしたものか、この遊びにおいては強引に「イ」又は「エ」に置き換えられてしまうのであった。なんにせよ、特に目くじらを立てるほどのことではない。無理に発音しようとすれば、そうならざるをえない。殊に、「イ」については、「ー」よりも原音に近いものと思われる。
 問題は、拗音「ョ」である。なぜいきなり「ヨ」に昇格するのか。チョコだったものが、いきなりの千代子である。二音が三音に増えてしまうのである。猪口才である。いったい、どこの千代子なのか。「チョ・コ・レ・イ・ト」が正しいのではないか。幼い私はたいへん不合理に感じていたものである。しかし、口に出すことはなかった。なぜなら、私がジャンケンに勝つときは、相手はパーを出しているのであり、この余分な一歩の恩恵を多分に享受していたのである。千代子さん、あのときはありがとう。
 更には、促音「ッ」さえも、この遊びにおいては謎の変貌を遂げていた。パーはパイナップルに変換されていた。慣例に従い、「パ・イ・ナ・ツ・プ・ル」と、これも六歩を得る。「ッ」の巨大化である。大きい「ツ」である。大津である。津ではない。ともに県庁所在地ではあるが、滋賀と三重ほども異なってしまうのだ。甲賀と伊賀の暗闘の歴史もあり、事態は複雑化していくのであった。
 だいたいが、パインとアップルからの造語である。アップルがアツプルになっては、あまりに情けない。林檎の清涼感が掻き消え、唐突にあつぷるしくなってしまうのである。あ。しまった。いまの駄洒落は不用意であった。なかったことにしてもらいたい。反省している。自己嫌悪にも陥っているが、いま私はそれを必死に押し隠して、懸命に堪えているところである。
 なぜ私はこうも粗忽なのであろう。悩むところである。
 この瞬間から悩みの内容が変わってしまったが、私は心が狭いので一時にひとつの悩みしか持てないのである。
 遊びの名前? どうでもよいではないか、そんな些細なことは。

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