197 98.08.16 「当該猫の行方」

「猫を返してください」
 この貼り紙をどう見るかね、ワトソンくん。
 思わず立ち止まらざるを得ない貼り紙であった。書いた者の苦衷に満ちた心情がまざまざと伝わってくる貼り紙なのであった。
 その訴状は一昨日から貼りだされた。毎日その前を通り過ぎる一軒の民家の玄関に、細長い紙が貼ってあったのだ。筆ペンとおぼしき筆跡である。書き初めのように、「猫を返してください」である。当然のことながら盆と正月は一緒に来たりはしないわけで、やはりこの時期に「初日の出」としたためるのも変だろう。かといって、時節に鑑みて「御先祖様、おかえりなさい」とかますのも奇を衒いすぎている。で、何を書くかといえば、「猫を返してください」である。なんだか、飼い主の思考形態においては、そうなっているらしいのである。
 飼い猫が行方不明になったので、猫を返してください、である。
 誰だか知らないけど、猫ばばした奴、返してやれよ、オレは責めないから。ただ猫の手を借りたかっただけなんだろう、わかってるよ、返してやれよ。などと、思わず胸裏に兆す情動を抑えきれない。ついつい、ほだされてしまう私なのであった。うわべだけだが。
 しかし、飼い主は責めるだろう。最愛のペットである。コンパニオンアニマルである。従属物である。ぶっちゃけた話が、所有物である。当該猫の所有権を有していると思い込んでいるから、「返して」と言い募るのである。当該猫が自然にそなえている生存権、欲望、性癖などは、いっさい顧慮されない。
 盗難された、あるいは誘拐された、というのが、飼い主の判断なのであろう。だから、返してください、と宣言して恥じない。
 いや、恥を忍んで貼り紙の儀に及んだのか。
 わからない。わからないが、「返して」は、いかがなものか。
 実は、当該猫は首輪につながれていたのである。首輪は鎖につながれていたのである。その鎖は固定されていたのである。しかもそこは野外である。猫の額ほどの庭である。けして、飼い主の家の中には入れない当該猫なのではあった。ちっぽけな猫小屋が、当該猫の住みかなのであった。
 猫は、そんなふうには飼わないものではないか。
 犬には犬の、猫には猫の、接し方があるのではないか。当該猫の行動範囲はせいぜい二十猫身ほどであった。一匹の猫として、それは不憫すぎやしまいか。
 猫にさしたる興味がない私ですらそう考えるのだから、猫好きのひとにとっては、その情景は耐え難い苦痛なのではなかったか。動物愛護の観点から、なにかしら問題はなかったか。
 ワトソンくん、私は、愛猫家が当該猫を救出あるいは解放したと見るのだが、どうかね。いや、ワトソンくんはここにはいないが、こういうときはワトソンくんに同意を求める古式があるようなので、呼びかけてみるのである。ワトソンくん、君は今どこにいるのか。だいたいワトソンくん、私は君に会ったことがないぞ。
 たとえば、こんな犯人像が想起されるだろう。かねてより当該猫の拘束状況に義憤を覚えていた愛猫家左派、前田吟であったが、ついに堪忍袋の緒が切れた。夜陰に乗じて庭に侵入し、当該猫を首輪から解き放ったのだ。こんな家に飼われていたのでは、猫に小判だ、というのが前田の主張であった。この場合、猫が小判に相当するのだが、思考が混乱するのであまり深く考えてはならない。猫に鰹節、前田に猫、といったところか。猫を被っていた前田吟、とんでもないことをやらかしたものである。前田は自宅に当該猫を連れ帰ったが、これがまた猫屋敷である。大量の猫が暮らしている。どんな猫でも拾ってくるうちに、ついには他人様の猫にまで手を出してしまった前田なのであった。もはや見境がない。杓子も盗難しているに違いない前田は、猫撫で声で猫可愛がりである。偏愛のあまり、前田の劣情の注ぎ具合はいささか歪んでおり、家からは一歩も出さない。当該猫の自由はここにもなかった。ちなみに前田は、猫背で猫舌である。
 どうかねワトソンくん。どんどん間違った方向へ行ってしまったが、ま、気にするな。
 猫を飼うことは不可能である、といった話を聞いたことがある。けして飼うことはできない。ともに暮らして頂くのだ。というような見解であった。そんな話を思い出しながら、私は路上に佇み、貼り紙の文面を眺めるのであった。
 私はふと疑念を覚えた。この「猫」という漢字は間違ってはいまいか。
 「けものへん」に「苗」で「猫」だろう。「けものへん」が支配してこそ、動物であるところの「猫」という漢字が成立する。ところが、この貼り紙の字はそうではない。「けものへん」と「田」が並立し、その上を「くさかんむり」が覆っているのである。「くさかんむり」に支配されているのである。となれば、植物ということになる。むむむ、あのネコは植物であったのか。ネコジャラシやネコヤナギの仲間であったのか。植物にしては、猫の目のようにやけに目まぐるしく動き回っていた記憶があるが、ネコクサとはそうしたものなのかもしれない。似て非なる生命体だったのだ。動物愛護団体も手出しはできない。光合成をするネコなのであった。ここで「きへん」に「猫」などといった例の方向に話を持っていくかというと、そうではないのだよワトソンくん。ただ、飼い主が字を間違っただけである。間違いは誰にでもある。
 が、この乾坤一擲の呼びかけの冒頭で誤字をしでかしてしまうのはいかがなものか。この重大な局面で、誤字である。痛恨の極みであろう。現場に舞い戻った犯人に「むふふふ、ワシが盗んだのは猫だもんね、ネコクサなんかじゃないもんね」と、嘲笑されてしまうのが関の山である。せめて脱字であったなら、すくいようがあったのではないか。「を返してください」との文面を読んだ犯人が、「ワシが盗んだのはなんだったのだ」と頭を抱えているところをタイホすればよいのである。
 当該猫は、いまどこにいるのであろう。なにをしているのであろう。
 私は、先祖の墓参りに行っているのではないかと考えるのだが、どうかねワトソンくん。

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