171 98.03.15 「たかぎー」

 今年のダイナスティ・カップ第三戦は、いい試合だった。個人技のレベルが高いあんないいチームには、やっぱりまだ勝てないよなあ。私はバックスタンドにいたのだが、ゲイムの内容よりも気にかかる子供がいて、実のところあまり真摯な態度で観戦できなかったのであった。
 私の席より三列ほど前にいた彼は、不可思議な声援を放って、微塵も臆するところがないのであった。
「たかぎー、たかぎー、たかぎー」
 高木琢也を呼んでいるのか。今シーズン、サンフレッチェ広島から読売グループ宣伝部スポーツ課サッカー係に移籍した、アジアの大砲、高木琢也のことか。1967年11月12日に生まれて大阪商業大学を卒業しファンバステンに憧れてベンツE320に乗る、あの高木琢也のことか。
「たかぎー、たかぎー、たかぎー」
 なあ、少年よ、この日本代表チームに、高木琢也はおらんのだ。ああ、わかっているとも。そんなことくらい、いくらなんでも君も知っているだろう。君は抗議しているのだな。この危機を救うのは、高木琢也を措いて他に誰がいるのであろうか、そのように考える君の見解もわからないではない。しかし、それは幻想なのだ。中田を中盤に起用する以上、高木はいらない。カズもいらない。よおく見ておこうな。代表のユニフォームを着るカズを見るのも今日が最後だ。監督が代わるなり、中田が大怪我をするか極度の不振に陥るなりすれば、また復活の機会もあるだろうが、初めに戦術ありきで駒として選手は選ばれるのだから仕方がない。岡田監督の理想の絵が先にあって、代表選手はジグソーパズルのように集められるのだ。高木琢也のポストプレイがいかに優れていたとしても、監督がポストプレイは俺の戦術には馴染まないと考えれば、それまでだ。現在の日本代表のフォワードに求められているのは、中田という一個人の心を読んで的確に対応できる能力、ただそれだけなのだ。そういうものなのだよ、少年。
「たかぎー、たかぎー、たかぎー」
 それにつけても、少年の保護者は、彼の場違いな発言をなぜ止めようとしないのか。なぜ看過するのか。ひょっとして、保護者自身も高木琢也がこのフィールドに存在しないことに不満を抱いているのであろうか。そういう教育をしてきたのであろうか。あまつさえ、高木と連呼せよと予め言い含めておいたのではないか。いやいや、見ず知らずのひとに、そのような嫌疑を抱くものではない。ここはひとつ、少年の理想の発露として、彼の発言を捉えてみたい。
「たかぎー、たかぎー、たかぎー」
 少年は、大きくなったら高木になりたいのだ。大きくなったら高木琢也のように大きくなれるとは限らないのだが、そこは子供の浅墓さである。私が柴田勲に憧れたように、君も高木琢也に憧れるのであろう。その気持は、こう見えてもかつて少年だった私にもわかる。私は読売グループ宣伝部スポーツ課プロヤキュウ係の一番打者にはなれなかったが、そのかわり賭博で捕まったりはしていない。君も日本代表のフォワードにはなれないだろうが、悲観してはいかんぞ。
「たかぎー、たかぎー、たかぎー」
 そういうことではないのか。君はなにか他のことを主張しているのか。君が呼ぶ高木とは、もしかして琢也ではないのか。ブーか。高木ブーか。まさか君は、渡辺美里が君が代を斉唱したことに異議を唱えているのではあるまいな。君は、なにか。よもや、ウクレレを抱えた高木ブーに君が代を歌わせろ、などといった考えを持っているのではないだろうな。それは、ちょっとアレだぞ。いや、それは私もぜひ聞いてみたいが、それはちょっと、アレだ。いやいや、君が彼の楽曲にいかような見解を抱こうが、私の立ち入るべき問題ではない。それは重々承知している。しかしやっぱり、それはちょっとアレだぞ、少年よ。
「たかぎー、たかぎー、たかぎー」
 まだ言うか。いいかげんにしろ。こちらはちっともゲイムに集中できないではないか。
 彼はいったい何を世に訴えようとしているのか。考えているうちにゲイムは終わり、中国が勝利を得た。少年よ、チケット代、六千円を返せ。そう叫びたい気持でいっぱいである。

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